第34話 猫と死霊の剣舞 (7)

 「何だ猫か」というフレーズがある。

 映画や小説のお約束の一種をそう名づけたものだ。


 例えばサイコスリラー映画などで、登場人物が背後の物音に驚き振り返ると、物陰から猫が現れて通り過ぎる。「何だ猫か」と安堵して前方に向き直ると、そこにいつの間にか殺人鬼が立っていて襲われる。そういうパターンだ。


 通り過ぎる猫こそが侵入者だったというパターンは何と呼ぶべきなのかなと、ミケは益体もない事を考える。


 昔のミケは今より危なっかしい仕事もこなしていた。結果、彼はいくらか鍵破りや金庫破りの技術を身につけている。

 室内扉用のインテグラル錠――丸型のドアノブに鍵穴が付いているタイプだ――くらいならば、苦もなく解錠出来た。


 その技術を久しぶりに駆使して、時に猫に化けて身を隠しつつ、栄玲大学文学部棟を隅々まで調べ回ったミケは、今は人間の姿を取って堂々と廊下を歩いている。


 学校に来たついでに、端末室で来年度の授業計画シラバスを印刷してくるつもりだった。春休みの夜に校内をうろついている理由について、問い質された時の言い訳も立つ。


「肝心の文化人類学の研究室は、調べられず終いか……」


 と、ミケはぼやく。


 普段、遠藤准教授が詰めている部屋である。一番に調べたかったのはそこだが、扉の外から中を伺ったところ、明かりが漏れ人の気配があった。教師か学生がいるらしい。


「つまり、成果は特になしっと」


 ミケは憂鬱に首の裏を掻いた。


 このところ頻発する奇妙な事件。

 多摩地域連続殺傷事件以外は、世間的に大ごとにはなっていないが、しかし突き詰めればどれも怪異全体に関わる異変だ。

 ひいては根岸の死因にも関係している。彼のためにも、何か手掛かりを見つけてやりたかったのだが。


 根岸秋太郎――幽霊として生きるには律儀過ぎるあの青年を、ミケは気に入っていた。同時に心配でもあった。

 彼は命を落とした時、職場の上司である滝沢を庇っている。滝沢への思慕がそうさせたところはあるだろうが、しかし誰にでも出来る真似ではない。


 たまにいるのだ。目の前で他人が傷つこうとしているのを見ると、考えるより先に身体が動いてしまう、そういう性分の持ち主が。人間にもいるし怪異にもいる。猫にもいる。

 ……彼にとって最も大切な家族も、同じ性分だった。


 根岸は滝沢を守った事を後悔していないだろうし、同じ状況に立たされれば、これからも何度でも同じ事をするだろう。相手が滝沢でなくとも。知り合いですらなかったとしても。


 その気性を矯正せよとは言えない。しかし、勝手に危険に飛び込んでいろと放っておくのもミケとしては御免だ。

 こうして浅からぬ縁が出来たからには、助けてやりたい。

 そうする事で、かつて亡くした家族の面影を追っているのだろうか、とミケは自身に向かって問う。


(俺もいい歳こいてまあ大概、面倒な性格だ。御主人が目覚めたらまた笑われんなこりゃ)


