第36話 猫と死霊の剣舞 (9)
――四十八分前、高尾街道上。
ミケが危ないかもしれない。
根岸の口走った一声を聞いて、滝沢はミラーから後部座席を見遣った。
「ミケさん、栄玲大学にいるんだっけ?」
「はい。――LINE送ってみましたが、返信がまだ来ないですね」
「じゃ、このまま迎えに行きましょ。大学までなら電車より車の方が速い。何事もなければ、経理にガソリン代無駄使いって怒られましたー、で笑い話にしちゃえばいいから」
ぐっとアクセルが踏み込まれる。
車から置き去りにされそうになって、根岸は慌てて『座席に座る』感覚に集中した。
「……ずっと気になってたんですよ」
流れて行く夜の明かりを横目に、根岸は呟く。
「何が?」
「連続殺傷事件の凶器、幽霊の持ってた鎌。ミケさんと滝沢先輩は、あれが元凶じゃないかって言ってましたよね。ミケさんは何かの残り香も嗅ぎ取った。でも陰陽庁の調べでは、他の怪異の痕跡も、呪いも検出されなかった」
「うん」
「とすると……それ以外に幽霊を制御したり縛ったり出来るものって、何だと思います?」
「……ひょっとして、方術? つまり、浄化や結界」
そう言いたいの、と前方を見つめたまま滝沢が問いかけ、根岸は首肯した。
「あの鎌は特殊文化財には認定されてませんでしたが、古い物だったから、使いこんだ人達の思念が残留してたはずです。歴史ある物、多くの思念を浴びている物が方術によって祓い清められると……」
「ものによっては聖物になるね。聖剣とか神器とか……土地なら聖地とか。呼び名は色々あるけど」
古くから存在した、怪異に対抗するための武器である。
単に刃物が欲しければホームセンターにでも行けば良い。が、浄化によって聖物に仕立て上げられる刃物となると、博物館収蔵クラスの骨董品を持ち出す必要が出てくる。
例えば――四百年の歴史を背負う刀剣。
「名匠山本康重の鍛え上げた、七振りの『
根岸の独白めいた声音に、「まさかでしょ」と滝沢が驚く。
「これから、何か事件の凶器に使われるかも、っての? 七振りの日本刀が? 昭和の任侠映画じゃないのよ」
第一さ、と滝沢は続けた。
「浄化した鎌を幽霊に持たせてたのはおかしいよ。そんなの幽霊側に大ダメージじゃない。下手すると、ていうか順当に行けば消滅しちゃう」
「でも、それだけに。コントロール次第では、力の限界を超えて暴走する怪異を人為的に生み出す事も、可能かもしれません」
怪異の暴走を誘発したいなら、手っ取り早いのは極限の苦痛を与える事だ。
理性の焼き切れそうな状況下で、苦痛からの解放の道筋を囁かれたらどうなるか。人間の場合でも容易に想像出来る。
虫喚び乙女、
極小の怪異相手ならば、直接暴走を誘発する
そんな凶悪な方術を根岸は知らないが、彼の方術知識は、スペル・トークン資格試験程度の範囲に留まる。
より専門的な知識と技術を使えばあるいは――
「いっ……嫌なこと言わないでよ。あの連続殺傷事件の犯人なんて、怪異といっても元になった意識は――大学生の女の子よ? そんな酷い話ある?」
根岸にしても、こんな推論を披露したくはない。
しかし、先程から嫌な方向にばかり想像が働くのだ。
社用車はあっという間に小金井市内に突入した。警察に取り締まられはしないかと、根岸は内心ヒヤヒヤしていたのだが、幸運にも道のりは順調だった。
前方に、覚えのある大きな建物のシルエットが見えてくる。
「栄玲大に着いた。根岸くん先に入ってて、駐車場探してくる」
「ありがとうございます!」
道路脇に寄せられた車から急いで降りる根岸を、「あれ? 待って」と滝沢が呼び止めた。
「それなに?」
「え?」
腰を指差され、根岸は視線を落とす。
作業着の腰には、懐中電灯やペンなどのちょっとした道具を挿しておくホルダーを装着している。今日は懐中電灯を使ったから、それがまだ引っ掛かっているはずだ。
