第35話 猫と死霊の剣舞 (8)

 血溜まりの上に倒れ伏している自分に、ミケは気づいた。

 ほんの短い時間ではあるが意識を失っていたらしい。


 あるじたる『もがりの魔女』と契約した使い魔ミケは、半不死の怪異である。主人が死ぬか契約を解除しない限り、肉体の損傷は修復され怪異としての生命は維持される。


 ただし、契約の呪縛は血に宿るものだ。

 そして精神の生命体である怪異といえども、人の形に顕現した肉体は、内臓の構造までほぼ人間を踏襲している。心臓部は血液の源泉だ。

 つまり、心臓を抉られるのはミケにとって深刻なダメージとなる。


 おまけに――と、ミケは血の味のする舌打ちをした。


 まだ胸から刃が抜かれていない。

 うつぶせになったミケの背の上には、一人の男がしかかっていた。

 先程の、姿の薄い幽霊とはまた違う個体だ。口の片側だけが大きくひきつれたように裂け、骨ばった両腕が異様に長く伸びている。

 かつて音戸邸に現れた女の幽霊を思い出させる異形だった。


 幽霊の姿形は、死の瞬間のイメージか、顕現する際の当人の感情に引きずられる。こうも人の形を超えて存在しているという事は、苛烈な憎悪を遺して死んだか――あるいは、


 アマチュアの降霊会などでよく起きる事故だ。

 東京都では条例により降霊会が原則禁止とされているが、異形と成り果てた故人の幽霊が召喚されて、理性も失い、呼び出した相手に襲いかかってしまう事件は、世界的にしばしば発生している。

 なお日本国内でも、青森県など一部地域では認可されたプロによる降霊が可能だ。


 貫かれた身体を動かさないように、ミケは周囲を伺った。

 背中に圧しかかる幽霊以外に、七つの人影が確認出来る。

 うち一体は、先程の姿の薄い幽霊だ。蹴り飛ばした刀は拾われてしまったらしく、機械的に再び構えを取っている。

 更に一人は、ミケが投げ技をかけた院生だった。相変わらず床の上に倒れてぴくりとも動かないが、耳を澄ますと呼吸音が聞こえたから、まだ生きてはいる。その事にとりあえずミケは安堵した。


 残り五つの人影は――四体の幽霊と、一人の人間。

 その全員が抜き身の刀を携えている。日本には長らく、銃刀法違反という法律があるはずなのだが。


「なるほど、不死の猫又……」


 うっそりとした声が上がる。

 この室内で刀を握る、唯一の生きた人間。遠藤周えんどうあまねの発言だった。


「心臓を貫かれれば、怪異といえども死に至る個体は少なくないはず。先程の反応速度といい、『殯の魔女』の使い魔は……流石の危険度ですね……」

「危険、ってなぁ。日本刀こっちに向けてる真っ最中の人間が言えた台詞かよ」


 大仰な溜息と共にミケは憎まれ口を叩く。

 本音を言えば溜息などつきたくないし、喋りたくもない。心臓を貫かれたまま身体を動かすのは、舌先一つも苦痛で億劫だ。だがそれを相手に気取らせるのも癪だ。


「どうやら随分と、大袈裟な仕掛けを用意したようじゃないか。遠藤先生」


 と、ミケは自分を取り囲む怪異たちを見回した。


「本来怪異として顕現しないはずの死者の精神を無理矢理呼び出し、刀にかせた。刀の方は、多分……元々別の怪異が憑いてた奴を『浄化』して、まっさらにしたもの。その上で、小型結界の中に刀と霊を閉じ込めて両者を縛りつける。そんな所か。これで、陰陽庁でも呪物としては検知出来ない――しかも術者の意志で暴れさせられる、武器憑きの怪異を作り上げた訳だ」


 もう一つ言えば、研究室自体にも結界が張られている、とミケは推測する。

 最もメジャーな結界術、『未掟時界アンコンヴィクテド』ではない。あれは物理的被害を防ぐには最適だが、一方で踏み込めば人間の素人でも違和感に気づく。


「……人間の使う結界術に『調停静界アービトレイション』ってのがあるよな。怪異の嗅覚を鈍らせるやつ。この部屋に張り巡らされてんのはそいつかな?」


 『調停静界アービトレイション』の肝は、感覚の鈍化のため、結界内に誘い込まれたかどうかもすぐには判断出来ない点だ。

 それほど強い結界ではないが、他の罠の存在を隠すには有効な、二重掛けを前提とした方術である。


「お見事……」


 ぼそりと、遠藤は応じた。


「この状態で、瞬時にそこまでの推察……。まだ余力を残していると見るべきか、それとも、こちらにそう思わせたいのか……」

「実を言えば後者だ。今のはアドリブの当てずっぽう。しかし大体当たってたみたいだな」


 とはいえ、トリックが分かった所で事態が好転するものではない。

 時間を稼いで肉体の回復を狙いたいのだが、やはり身体に刀が刺さったままでは難しい。


 驚いた事にミケを貫いた刀は、異形の怪異に取り憑かれながら、浄化された状態を保っていた。傷の治りが遅いのはそのせいと思われる。

 聖剣だとか聖なる矢だとか、ああいう類いの武器だ。怪異を斬るにはもってこいと言えるが、こんなものに結界術で無理矢理縛りつけられた幽霊の方は、常に焼けた鉄を手の中に押し当てられているような心地だろう。