 ミケは胸中で自嘲気味に零した。


 その時不意に、前方の事務所の扉が開いた。

 扉の向こうから現れた、段ボール箱を抱える人物にミケは軽く瞠目する。


「……遠藤先生」

「ん? ああ君は、概論の授業に出てる学生だね……。駒田間こまたま君だったかな」


 珍しい苗字だね、と感想を付け加える遠藤は、相変わらず鬱々とした声音で薄暗い表情である。

 学生の前で、これといってネガティブな愚痴を零した所は見た事がないのだが、一方で彼が楽しそうに振る舞っている所も、ミケは目撃したためしがない。


「春休みに登校とは、何か進路の相談でも?」

「いえ――来季のシラバスをプリントしに。うち、プリンターないんですよ。でもアナログ派なんで紙で持っときたくて」


 学生らしい口調に努めつつ、ミケは肩を竦めて応じた。

 無駄紙削減のためだとかで、栄玲大学のシラバスは、学生向けの公式サイトから電子版を閲覧する仕様となっている。


「なるほど。分かるよ、私もアナログ派でね……。お陰でデスク回りが紙資料だらけで片付けが大変だ」


 そこで遠藤はふと思いついた風に段ボールを見下ろし、またミケに向き直った。


「駒田間君……。大変申し訳ないんだが、急ぎの用がなければ――そこに置いてある空き箱を運ぶのを手伝ってくれないか。研究室まで……」

文化人類ブンジンの研究室ですか? いいですよ」


 渡りに舟とばかりに、ミケは頷いた。堂々と研究室内に侵入出来るのなら、願ったり叶ったりである。

 都合の良すぎる成り行きと言えばその通りで、警戒すべき状況かもしれない。

 しかし、とミケは思い直した。虎穴に入らずんば虎子を得ずという奴だ。この状況で断固拒否するのも不自然と言える。


 事務所に入って中を見回すと、入り口近くに空の段ボール箱が置かれている。

 それを抱え上げて、ミケは遠藤に続いた。


「片付けって、研究室の大掃除でもするんですか?」


 階段を上りながら、ミケは何気なくたずねる。


「ああ――」


 遠藤も平静なものだった。


「退職する事になったんでね」

「……!?」


 予想外の回答に、軽く言葉を失う。


「退職って、准教授の仕事自体を?」


 遠藤は准教授としては若い。大学のポストはどこも狭き門だから、この年齢で掴んだポジションを手放すのは、誰であれ何であれ惜しいはずだ。


「そうだよ。――せっかくシラバスを印刷したのに、多分内容改訂されて刷り直しだな。申し訳ない」


 相当に急な決定だったらしい。不祥事による解雇でも疑われそうな話である。


 ――ミケと根岸が一連の怪異事件を追う中、遠藤の名前を共通項に見つけた、まさにこのタイミングで。まるで夜逃げのようだが、果たして偶然だろうか?


 ミケ達の動向が逐一見張られていたとも考え難い。が、彼らが遠藤を疑ったのと同様に、もまた疑惑を向けていて、それを察知された可能性はある。

 例えば陰陽庁。あるいは、警察。

 鎌を持つ悪霊となった女性、一色綾いしきあやの失踪事件はあくまで警察の管轄だ。


「何か?」


 遠藤がミケの方を振り返る。考え事のせいで足取りが鈍くなっていたようだ。


「いえ。……残念ですね。『文化人類学概論』、面白い授業でした」

という奴でね。私も残念だよ……」


 互いに本心の見えない遣り取りを交わして、薄暗い廊下を進む。

 目的の研究室のドアを開けると、途端に明るい照明が二人を出迎えた。


 部屋の造りは他の研究室とそう変わらない。

 折り畳みテーブルを二つ繋げた大テーブルにパイプ椅子。小さな給湯スペースにはマグカップやコーヒーメーカーが雑多に並び、壁際を埋める本棚には専門書と学術誌がぎっしり詰まっている。


 間仕切り代わりのマガジンラックの向こう、部屋の奥側には院生や助手の使うデスクが並び、更にその先に教授・准教授用の個室に続くドアが二つ見えた。


 デスクの並ぶ一角では院生と思われる青年が一人、眠たげにコーヒーを啜りながらノートパソコンを叩いている。部屋に入ってきた遠藤とミケを見て、「あっども、お疲れっす」と頭を下げた。


「お疲れ様です……。では駒田間君、どうもありがとう……」

「はい。箱は、そこに置いとけばいいですよね?」


 ミケは教授用個室のドア前を指差す。同時に彼は、怪異の嗅覚を最大限研ぎ澄まして室内を探っていた。


 ――この部屋はおかしい。


 一歩踏み込んだその時から、ミケはそれに勘づいていた。しかしその異常の原因がわからない。というより――


(何の匂いもしない……? どういう事だ)


