第46話 殯の魔女 (6)

 遠い過去の語りに一区切りをつけて、雁枝は再びロッキングチェアの上へと腰掛けた。


「ああ、やれやれ。眠りっぱなしだったからすぐに疲れちまう。いけないねえ」


 軽く肩をほぐす雁枝を見て、ミケが立ち上がる。


「茶でも淹れてくるよ御主人。煎茶と紅茶どっちがいい?」

「じゃあミケ、紅茶を頼むよ。今にもまた眠りそうだから、少し濃いめにお願い」


 雁枝の一言に、ミケは微かに憂うような表情を浮かべたが、ひとつ頷いて部屋を出て行った。


「……あれは良い子だろう?」


 ミケの気配が台所の方角に消えたところで、雁枝は根岸に問いかけた。


 根岸からすると、人格上はミケの方が大分年嵩と認識していたので――実際話を聞くに、彼はおよそ八十歳という高齢である――『良い子』呼ばわりは気が引けたが、一先ず彼は大筋に同意する。


「ええ、ほんとに。助けられっぱなしです」


 雁枝は少しばかり哀しげに口角を上げた。


「使い魔の契約は、あの子の過剰な力を抑制するだけのための縛りだ。だから別に、あたしに付き従ったりせず自由に生きりゃいいと言ったんだがね。でも、あの子が自分からと思うようになるまではいくらか時間がかかった。日がな物陰に臥せって、飯も食わずに考え事ばかりしてね」


