第57話 秋の初風、石のおと (9)

 「何もめでたかぁないだろ」


 ミケが本気で呆れたような声を上げた。


「そうか? 昔話の原型じゃ、赤ずきんは食われてお終いだぜ。そっちの方が正しい」


 喋りながらもイーゴリは、じりじりと立ち位置をずらしつつある。一方のミケは、隙なく身構えたきり扉の前から動こうとしない。


「森の奥は狼の領域。そこに踏み込んだ間抜けドゥラークは食われても仕方ない。それが教訓って時代があった。……で、今の時代、この世の全ては怪異の領域だろ? オレ達がいつどこで何を食おうが、文句言われる筋合いはねえぜ」

「んな話は知ったこっちゃない、人間との文句の言い合いは勝手にやってくれ。俺はただ、自分と縁のある子供が取って食われるのをボケッと見てる訳にはいかんのさ」

「はッ」


 イーゴリは鼻先でミケの返答を笑い飛ばした。


「話にもならねえ。随分長生きの吸血女の手下と聞いてたが、情けねえ奴だな」


 大仰に両腕を広げて、嘆く。

 そして突然、何の予備動作もなく彼は動いた。


 踏み切り位置の床材が衝撃で砕ける。一瞬にしてミケに肉薄したイーゴリは、先程のカッターの一振りをゆうに超える速度で拳を繰り出した。

 が、ミケはそれを寸での所で回避する。彼の真後ろにあった壁がイーゴリの初撃で脆くもひしゃげ、引き戸のレールがあらぬ方向へと千切れ飛んだ。


 横っ飛びに躱したミケは、そこから躊躇なく敵の懐へと踏み込み、爪を伸ばした左手で喉笛をえぐろうとする。

 彼の左手はたった今、自分を庇って負傷したはずだと志津丸は目を瞠る。手の平には大穴が開いたし指も使い物にならなくなったように見えたのだが、自在に振るわれる腕は、血だらけではあるもののとうに出血が止まり、治りかけている。