ところがホルダーに引っ掛かっていたのは、懐中電灯ではなく――槍の穂だった。
車のライトに照らされて不気味な
「わぁッ!?」
根岸は飛び上がる程に仰天した。
一先ずホルダーと作業着の状態を確認する。奇跡的な事に、破れたり怪我をしたりはしていない。
十文字というくらいだからこの槍は十字型で、先端の他、両側に伸びた枝部分も鋭利で危険である。よく今まで気づかすにいたものだ。
「なっ……なんで。ケースに仕舞って積んだの、先輩も見てましたよね?」
「う、うん」
滝沢も繰り返し首を縦に振ってみせた。
「あれかな。呪いの人形を捨てようとしても戻って来ちゃう、みたいな――根岸くん、やっぱ呪われてない? 大丈夫?」
「どうなんでしょう」
そういう粘着質なタイプの怪異がいる事は知っている。
しかし根岸には別に、槍を廃棄しようという意図はないのだし、こうもぴったりくっついてくる必要はないだろうに。
とりあえず根岸は、ホルダーから槍の穂を引っ張り出す。
その途端、目の前で何かの光が明滅し、視界いっぱいに広がった。
――刃。
それは酷く不鮮明で、昔の映写機の画面のようだった。色らしい色もない。
ただ、日本刀と見られる複数の刃物が重なり合ったような画像とは理解出来た。
不可解な景色は一瞬だけ根岸の視界を支配し、蜃気楼のごとく消え去る。
「……っ、今のは……?」
首を振って目を瞬かせ、車の方を振り返る。滝沢が泡を喰って運転席から出てくる所だった。
「根岸くん、どしたの! 呪いの発動!? 救急車!」
「いや、大丈夫です……救急車は幽霊運べませんし……先輩には見えなかったんですね」
「何が?」
滝沢は面食らっている。
あの不鮮明な景色を見たのは根岸だけだったようだ。……いや、見せられたのか。血流し十文字によって。
複数の刀とは物騒な
まるで夢か、脳裏に描いた空想を切り取ってみせたようだった。
(何か、メッセージを伝えたかった……?)
以前、ウェンディゴ――『灰の角』が諭一に、
言語で伝えられない怪異ならば、他の手段を取るしかない。そして根岸には不完全ながら、相手の意思を視覚的に読み取る力がある。
――血流し十文字の記憶を垣間見た時、現代人にとってはあまりに苛烈な戦場の光景、その怒りの強さに、自分にしてやれる事は何もなさそうだと思ったものだが。
世を呪う以外に訴える手段を持たなかったこの刃の怪異と、僅かでも感情を通わせた事は無駄でなかったかもしれない。言ってみればこれは、恐らく――
「僕……
「は?」
滝沢はいよいよぽかんとした。
訳が分からないのも当然だろう。根岸だって戸惑いっぱなしで、よく分かっていない。
ただ想像するに、刀のイメージを見せてきた十文字の意図は、警告ではないかと思う。根岸の向かおうとしている先に、槍の穂は何らかの危険を感じ取っている。
「滝沢先輩、ちょっと後部座席の荷物借りていいですか?」
「えっ……何に使うの?」
「所長にバレたらクビになりそうな事に使います。先輩はその……何も見てないって事にして下さい」
言いながらも、根岸は車のドアを開け、伸縮型の長大な定規を引っ張り出した。測量器具『バカボー君』である。
「じゃ、僕は先に大学に」
「不審な夜間工事の人って感じね……」
『バカボー君』を担ぎ、腰のホルダーに血流し十文字を丁重に入れ直して、私物のタオルで覆った根岸を眺めて、滝沢は溜息を吐いた。
「ちょっと色んな事が起きて混乱してるけど――もういいわ、後でまとめて考える。今は根岸くんの判断に委ねるから。スマホはすぐ連絡出来る状態にしといてね」
滝沢は運転席に戻り、駐車場に向けて車を出発させた。
感謝を込めてテールランプを見送ると、根岸は一人文学部棟へと急ぐ。
◇
大学は春休み中なので、学生証兼カードキーを持たない部外者は学部棟に入れない。