 そんなだから、最初は人間に化けるのも人語を話すのも苦手でねえ――と雁枝は懐かしそうに語る。

 何やら居心地の悪いものを根岸は感じた。親戚の集まりで、親の幼少期の失敗談を大伯母おおおばあたりから聞かされたような気分だ。


「時間をかけて変わってって、今みたいになったけど。……ただ、いくらか忙しく働いてないとどうしても思い出しちまうんだとさ」

「お姉さんの事を?」

「コマの事も、自分が命を奪った相手の事も。自分が元々は、奪うために生まれた怪異だって事も」

「……そんな」

「だからだろうね。たまに無茶してでも、目に止まっただけの怪異やら人やらを助けようとするのは」


 ミケは言っていた。怪異としての彼を創り上げた、死んでいった人々の想いは、決して呪いでも災いでもない、そんな風にはさせないと。

 あれは自分に言い聞かせていたのか、と根岸は思い返す。今までその強大な霊威を振るう度に、何度となく。

 痛ましい――などという言葉では軽いとすら思えた。


「そうそう、秋太郎」


 雁枝がさらりと声色を変えた。丁度そのタイミングで、ティーセットを携えたミケが戻ってくる。


「お前も刀傷を負ったね。せてみな」

「僕? あ、でもこれは陰陽庁で一応処置を受けました」


 栄玲大学の研究室内で、遠藤周に斬りつけられた時の傷は、陰陽庁で取り調べを受けた際、簡単にではあるが治療されている。


「陰陽士は、怪異の治療に関しちゃ腕が悪い。連中ときたらろくすっぽ死んだ経験もないからねえ、幽霊の身体の事をよく分かってないんだ」

「そりゃあ……死んだ経験はないでしょうけど」


 重ねて雁枝が急かすので、根岸は折れて腕の傷を見せた。


「ほうら、素人芸だ」


 と、雁枝は包帯を解いて悪態をつき、口の中で小さく経文のような言葉を呟く。

 それに耳を傾けるうち、根岸はずっと続いていた腕の疼痛が軽減されている事に気づいた。


「それって、吸血女の能力なんですか?」

「いやぁ、単に長生きしてる間に身についた手品みたいなもんさ」


 ごくあっさりと雁枝は答えて、痕跡だけになった傷を一撫でする。包帯はもう必要なさそうだ。

 そこで、茶を淹れていたミケが雑談のような口振りで根岸にたずねた。


「なあ根岸さん、食堂に呪われた槍が置きっ放しだが、ありゃどうすんだい」

「あっ」


 完全にうっかりしていた。根岸は眼鏡をずり上げる。


「血流し十文字! トクブンに持って行って保管して貰う予定なんでした」


 この家の住人であれば呪いに触れてもまず問題ないだろうが、だからと言ってぞんざいに扱い過ぎた。流石に十文字が怒っているかもしれない。

 それに、十文字を括りつけていた測量器具の『バカボー君』に関しては、特殊文化財センターの備品を駄目にしてしまった訳だから、所長に話して謝罪する必要がある。


「槍の怪異か。それ自体が呪いをまとってる」


 雁枝が腕を組み、何事か思案する。そしてすぐに彼女は顔を上げ、根岸に向き直った。


「あれはここに置いといちゃどうだい。秋太郎、お前が面倒を見て使いこなすんだ」

「はっ?」


 根岸は目を丸くする。


「使いこなすってそんな……槍を振るう機会なんてそうそうは」

「あるよ」


 戸惑う根岸に、雁枝は畳みかけた。


「お前はこれから、自分自身を守るために戦わなくちゃならなくなる。薄々は感づいてるだろう? 一体自分が何者なのか」


 根岸は、しばし言葉を失う。

 ミケも口を挟まない。彼はただ、根岸と自分のあるじの顔をじっと見比べている。


 雁枝の指摘は正しい。先程までの彼女の話を聞いていて、既に根岸の中には一つ、推論が組み上がっていた。

 何故彼は雁枝の意志によってこの音戸邸に受け入れられ、留め置かれたのか。

 何故彼は怪異の身でスペル・トークンを扱えるのか。

 物質生命体のみが存在する世界層レイヤー、それを怪異が観測した事の意味。

 その解答が今、提示されている。


「根岸秋太郎。お前は、『もがりの異能』の持ち主だ。あたしと同じ、複層世界構造の観測者」


 一息に、雁枝は告げた。


 改めて言葉にされる事で、納得と疑念が同時に、根岸の身の内に押し寄せる。


「どうして……僕が……?」


 沈黙ののち、ようやく口に出来たのはそんな断片的な言葉だった。


「さあ。そればっかりは神のみぞ知る、だねえ。怪異が全能の神を語るってのも妙だが」


 紅茶を一口飲んで、「おや美味しい」とミケに感想を述べてから、雁枝は続ける。


「この力を持つ怪異は、常に世界中に何体かは現れる。あたしが直接顔を合わせた事があるのは、お前を入れて四体目」


 五百年生きていて、四人。そこそこ稀な機会と言うべきか、思ったよりは多いと言うべきか。


「貴方の……『殯の魔女』の異名は、その特殊能力が由来だったんですね」


 人間側で彼女の異名の由来を知っている者は、恐らく現代には皆無ではないだろうか。


 ――周辺の怪異達から殯の魔女と呼ばれ、敬意を払われる大物怪異がいる。


 特殊文化財センターや陰陽庁小金井局で共有されていた情報はそこまでだった。

 新人だった根岸はその二つ名の意味に興味を持ち、由来を訊いたり資料を読み込んだりしたものだが、誰も知らず記録にもなく、拍子抜けした記憶があった。

 怪異と人の付き合いというものは案外そんな具合だ。


「人間達の間でも、ごく一部に俗説レベルでは伝わってるようだよ、この力を持つ怪異の存在は」


 雁枝は根岸の思いを見透かすかのような物言いをして、椅子の上で脚を組み替える。


「そして、その『俗説』にのめり込む連中もいる」


 ミケから渡されたティーカップに視線を落としていた根岸は、少し考えてまた目を上げた。


「……反怪異組織の間で?」

「そう。全ての『殯の異能』を抹殺すれば、世界層レイヤーの破断という事象を観測する者はいなくなり、世界は正常化に向かう。そういう理屈だ。本当にそうなるのかなんてあたしの知ったこっちゃないが、とにかく奴らは『殯の異能』を探し回ってる」

