第44話 殯の魔女 (4)
不意に、ミケは目を開けた。
延々と続く身体の痛みと息苦しさの中で、ぼんやりと霞んでいた視界が、今までになく明瞭になっている。不思議なことに、本来なら猫の視力で見えるはずのない遥か遠くまで見渡せる。
ただし彼の目に映る限りの全ては、惨劇であった。
人間の街が――家が、木々が、人が、赤々とした炎に包まれて崩れ落ちていく。
ミケは人間の街が好きだった。
あまり遠くへは出歩けなかったが、よくコマと一緒に丘から街並みを見渡していたし、体の調子の良い時は墓地を出て散歩もした。
散歩の目的地は大体、墓地の近くにある少年の家だ。その子はソウタと呼ばれていた。どうにも腕白が過ぎるらしく、よく門限をすっぽかして叱られていたが、ミケや小動物に対しては優しい子供だった。
そのソウタが今、泣き叫び、誰かの名をでたらめに呼びながら火の中を駆けていく。
そっちは駄目だ、行くな、と別の誰かの声がした。しかしソウタの足は止まらない。
突如として、ソウタの飛び込んだ十字路の横合いから、突風と共に炎が噴き出した。
炎の速度は竜巻のごとく凄まじいもので、路傍の家がばきばきと音を立てて、瞬く間に半壊した。吹き飛ばされる建材に次々と火が燃え移る。
ソウタの姿は炎に遮られ、もう見えない。
「ソウタあぁぁぁぁっ」
おさげも顔も煤まみれにした少女が絶叫する。彼女の声にも覚えがあった。ソウタと喧嘩ばかりしていたがその割によく遊ぶ、勝ち気な性格の少女だった。
少女の頭上に焼けた電柱と電線が崩れ落ちてくる。そして黒煙と砂煙に巻かれ、彼女の姿も見えなくなった。
「駄目だ、こっちはもう駄目だっ! 石橋の方へ……」
数人の集団を誘導していた老齢の男の背に、再び強烈な熱風を伴う火炎が襲いかかる。ごうっという音が響き渡り、大の大人が数人、枯れ枝のように転がされ折り重なって燃え上がった。
悲鳴、怒号、赤子の泣き声――
風に煽られるサイレンの音が、その上を虚しく通り過ぎる。
ミケは、自分を抱えていた誰かの腕をするりと抜けて地面に降り立った。
このところは立って歩くことも出来ない病状だったから、足裏が地面を踏みしめるのが久しぶりであるように感じた。
……地面が焼けているのだろうか、四肢が熱い。
全身が熱い。
死体、瓦礫、また死体。見渡す限りの無惨な死が、彼らの遺した悲鳴が、ミケの内部へと入り込んで高熱を上げる。それは膨張し、赤い火となって彼の毛皮から噴き出した。
衝き動かされたようにミケは、夜空に向かって吼える。
牙を剥き出したその口から溢れ出たのは人間の叫びだった。一人や二人のものではない、彼の視界に映った全ての人々の。サイレンの音と破砕音までも、彼の喉は再現してみせた。
空を駆ける機影が、意外な程に近い。
いつの間にかミケの身体は、炎に包まれた巨躯となっていた。二階建ての家屋も電柱も、眼下に
逃げ惑っていた人々が思わず足を止め、呆然とミケを見上げている。
「化け物」
と、誰かが呟いた。
ミケは驚きと恐怖の視線を気にも留めず、自身の肉体の変化を淡々と受け止める。
あまりにも多くの、混濁した絶望と怨嗟を呑み込んだ彼の心は、燃え盛る体表と裏腹に、金属のごとく冷めつつあった。
――あれを落とさなければ。
上空を旋回する航空機の一つを見定めたミケは、機械的にそう思考する。
唐突に、ミケは地面を蹴った。
黒煙の塊と熱風を踏み台に、空へと跳躍する。
最も低空を飛行していた爆撃機の屋根の上へと、ミケは難なく四肢を着地させた。機体の胴体部の大きさは、今のミケの二倍程度といったところか。
ガラスの張られた機首の奥で、二人の兵士が驚愕に目を見開いていた。片割れの若者がブルーグレイの瞳を瞬かせ、「Cat?」と小さく口にする。
その若いパイロットは顔中汗だくで、鼻の頭を負傷していた。
この火災旋風の中、限界まで高度を下げて飛行しているのだ。座席は揺れ動き、操縦桿を気流に奪われないようにするのが精一杯だろう。
自分の真下でたった今、八歳の少女が死んだ事など彼は知らないし、知ったとしても気に留めている暇はない。
彼は自分の勤めを果たしているに過ぎない。家に帰って自分の家族と再会するために。
それが人間というものだ。
ミケはごく冷静に理解し、そして行動した。
上下の顎を大きく開き、コクピット目掛けて火炎を吐き出す。
一瞬にしてガラスが砕け散った。格子状に張り巡らされた窓枠がひしゃげ、飴細工のように千切れ飛ぶ。炎は機内の尾部まで焼き尽くし、言うまでもなく乗員は即死した。
錐もみ回転で落下を始めた機体への興味を失い、ミケは次の一機へと飛び移る。
今度は機体下部に爪を引っ掛けて取り縋った彼は、片翼の付け根へと噛みついた。
鉄の焼ける異臭と共に、翼が引き剥がされる。機体はエンジンから火を噴いて急速に高度を下げてゆく。
鉄板の四散する直前、ミケはそこから飛び退き、未だ炎上する街なかへと再び降り立った。
「ひぃっ」
弱々しい悲鳴が上がる。
火に囲まれて逃げ遅れたと思われる住民が数人、焼け残った土塀の陰に寄り集まっていた。
ミケは彼らに向けて身構え、牙を剥いて唸る。