 ――苦痛から解放されるには、術者に結界を解いて貰うしかない。電流の流れる首輪をはめられた犬も同然だ。何だって言いなりになる。


「よくもまあ、こんな真似が出来るよ」


 こみ上げる不快感から、ミケは吐き捨てた。


「この霊たちの元になった人間はどうしたんだ。殺した? その上で死者の意識を無理矢理呼び出して、拷問みたいなからくりでこき使ってんのかい?」


 人に対しても怪異に対しても、これほどの命の冒涜はそうそうない。


「……一色綾いしきあやも、こうやって異形の霊に仕立てたのか?」


 ミケの発したその名前に、遠藤は微かな反応を示した。

 しかしこちらに視線を投げる遠藤の薄暗い顔色からは、相変わらず感情らしいものが読み取れない。怪異である自分が言うのもなんだが――とミケは思う――全く、幽鬼のような男だ。


「怪異ごときが……人の命をいたんでみせるな、白々しい」


 僅かながら語調の端に滲んだのは、苛立ちだろうか。


「ごとき、ってこたぁないだろ。失礼な人間だな」


 そもそも、とミケは眉をひそめて続ける。


「この部屋にいる怪異たち……それに一色綾……本人も望まない形で『怪異ごとき』とやらを増やしたのはあんたじゃないのか、死霊使いネクロマンサー


 遠藤が何を考えているのか、未だ詳細は分からないが、たった今一つだけ明白になった。

 彼は怪異を憎んでいる。

 怪異を憎みながら怪異を顕現させ、道具のごとく使い捨てる。容易には理解しがたい所業だが、ミケも長らく人間社会を観察して、人間が時折、どんな悪霊も大妖怪も凌駕する残酷さを発露する事は知っていた。


 そして時に、そうした狂気は組織の中でこそ歯止めが利かなくなる。


 ――とても一個人で出来る芸当じゃなくなってくるぞ。


 昼間に根岸と交わした会話を、ミケは思い出していた。

 最初から複数名による組織的な動きがあったのだとすれば、なるほど色々と辻褄は合う……ただし、現在の状況をますます最悪と認識する必要がある。


 現状と言うなら、六体の怪異を結界に閉じ込め、同時に研究室内に別の結界を張る――これはあまりにも離れ技だ。生身の人間が一人で使いこなせる技術ではない。

 方術の使い手は複数、と見るべきだろう。


(まだ、隠れてこっちを窺ってる他の敵がいるとなると……はてさてどうしたもんかね)


 焦燥に駆られる胸中をどうにか鎮め、頭を捻るミケの横合いで、うう、と呻き声が上がった。

 先程ミケが投げ飛ばして気絶させた院生が、目を覚ましかけている。

 そちらに視線を向けて、雑用を思い出したかのような調子で遠藤は口を開いた。


「ああ、そうでした……本来はね……彼を殺して、怪異として顕現させるだけの予定だったんですよ、今日は。偶然、貴方を見つけたので予定を変更しましたが」

「――なんだって?」


 予想外の剣呑な告白に、ミケは目を丸くする。


「なんで――そこの坊ちゃんが何をしたってんだい」

「いえ、何も。特に優秀な院生でもなく、不出来という程でもありません……。ただ、彼は私と長期間の関わりがあった。『縁』の深い人間の幽霊は、連れていても日本の怪異探知システムを掻い潜れる可能性がある。有用です……」

?」


 流石にミケも、背筋が冷えるのを感じた。

 この人間は、長年の自分の教え子を殺す事に一切躊躇も慈悲も覚えていない。

 職場を辞する片づけのついでに、退職金代わりに新しい『道具』を持っていく。それくらいの感覚だ。

 ……恐らくは、この大学の学生だったという一色綾も。何らかの形で遠藤に接触され……


「あんまりこういう言い回しは好きじゃないが」


 自分の瞳がふちから金色に染まりつつあるのをミケは察知した。猫科動物にそなわる本能的な警戒心からだ。桁外れの悪意と相対した時の。


「あんた、化け物だよ」


 両手の十指の爪を密かに鋭く伸ばす。

 遠藤は――このタイプの死霊使いネクロマンサーは、滅多に自分で手を下さない。怪異を実行犯にすれば、万一裁かれるとしても言い訳が立つ。一方でどんな理由があろうとも、人を殺した怪異はまず抹殺対象だ。


 ――この哀れな幽霊達が、命じられるまま人を殺す所など、ミケは見たくなかった。


「いいえ、私は正常な人間ですよ。間違っているのは今この時代の方です。……怪異に理解せよとは言いませんが」


 あくまで平静に遠藤は応じ、自分の傍らに控えていた一体に、軽く手の平を向けた。

 進み出たのは、白目を剥き首が奇妙な方向に折れ曲がった女の幽霊で、彼女の手にも日本刀が握られている。


 女の幽霊が刀を構え、身じろぐ院生の方へと近づいた。

 ようやくはっきりと目を開いた院生の眼前に、刀の切っ先が迫っている。


「え……? うわああっ!? たっ、助け――誰か!」


 声を限りに彼は叫んだ。事務室か学部棟の外か、どこかに悲鳴が届いただろうか。しかし、誰が耳に止めようと最早彼を救うには間に合いそうにない。


 ミケは全身に火の粉をまとわせ、凶暴に吠えた。今の状態で強引に動けば、心臓どころか半身が裂ける可能性もあったが、逡巡している猶予はない。力任せにと決めた。


 そして、その直後。


「――ミケさん!」


 突如、研究室の扉が開かれ、新たな声が飛び込んできた。

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