「チッ、半不死か!」


 厄介な、と吐き捨てるイーゴリに無言のミケが迫る。上背で勝る相手のこめかみめがけて、限界まで開脚しての回し蹴りを放った。

 これをイーゴリもまた紙一重で避ける――が、その直前、ミケのスニーカーの爪先を突き破って刃が出現し、イーゴリの目のきわを切り裂いた。

 どうやらミケは足の爪も伸ばせるようだ。傷は浅いが不意を喰らったイーゴリは、唸り声を漏らして後退し、距離を取る。


「ぐう――」

「靴が駄目になるからこれ嫌いなんだよな」

「カッたるそうな顔して、る気満々じゃねえかよこのジジイ!」


 悪態を吐きながらも、イーゴリは獰猛に笑う。弱い獲物を甚振いたぶるのみならず、危うい闘争にも快感を見出す性分らしい。


 頭上から叩き潰す勢いで振り下ろされた掌底を、今度はミケが後ろに飛び退いて回避した。大砲でも着弾したかのように床材が陥没する。


「いいぜえ、楽しもうじゃねえかぁ!」


 逃げるミケにイーゴリが追い縋り、二撃目、三撃目が床を破壊した。轟音が校舎全体を揺るがす。今頃下の階はパニック状態だろう。


「やなこった!」


 心底嫌そうに一声応じると、壁際まで追いつめられたかと思われたミケは、一際ひときわ高く後方へと跳躍した。

 一回転して黒板を両足で蹴り、天井まで飛び上がる。照明に足首を引っ掛けて俊敏に体勢を変えた彼は、イーゴリの肩の上へと降り立って手脚を絡みつけた。


「がッ!? てめえッ――」


 イーゴリがミケを振りほどこうともがく。振り回されながらもミケは、相手の関節を締め上げつつ爪で頸動脈を貫こうと機を伺う。

 今のミケに、志津丸を相手取った時に見せた手加減は微塵もない。全ての攻撃が敵の急所へと照準を合わせている。


「ガアアアッ!」


 咆哮を上げて、イーゴリは窓へと突進した。

 ミケを巻き込んで窓ガラスへと体当たりを食わらせる。ガラスどころか窓の桟までもが砕け、校庭へと散らばった。

 体育の授業前なのだろう、校庭から不審な物音のする校舎を見上げていた数人の子供達と教師が、突然の落下物に悲鳴を上げて逃げ惑う。


 二体の怪異は、もつれ合いながら窓の外へと放り出された。


「フシャアアアアアッ!」


 ミケが狼に呼応するように吠える。猫の特徴的な威嚇音に、サイレンのような音が混ざり始め、更に複数の人間の悲鳴と怒号までもが高々と響き渡った。

 火柱を立てて、ミケは校庭へと降り立つ。

 その姿は、人の少年でも猫でもない巨獣へと変容していた。先端の燃え盛る二本の尾、顔の半分から後頭部、背中にまで至る火焔のたてがみ、金色の瞳。


 そして彼と相対あいたいするイーゴリもまた、人の姿を捨て去っていた。

 白と金の絢爛けんらんな毛皮に覆われた巨躯の狼だ。体高ではミケを僅かに上回る。肋骨が複数飛び出したような、両の脇腹に並ぶ奇妙な突起が特徴的で、亀裂状の三対の眼が濁った青を湛えている。

 最早正体を隠すでもなく、この姿を目にした全ての者を食い千切ると宣言するかのように、人狼・霧中のイーゴリイーゴリ・ヴ・トゥマネは遠吠えを響かせた。


「なんつう図体してやがる」


 ミケが半ばまで燃え盛る顔をしかめる。


「その身体……人も怪異も手当たり次第に食らって、そんなに膨れ上がっちまったのかい」

「ああそうだ。テメエも同じだろうが。どんだけの亡者の怨みをその身に抱え込んだら、ただの猫がそこまでの異形になる?」

「そこは否定もしなけりゃ誇りもせんよ。しかし俺は、もう人を食うのは御免だね。人の飯を作ってる方が楽しい」

「そうかよ、オレは殺しのが楽しいって性分だ。特にテメエみてぇな――舐めた野郎を嚙み千切るのがな!」


 イーゴリの四肢が校庭の砂を蹴立てて舞った。

 組み付かれたミケは仰向けに倒れるも、喉元を狙う牙を避けて後ろ足で相手の腹を蹴り上げる。

 途端、イーゴリの脇腹、突起の並ぶ辺りががばっと割れた。

 奇妙な突起と思われたそれは、牙だった。牙の連なる巨大な口が、両の脇腹にも開いている。捻じれた口が脚に噛みつこうとするのを、ミケは身をよじって回避する。


か! 全く食欲旺盛なこったよ」


 素早くイーゴリから身を離し、ミケは舌打ちをした。後ろ脚を牙が掠めたのか、砂地に血が滴っている。

 イーゴリの脇腹の口が、べろりと大きな舌を覗かせた。


「猫の肉なんか大して美味うまかねえと思ってたが、テメエの血の味はまあまあだな。魔女の霊威が流れてるからか……」


 ありがたくもない称え方をするなり、再度イーゴリが仕掛ける。すかさずミケは背の炎を逆立てた。彼を組み伏せようとしたイーゴリが、前足を炎に焼かれて飛び退すさる。

 そこにミケが襲いかかった。狼の顔面に牙を立て、正面から四つには組まず逆さまに引き倒す。


「ギャアッ!」


 高熱を噴くミケに噛みつかれ、イーゴリが苦痛に吠える。力任せに身を起こし一噛みを返そうとしたが、今度はミケの前足の爪に阻まれた。


 牙と爪、野生を剝き出しにした攻防が、校庭全面を舞台に繰り広げられ、校舎の窓が血飛沫に染まる。経過した時間はほんの数分――あるいは数十秒程度か。二体の怪異はその巨躯からは信じられない程の速度で縦横じゅうおうに駆け、飛び回る。


 志津丸は、空き教室の割れた窓辺に未だとどまっていた。


 早々に避難した方が良いのは分かっている。今の自分に出来る事は、足手まといにならないようこの場を離れる以外に何もない。しかし彼は動けなかった。ただ固唾を呑んで怪異の闘争を見守っている。


