第37話 猫と死霊の剣舞 (10)
刀身と槍が火花を散らしてぶつかった瞬間、血流し十文字はその通称を表すかのように、赤黒い液体を刃から撒き散らした。
それは見る間に刀へとまとわりつき、耳障りな軋み音を室内に響かせる。
「うぁアアアッ!」
幽霊が突如よろめき、刀を取り落とした。支えを失ったかのように――もしくは、閉じ込められていた場所から急に投げ出されたかのように、彼女はその場に倒れ込んで、古い蛍光灯のごとく自身の姿を明滅させる。
それを見つめる遠藤が、動揺を露わにした。
「結界の解除!? 一体何を……『
そんな意図はなかった。というか、血流し十文字にそんな事が出来るとは知らなかった。
思わぬ事態に根岸は一瞬戸惑ったが、しかし足は止めない。
散乱する雑誌類を飛び越えて部屋の奥へと踏み込み、ミケに突き立てられた刀の付け根近くへと、十文字の刃の枝部を絡ませるように押し付ける。
先刻と同じく、槍から噴き出た血の飛沫が刀身に浴びせられた。ぎゃっと声を上げて、ミケの背に
「根岸さん、あんた……何だそりゃ?」
ミケは呆気に取られながらも、血まみれの上体を起こした。背中に手を回し、自分の心臓部を貫く大振りの
「あっ、それ、そんな乱暴に抜いて大丈夫なんですか」
「まあ治るだろ」
根岸が手を貸し、刀は無事に――でもないが――引き抜かれた。
ミケの胸からは未だだらだらと血が流れ続け、どう見ても手当ての必要な容態だが、それの許される状況ではない。彼は構わず、その場に立ち上がった。
「よっこらせ。いやあ、正直危なかった。助かったよ」
根岸の肩口に手を置き、にやりと笑うミケである。
いつもよりその手の重さが心もとなく思えて、根岸はつい身体を支えようとしたが、「いや、平気」とやんわり制止された。
「今腹立ってるから、胸に穴空いてんのは気にならんね。根岸さんにも、そこの槍の怪異にも、訊きたい話は色々とあるが」
横目に軽く、血流し十文字へと笑いかけてから、ミケはぎらりと金色の瞳を閃かせ、遠藤に向けて身構える。
「今はこの場を治めるのが先だ。手伝ってくれるかい」
「……分かりました」
風もない部屋の中で、ミケの髪が熱に煽られたかのようにざわめく。火の粉の散るのに混じって、細い稲妻までがぱちぱちと彼の周囲で弾けた。
場を治める――と、口振りこそ落ち着いていたものの、ミケは間違いなく怒っている。
「その槍の呪いで、このスットコドッコイの幽霊共を解放してやれるはずだ。例によって――」
ミケが言い終える前に、彼の死角から忍び寄っていた一体の幽霊が間合いに入り、斬りかかってきた。
「俺が奴らの動きを止める」
喋りながらもミケは、頸部を狙った一突きを
「そしたら根岸さんは呪いをふっかけてくれ」
目配せをされたので、根岸は床に倒れた幽霊の刀へと、槍の刃先をかち合わせる。
これで三体目の霊が解放された。この幽霊は腕を折られたか関節を外された様子だが、そのくらいはミケにとって許容範囲らしい。
「りっ……了解です!」
根岸は身構える。槍など振るって戦った経験は、勿論ない。だがこうなったからには、最早ミケと共に戦い、この場を切り抜けるだけだ。
「ウ――あァアアアッ!」
不気味な雄叫びを上げて、また一体の幽霊が襲い来る。
横薙ぎの一撃をミケは咄嗟に引き伸ばした爪で弾くが、「あッち!」と顔をしかめた。祓い清められ聖物となった刃に触れれば、それだけで怪異の身体には痛みが走るのだ。
返す刀で逆袈裟気味に振り上げられた得物を飛んで回避し、更にバク転で距離を取る。
追い縋る敵の目の前で、ミケは突然猫の姿に化けた。瞬時に小型化した標的を見失い、刃の動きが止まる。その隙に彼は相手の懐へと飛び込み、そこでまた人の姿を取って、伸び上がりざまに顎を蹴り上げた。
「ギャアッ」
幽霊が刀ごと床に倒れる。根岸は駆け寄って、再度十文字の呪いを撒いた。
これで四体、と顔を上げかけた根岸の元に、
「おっと、危ないっ」
とミケの声が間近からかかる。
視線を動かす
この男は余程頑強なのか、ミケの一撃を受けてふらついたものの、なおも刀を振り抜いてみせた。
「うわッ」
慌てて根岸が掲げた『バカボー君』の側面に刃が当たり、火花が散る。アルミ製の軽量な棒が大きくへこんだ。測量器具としてはもう駄目だ。
床に降り立ったミケが短く舌打ちをするなり、男の首に脚を絡めて引き倒した。両脚で首を締め上げるヘッドシザースに近い体勢に持ち込んだかと思いきや、暴れる男の両腕を掴んであらぬ方向へと捻り上げる。またも、嫌な音と絶叫が鳴り響いた。
ミケがさっと身を離し、根岸は槍先を落ちた刀に当てる――その直後、ミケの背後に刀を振りかざして幽霊が迫った。
「わああーッ!」
我知らず声を上げていた根岸は、闇雲に槍を振り回した。型も何もあったものではない。しかしこういう時の槍の利点はリーチの長さだ。
案の定、十文字の穂は回避されたが、相手は大きく飛び
「ふっ!」
鋭い気合と共に、ミケが最後の一体となる幽霊を投げ飛ばす。
根岸は倒れた幽霊を解放し、それからすかさず、室内を見回した。
――遠藤は? 今の乱闘の間に逃げただろうか?