「つまり僕も、いずれは狙われると……いえ、恐らくは既に」


 根岸が人間と同じ方術を使いこなした事は、遠藤や山東に知られてしまった。

 彼らの所属する組織――『ノマライズド』と言ったか――は最早、根岸を認識したものと考えるべきだろう。


「それともう一つ。三つに分かれた米国政府はどこも正式に認めていないけど、一部の人間達はある都市伝説の存在も信じてる」


 雁枝がミケに視線を送った。

 根岸は都市伝説や噂話の類いに興味を持たない気質たちだが、今となっては分かる。伝説もたまには真実を語ると。


 この混沌の時代の始まり……怪異の存在証明。それは一九四五年の米国内での実験が元になっていると言われていた。

 しかし実際には、研究チームによる正式発表の数ヶ月前に、先行して行われた実験があったのだ。

 場所は日本の市街地。実験は成功し、パンデミック期最初の大怪異が東京に顕現した。

 そして、その怪異は今もこの場に、魔女の使い魔となって生きている。


「ひょっとして……ミケさんが都市伝説?」

「そう、『パンデミック期最初の怪異は日本に存在している』って噂だ」

「反怪異を標榜する人間にとっては彼もまた、混沌秩序カオティック・オーダーの象徴、という事ですか」

「それこそ、この子に文句つけられたって困るんだがね」


 ティーカップをサイドテーブルに置いた雁枝が、軽くミケを手招く。ミケは立ち上がると共に猫に姿を変え、主の膝上にひょいと飛び乗った。そのまま、「しっくり来る」と言いたげな顔で顎下を撫でられる。これがこの主従の定位置らしい。


「秋太郎。お前は一度、未練を遺して殺された。そのために幽霊として顕現した。そして未練を解消し、そこで消えるはずだった……」


 しかし彼はこの世にとどまった。


「頭のどっかで疑念を抱いてたはずだよ。自分の使いこなした方術がある種の奇跡で、本来あり得ないものだと。その疑念がお前をこの世に引き止めたんだ。で、あたしはそれを感知して、屋敷へと招き入れた。だってのに、寝こけっぱなしで悪かったね。あわよくば――」


 と、雁枝は苦笑を浮かべる。


「もうじき寿命の尽きる『殯の魔女』の後継になってくれやしないかと、そう考えたのさ」

「こっ……」


 後継、と根岸は口の中だけで、呆然と呟いた。

 ミケがぴくりと尖った耳を動かし、何か言いたげに両目を上向ける。彼の頭頂部を指先で掻いて、雁枝はまた微笑んだ。


「ミケはとっくに察してただろう。あたしが目覚めなければ、お前が秋太郎を導くかと思ったが」

「そいつは家令のわきまえを超えるよ、御主人」


 それに、とミケは瞼を伏せる。


「自分の存在する理由を知るのは、時にもんじゃないか」


 ミケが口にすると重い言葉だ。根岸は彼の過去を思い返した。


「別に、何も知らないまま好きにこの世を謳歌して、それで満足して成仏するだけでも……いいと思った」

「ほんと幽霊に甘いねえ、お前は」


 甘いと言うか、要するにやはり、彼は善意の猫なのだ。積み重ねた経験だとか過去だとか、それ以上の本質として。


「まあ、秋太郎は遠からず自力で答えを見出しただろうさ。なかなか賢い男だから」

「いえそんな」

「謙遜はおよし」

「はあ」

「いくら『殯の異能』の持ち主でも、そこいらのスットコドッコイに後を託そうとは考えないよ。ミケの新しいあるじも任せなきゃならないんだ」


 寧ろそっちが本題だと、雁枝は付け加える。


「御主人」


 ミケが困ったように耳を倒して口走った。


「俺はもう猫としちゃ十分過ぎるくらいに生きた。……御主人が逝く時には、一緒に」

「自分の勝手でくたばるのに、使い魔を殉死させるなんて、殯の魔女の最期に相応しくはないじゃないか。そうだろ?」


 真正面から主に見つめられてさとされ、ミケは二の句を継げなくなる。

 そんなミケを膝から抱き上げて、雁枝は椅子を立った。


「さて、秋太郎。お前の勤め先のボスは、まだまもるのままだったかね」

「まもる?」


 訊き返してから、根岸は自分の上司である、特殊文化財センター所長上田衛うえだまもるのフルネームを思い出す。彼が職務の最中に下の名前で呼ばれる機会など滅多にないから、忘れていた。


「はっ……はい、そうです」

「そうか。なら丁度良い、電話してみよう」

「何の件で?」

「血流し十文字だよ。うちで預からせて欲しいと」


 告げるだけ告げると、雁枝はミケを連れて廊下を歩いて行ってしまった。

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