第45話 殯の魔女 (5)
対峙から数瞬の硬直の後、ミケは気づいた。
――これはコマではない。
コマの姿をしているが、違う怪異だ。
しかし奇妙な事に、コマの意志もまた目の前の怪異からは感じ取れるのだ。
――それがどうした。
ミケの中の多くの声が叫ぶ。
――殺せばいい。たとえコマそのものだとしても。怨嗟の化身たる怪異に血族など必要あるものか。
――いやだ。それだけは。そんなことは。
拒絶の声が返ってくる。頭が割れそうな程の反響と混乱する感情の嵐に苛まれ、ミケは前脚で
――殺せ!
無数の殺意が、強引に彼を衝き動かした。狙いも定められないまま、身体から火炎が放出される。
「うぅ、アああああああッ」
ミケは声を上げた。これは自分の声だと、叫んでから気づく。猫の鳴き声ではなく一人の人間の、少年の声で、ミケは泣き叫んでいた。
意図せず吐き出された炎がコマの姿を取った怪異に迫る。
が、炎は彼女を焼きはしなかった。
コマが猫の身を翻す、と同時に彼女の姿は掻き消え、代わって人間の少女がその場に現れた。短い黒髪で、白地の着物を着込んでいる。
少女は懐から小さな守り刀を取り出し、さっと鞘から引き抜いて、前方に掲げた。
布でも切り分けるかのように、炎の固まりが刃先から裂かれ、彼女には熱風のひとつも届かない。不可視の壁がそこに構築されている。
「ミケ、およし。お前がそんなに辛い思いをする事はないんだよ」
少女が喋りかけた。これはコマの声なのだろうか。
聞くな、とミケの頭の中で怒りの声が響く。ミケは弱々しく首を振る。
もう半歩分彼は後退したが、いつまでこの身体を留めておけるかは定かでなかった。コマの姿を取る者を、いや誰であろうとも、もう殺したくない。しかし殺さずにはいられない。
「……言葉で説いたって難しい、か。そうだろうね」
少女は一度顔を伏せ、それから再度ミケを見上げると、目を逸らす事なく左腕を掲げた。
右手に握った守り刀で、己の左手首を浅く斬りつける。
血が左腕を伝い、白い
「なら、あたしに
その言葉の意味するところが、ミケにはよく理解出来なかった。コマが猫又で、彼女には他にも知り合いの怪異がいる事は知っていたが、ミケはずっとただの猫だった。使い魔がどうのと言われても分からない。
ただし、目の前の少女がミケを助けようとしているのは理解した。
ミケは可能な限り自身の
途端、舌から身体の芯までが凍てつくような感覚に襲われた。
重く硬質な何かが彼の体内に入り込み、内側から
目の前の少女が低い声音で、歌うように言葉を紡いだ。
「我が血肉を、
血肉は
守り刀の刃先が、ミケの眼前に突きつけられる。
「これなる呪いに応じるか」
人の言葉で答えればいいのだろうか。だが、的確な言葉の発し方が分からない。
「……ニャア」
仕方なく、ミケは猫の声で鳴いた。巨体となっているためか、随分な音量だった。
「――応じたって事にしよう」
少女が肩を竦め、守り刀をぱちりと鞘に納める。彼女はミケの方へ警戒する素振りもなく歩み寄り、鼻面を撫でた。
途端、ミケは強張らせていた全身の力が抜けるのを感じた。
必死で押さえつけていた憎悪も殺意も、しんと身体の奥底で静まり返っている。
急速に訪れた眠気に抗えず、彼はその場に身体を横たえた。
毛皮を燃やしていた炎が消え去り、尾が二本ある以外はごく普通の、痩せた小柄な三毛猫としてミケは地面に
◇
ミケが猫の姿に戻り、その場に倒れるのを見届けると、雁枝は背後を振り向いた。
そこに身を寄せ合う人間達は、事態に全くついて行けていない様子で呆然としている。
「早く逃げな。川は駄目だ、水面に油が浮いてるからかえって危ない。そこの右手の通りから向こうは丘の陰になっててまだマシだ。出来るだけ遠くへ」
火の手の少ない通りを指し示してやると、「は……はい」と、赤子を抱いた母親が我に返って頷く。
ふらふらと立ち上がった彼女に続いて、他の面々も通りを抜けて去って行った。
「さてね……」
一人になった雁枝は守り刀を再び抜き放って、ミケに近づく。
――多分、今のうちに殺してやるのが正解だ。
使い魔の契約を交わした以上、ミケが勝手に暴れ回る事はない。
雁枝はつい先刻、怪異としては若いコマの肉体を乗っ取り、僅かに残っていた生命力を吸い上げた。余命数ヶ月から数年と見越していた彼女の寿命は、あと数十年分は延びただろう。
彼女がミケの主人である限り、彼の暴走は抑えておける。
だが、安全が保障された訳ではない。契約破棄の方法はいくつかあるし、寿命前に雁枝が死ぬ可能性もある。
それに――
殯の異能者がその顕現を確認した。この世界の歪んだ有り様が、確固たる存在となってしまった。
もし、世界の修復が可能だとしたら――そのためには、殯の異能者をはじめ、この世界に生きる者達が新たな怪異を『認めない』ことが重要になってくるだろう。
論語に記されるところの、『
つまり、世界層の破断の影響を少しでも限定的に
――そもそも。
と、雁枝は倒れた猫を見下ろす。
――狂いゆく世界で、家族を喪った挙句、戦災の化身たる怪異として生かされて、この仔猫がこれからどんな幸せを掴めるというのだ。
雁枝は守り刀の刃を、倒れたミケの喉元に当てた。
ミケが微かに目を開き、またすぐに閉ざした。彼自身にも、もう生きる気力はないらしい。
しばし、沈黙が降りる。
周囲では未だ、炎が猛っている。その中で、雁枝は刃を猫の首に押し当てたまま、そこから動かせずにいる。
――……殺すのか。人間の子供達を死なせ、コマの身体を奪い、守るべきものを惨めにも全て取り零して、その上こんな小さな命を。
数分か、あるいは数十秒程度の逡巡だっただろうか。
遠くで瓦礫の崩れるような音がした。どこかの家屋が燃え尽きて倒壊したらしい。
ふぅっ、と雁枝は息を吐いた。守り刀を鞘に納め、懐に戻す。
そして、ミケの身体を抱き上げた。
「やめだやめだ、馬鹿馬鹿しい。この世なんてとっくの前から狂っちまってるよ」
着物の袂で腕の中の猫をくるみ、雁枝は続ける。
「ねえミケ、こんな世の中だけど、それでもあたしの永い一生は悪いもんじゃなかったよ。お前も、幸せにおなり」
姉さんの分もね――と、雁枝は言い添えた。
ミケは返事をしなかったが、こちらの声は聞こえているし理解もしているだろうと雁枝は思う。
炎上する下町、地獄絵図のごときその光景の中を、生まれたての怪異を抱えた魔女は、ただひたすらに歩き続けていた。
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