 陸号ろくごうとペトラは、人の姿に化けて他の教室に向かったようだ。校庭側にいると危ない、別棟の方へ、と指示する声が聞こえる。


「フゥウーッ!」


 ミケが一際ひときわ低く唸り声を上げた。

 校庭の隅までイーゴリを追い詰めたミケの牙が、遂に敵の喉元を捕らえる。

 金属柱の歪む勢いでフェンスに叩きつけられ組み伏せられたイーゴリは、三つの口と前後の脚で抵抗するものの、最早当初の膂力りょりょくは発揮出来ない。顔から胴体まで爪に裂かれて血にまみれ、白と金の毛皮の一部は焼けただれている。


「ぐるがぁアアアアッ!」


 イーゴリの複数の口が一斉に咆哮を響かせ、びりびりと周囲の建物を震わせた。

 ミケは喉元を食い破ろうと牙を立てたまま、その場から動かない。イーゴリの手足の動きが徐々に弱まっていく――


「……気に……なってんじゃねえのか」


 急に、静かな囁き声をイーゴリが漏らした。

 ミケは応じない。しかしそれに構わずイーゴリは続ける。


「魔眼の片割れの在り処だ。……教えてやろう、ここにある」

「――!?」


 頑なに抵抗に動じなかったミケが、初めて動揺を見せた。金縁の眼の瞳孔が広がり、伏せられていた耳がぴんと立つ。

 その瞬間僅かに出来た隙を、異形の人狼が逃すはずもなかった。


 イーゴリの脇腹の口が、彼の肩口を押さえ込んでいたミケの前足に噛みつく。はっとして引き剥がそうと体勢を変えたミケの首に、イーゴリが狙い澄まして牙を剥いた。


「ぐっ!」


 ミケが呻いてその場を飛び退く。

 首への攻撃は辛うじて避けたものの、顔に爪を立てられた。閉ざされた右の瞼から頬にかけて、血が流れ落ちている。眼をやられたらしい。


 ミケが距離を取るなり、イーゴリは人の姿となって、フェンスの破れ目から学校の敷地外へと擦り抜けた。

 人に化けても負った傷は隠しようがない。彼は全身血みどろで、ふらついてもいる。教室で同じ姿を取ってみせた時の余裕が既にないのは明らかだ。


「好き放題引っ掻きやがってクソ猫め。しかし成る程な、もがりの魔女の使い魔……ここらの怪異共が恐れる理由は、ムカつくがよく分かった」


 憎悪と死闘への快感のい交ぜになったような表情で、顎に垂れる血を乱雑に拭い、イーゴリはなおも不敵に笑う。そして、ジャケットの内側から何かを取り出した。


 志津丸は校舎から目を凝らしている。取り出されたのは、わらを編んだ紐とライターだ。

 よく似た形の藁紐を、志津丸はつい先日見た覚えがあった。伽陀丸かだまるが音戸邸近くの上水道に仕掛けようとした『ヴィイの魔眼』、それを縛っていた紐だ。


 魔眼の呪いが常時発現した状態では、誰も持ち運べない。何しろ怪異にも作用する強力な呪いなのだ。あの紐でいましめられている間は、威力を発揮しないようになっているのだろう。

 志津丸は呪具にも、人間の作る霊験具にもさほど詳しくないが、それくらいの想像はついた。


 そして更に考えると――紐の縛めの効果は、ようになっていなければおかしい。解いた端から呪いが発動するのであれば、紐を解く者が危険に晒される。地面なり水源なりに魔眼を埋め込んで、その場から離れたところで発動させられる仕組みになっていなければ。


 例えば、縛めの紐に対となる存在を用意しておいて、片方を壊すともう片方の縛めの効力も消える――といったような。


「まさかっ……」


 志津丸はそう口走って身を乗り出し、無意識のうちに天狗の翼を広げる。

 彼が視線を注ぐその先で、イーゴリはライターに着火し、勿体ぶるでもなく藁紐をそれにかざした。瞬く間に紐は焦げ、燃え上がる。


「これで呪いは発動だ。さて、オレはもう退散させて貰う。魔眼は学校内のどこかだ。さっさと見つけねえと、あれは子供をばたばた殺すぜ?」


 今一度、凶暴な笑みをミケに向け、イーゴリは身を翻した。

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