夜間出入口の前までやってきた根岸は、ミケに電話をかけてみた。コール音が続くばかりで、繋がる様子はない。
焦りを募らせていると、不意に目の前のガラス戸が内側から開いた。
「あれ、メンテナンスの方ですか?」
カーディガンを羽織った事務員らしい女性が、半開きの扉から不思議そうに顔を覗かせる。
根岸の現場作業着姿と、手にした器具を見ての発言だろう。
小金井市は治安の良い地域ではあるが、それにしてもかなり平和ボケ気味というか、危なっかしい行動だな、と根岸は日本の公共機関のセキュリティに不安を抱いた。
とはいえ差し当たって、このチャンスを逃す手はない。
「夜分にすみません、根岸と申します。ええっと……こちらの、遠藤先生とお約束が」
うっかり初手で本名を名乗ってしまった自分の馬鹿正直っぷりに、胸のうちでこっそりと呆れる。
切り出したからにはもう勢いで押し切るしかない。大学の文学部なら、特殊文化財センター職員が訪ねてもそう不自然ではないのだ。研究協力とでも言ってしまおう。
「ああー、遠藤先生。ほら退職されるっていう。ご挨拶かしら」
カーディガンの女性の後ろから、もう一人年配の女性が声を上げた。
(退職?)
と、根岸はこっそり驚く。
「もう、最後までマイペースな先生だわね。時間外のお客様は事前に連絡頂かないと」
「全く。ああすみません、ちょっとこちらでお待ち下さる?」
事務員たちがぶつくさと囁き合いつつ根岸を招き入れた、その時だ。
「――誰か!」
階上のどこか遠くで、微かにそんな声が響いた。
聞き覚えのない声色だったが、根岸は弾かれたように顔を上へと向ける。
「えっ、なに? 今の」
事務員たちが怯えた顔を見合わせた。
根岸は二人に、「ここにいて下さい!」と告げるなり、階段目がけて駆け出す。
「ちょっと!」
後ろから咎める声が飛んできたが、話は後だ。
文化人類学研究室は――恐らく三階だ、と根岸は当たりをつける。以前、暴走する芹子の『虫』と遭遇したのはそのフロアだった。
走りながら根岸は、血流し十文字をホルダーから取り出した。タオルを細く裂いて、それで槍の穂を『バカボー君』の先端に固く括りつける。不格好だが、即席の槍の完成だ。
もし十文字に殺意があったならこの場で呪い殺されそうな所業だが、一先ず根岸はまだ生きている。呪うなり恨むなり、これも後で好きにして貰う。
三階に到着し、記憶を頼りにラウンジとは別方向の暗い廊下を走る。それらしい表札のかかった扉を見つけ、勢いよく開け放った。
その先の部屋に広がる光景は、異様だった。
手に手に刀を携え、ぼうっと立ち尽くす複数の人影。いずれも幽霊に見えたが、怪異の匂いは嗅ぎ取れず、身体の部位が一部裂けたり伸びたりしている者が多い。
七振りの刀――ひょっとして行方知れずの康重の作品ではないかと、咄嗟に根岸は連想する。
血流し十文字はこれらの存在を察知したのかもしれない。十文字にとっては、同じ刀工集団によって鍛えられた、兄弟姉妹のようなものだ。
刀を握る者達の中に、一人だけ見知った、生ける人間の顔があった。
そして彼の真向かい、床の上の血溜まりに倒れ伏しているのは――
「――ミケさん!」
幽霊でも頭に血が上る事はあるのだと、根岸は初めて知った。
瞬間的に湧き上がった、視界が曇る程の怒りと焦燥感。両足がもつれそうな勢いで勝手に前へと進む。最小サイズまで縮めていた『バカボー君』を思い切り引き伸ばす。三メートル分の目盛りが表示された。
「ああああああッ!」
言葉にもならない叫びが絞り出される。
根岸の目の前には、一体の女の幽霊がいた。今にも刀を振り下ろそうとしている。彼女が斬ろうとしている相手は根岸の知らない人間の男だったが、細かい状況はもう目に入らなかった。
根岸は刀に向かって、無我夢中で槍の穂先を突き出した。
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