陣営も国籍も民族も、最早知った事ではない。ミケの身体と胸の内で燃え盛る怨嗟の炎は、この愚かしい人間達が創り上げた全てを焼き尽くせと、そう命じている。
――嫌だ。殺したくない。もう殺したくなんかない。
そう嘆く微かな声が、どこからか聞こえた気がした。
身体の内側で際限なく燃える冷酷な炎、その合間を掻き分けて、ミケの内部から訴えるものが在る。
――家族を殺したのも彼らだ。でも育ててくれたのも彼らだ。美しい景色を見せてくれたのも。壊したくなんかない。
炎のたてがみを揺すって、ミケは付きまとう声を振り払おうとする。
殺さなければならない。我が身が消える時まで破壊し尽くさなければ。それが今、この姿を得た意義だ。
目の前でへたり込む人間達のうち、二人は母子であるらしかった。一、二歳と思われる子供を抱きしめて、母親が震えている。
この子だけはどうか。その唇が動き、訴えた。
涙と灰に汚れた母親の顔に、何か温かな記憶を呼び起こされかけたものの、ミケはそれも振り払う。彼は前足の爪を引き伸ばし、攻撃体勢を取って――
――その時突然、眼前に小さな白い影が飛び込んできて、ミケは金縁の瞳孔を広げる。
コマがそこに立っていた。
◇
あり得ない事象だ。
雁枝は目を疑う他なかった。
彼女の腕の中で目を閉ざし、ぴくりとも動かなかったミケが、急に彼女の腕を抜け出し、地獄絵図と化した街の路傍に降り立った。
と見るや、猫の姿は炎に包まれる。どこかからの火が燃え移ったのかと思われたが、そうではなかった。
炎は、彼の身の内から湧き上がったのだ。
身悶えながらも彼は炎を毛皮に
数歩
全長は十メートル、いや十五メートル近くもあるだろうか。顔の半分と後頭部、背部を覆う炎は、焼け落ちる家並みを凌駕する高さで燃え盛る。
天空に向かって、獣が咆哮を上げた。
耳を塞ぎたくなる程の悲痛な絶叫。大勢の人間の断末魔と、警報機のサイレンが混ざり合った音が響き渡る。
「ミケ……お前、怪異に……」
雁枝は半ば独り言として、彼に呼びかけた。
間違いない。ミケは瀕死の状態から――あるいは既に、雁枝の腕の中で果てていたのか――獣の怪異へと化けたのだ。それも生まれた直後から、埒外の霊威を
通常、こんな事はあり得ない。
何かしらの事件が起きた現場や古戦場には、その場にいた者達の強い思念が
だがそれが起きる確率はごく低い。そうでなければ、あらゆる戦場や思想のぶつかる場で生者と亡者が混戦して、人間の歴史など簡単に無茶苦茶にされていただろう。
今まさに惨劇が起きている瞬間、その怨嗟と絶望から即座に怪異が誕生した。そんな天文学的確率の事象が起きた原因は……悩むまでもない。世界層の破断のせいだ。
精神生命体の世界層が異常接近したために、怪異の顕現が容易となった。
それだけではない。発生した直後の生々しい感情を膨大に取り込んでしまったミケは恐らく、暴走状態にある。目に映るもの全てを焼き尽くし、食い千切る事しか考えられない。
ミケが上空を目がけて跳躍した。
翼もないというのに跳躍は飛翔に変わり、一心不乱に虚空を駆ける。その先では爆撃機の艦隊が旋空している。
一瞬、朱色の光が低空を飛行する一機を貫いた。ミケが炎を浴びせたのだと分かった時には、爆炎に包まれた機体が地面に向かって落下を始めていた。
……乗組員は無論、全員死んだのだろう。あの機が間もなく墜落する位置に立っている人々も。
ミケは次の一機を墜とした。悠然と淡々と、生まれたばかりの怪異は人を
雁枝には止める
これが『
子供達も、救おうとした猫も、守るべきものを全て取り零した。世界が壊れ、狂った怪異が生まれるのを目の当たりにしても、何も出来ないまま。
覚悟はしていた。生き血を断ち、緩慢に弱り果てて死にゆく道を選んだ時点で、いつかはこうして惨めな悔いを抱えるものと。しかし――
「……あの子を」
か細い声が、すぐ間近から届いた。
雁枝の懐からだ。
「わたしの……いのち……全部使って」
腕の中に納まっていたコマが、こちらに前足を伸ばし、人の言葉で訴えかけている。
「あの子を……助けて」
それだけ言い終えるなり、ずるずるとコマの前足は雁枝の腕に落ちた。
――コマが人語を口にした。
死に際に力を振り絞る事で、新たな異能が芽吹いたのか、もしくはこれも世界層破断の影響か。
否、そんな事はどうでも良い。
怪異であるコマの血を飲めば、雁枝の異能の力はある程度戻る……それどころか、コマと雁枝は今、
コマの命を全て使う、それが意味する所はすなわち――
「――乗っ取れってのかい、お前の
雁枝はコマの首根を撫でた。
吐息は途切れ途切れになりつつある。
――ミケの暴走を止められる可能性があるとすれば、それはコマだけだ。その彼女の命が、尽きようとしている。
ならば、成すべきことは一つだった。
「随分と、業の深い真似をさせるじゃないか。……お前は本当に、抜け目がないよ」
雁枝は喉奥で笑った。
そして彼女は、友であった猫の怪異の身体を、最後に強く抱きしめた。
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