生身の人間がミケと戦っても、まず勝ちの目はない。幽霊達に戦わせて自分は逃亡というのが、賢い選択ではあるだろう。
「根岸さん!」
突然、ミケが吠えるように呼びかけた。
反射的に根岸は彼の視線に従い、後ろを振り向く。と同時に、槍の柄を持ち上げて身を守った。
何の物音も立てずに根岸の真後ろまで接近していた遠藤が、浄化された刀の残る一振りで斬りかかってくる。
ミケの警告により、まともに斬撃を浴びはしなかった。が、痺れる程の衝撃が槍にぶつかり、右腕に焼けるような痛みが走る。
床に数滴の血が飛び散った。防ぎきれず、刃の先が腕を掠めたのだ。
「フシャアーッ!」
金色の瞳を見開いたミケが、怒りも露わに獣の威嚇音を吐く。十指の爪を伸ばし、彼は容赦なく遠藤に飛び掛かった。
ミケの全力の攻撃となると、人間には目視すら不可能な速度だが、遠藤は辛うじて初手を受け流してみせた。浄化された刃と爪が交わって閃き、軌道の痕跡だけが根岸の目に映る。
(本当に人間なのか!?)
と、そこから根岸は疑わざるを得なかった。押され、後退しつつではあるが、遠藤はミケの動きに対応している。そんな真似が人類に可能とは。
だが、戦いは長くは続かなかった。
部屋の端、窓際まで遠藤を追い込んだミケは、彼の喉元を掴んで窓ガラスへと叩きつける。ガラスの砕ける音がして、遠藤が呻き声を上げた。
「ぐぅッ――」
「この野郎っ……」
ミケもまた憎悪を篭めて唸る。彼の爪はいくらか欠け、手指が血まみれになっていた。浄化された刀との
その爪の、未だ鋭利さは失われていない先端を、ミケがゆっくりと遠藤に向ける。
「……殺せばいい、怪異!」
首を締め上げられ、三階の窓から半ば上体を押し出されながらも、遠藤は嘲笑を浮かべてみせた。
「それでお前の本性は知れ渡る。所詮、死と呪いを撒くだけの危険な存在だと……!」
はたと根岸は気づく。
遠くからパトカーのサイレンが近づいて来ている。赤いランプが窓に反射して見え隠れした。
「ミケさん、警察が来てます! 滝沢先輩か、事務の人が呼んでくれたのかも」
この研究室内にはもう一人、生きた人間がいる。学生か院生と思われる青年だ。パニックのあまり目を回しているが、彼は恐らく遠藤に命を奪われかけた。
人間同士の殺し合いとなれば警察が動ける。
「その人は逮捕して貰いましょう。ここで……ここで殺人はまずいです!」
「……怪異達のやられた事は、誰にも裁きようがない。俺達だって、証人にさえなれない」
ミケはまだ
そしてそれが人間の前で暴発するのを、遠藤は待ち望んでいる。自身の命すら使い捨ての道具と見做して。
「この人間のやらかした、ふざけた真似は……今ここでないと償わせられん」
「それでも!」
根岸は駆け寄る。無我夢中のまま、彼は血にまみれたミケの右手を取っていた。
「僕が――見たくないんですよ! 貴方が人を殺す所なんか!」
ミケの手がぴくりと震えるのが分かった。
張り詰めた沈黙が、何秒か続く。
サイレンの音は予想どおり、学部棟の目の前で止んだ。赤いランプが建物を真下から照らしている。もうじき警察が来るだろう。
不意にミケが、肩の力の抜けたような吐息を漏らす。
根岸に取られた手首を軽く振ったのち、彼は爪を仕舞い、そして急に拳を固めた。
拳が、遠藤の顔面にぶち当てられる。一発で意識を失った遠藤の身体は、窓の外に投げ出されかけた所をミケに掴まれ、床に放られた。
「加減を間違えた。鼻の骨くらいは折っちまったかな」
そう言って根岸の方を振り返り、肩を竦めてみせたミケは、いつもどおりの黒々とした瞳の、飄然とした少年に戻っていた。
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