 院生の飲んでいるコーヒーの匂いや、そこらに積まれた書籍に染みついた古い紙の匂い、それらは把握出来る。怪異でなくとも、猫科であれば人間より詳細に嗅ぎ分けられる物質の微粒子だ。

 怪異同士が感じ取っている『匂い』は、物質の発するものではない。精神や意思の固まり――いわば『魂』が、常に放出している疑似的粒子である。人間や通常の生物からも発生する。


 ただし、肉体という殻に覆われた物質生命体よりも、精神の固まりを剥き出して存在している怪異の方が強い『匂い』を発する。そのために、怪異同士は互いの存在を察知出来る。


 だが、微弱とはいえ物質生命体も『匂い』を発するはずなのだ。

 獣の化けた妖怪は、『匂い』の感知に特に優れている。物質が放つ汗だの皮脂だのの匂いの方がずっと強いから、普段はわざわざ嗅ぎ分けないが、いざとなれば人間の『魂』も読み取れる。


 この室内には人間もいるし、誰が持ち込んだのか、小さな鉢植えも置いてある。

 これで一切何の存在も感知出来ないとは、部屋かミケの鼻が異常を来たしているとしか思えない。


(何だか知らんが、とっとと部屋を出よう。仕切り直した方が良さそうだ)


 思考を顔には出さず、ミケは身を屈めて空箱をドアの脇に置く。


 微かな音がした。

 怪異としての感覚が鈍った中で、それに反応出来たのは猫科の本能ゆえだろうか。


 屈み込んだ姿勢から、ミケは突如ばね仕掛けのように跳ね飛び、空中で身をひるがえしてデスクの上に着地した。

 コンマ数秒前までミケの首があった場所を、銀色の薄刃が薙ぎ払う。弾丸をも超える速度だったが、その得物は火器ではない。刀だ。

 刀身だけが宙に浮いている。


 数瞬ののち、刀の周囲の景色がゆらりと揺らいだ。

 陽炎かげろうのごとく、人影が形を成していく。


 幽霊か、とミケは眉根を寄せる。


 シャツにデニム、日本刀にはあまり似つかわしくない服装の男が一人、ぼんやりとそこに立ち尽くしていた。

 その姿は淡く不安定で、とても刀など振り回しそうには見えない。刀の方は、間違いなくこの世の物質で出来た鉄の塊なのだ。しかし男は、手本のような中段の構えで、確かに刀を握りしめている。


「うっ、うわっ、ユーレイ!?」


 前触れもなく目の前で繰り広げられた怪異の攻防に、院生の青年が上擦った声を漏らした。コーヒーの入ったマグカップが取り落とされ、床で派手な音を立てて割れる。

 途端、日本刀を握った幽霊は、物音を咎めるかのように院生の方を向いた。刀の切っ先も同様に。


「おい馬鹿っ、よせ!」


 ミケは思わず叫んだ。

 幽霊が、今度は院生目掛けて斬りかかったのだ。


 デスクマットを踏み切って、ミケは再度飛んだ。

 刀が振り下ろされるぎりぎりの所で二者の間に割って入り、院生の青年の襟首を掴んで力任せに投げ飛ばす。更に上体を捻った反動を利用して、幽霊の握る日本刀の柄部分を踵で蹴り上げた。


 刀が空中に放られ、弧を描いて床に落ちる。


 一方、ミケに投げられ背中から床に叩きつけられた不幸な院生は、そのまま呻き声を上げて伸びてしまった。この際こらえてもらうしかない。


「何だってんだ……!」


 数本ばかり髪の毛を切られた。ミケは頭を振って顔についた髪を払い、呼気と共にぼやいた。


 直後――


 床に落ちている日本刀とはまた異なる刃が、突然ミケの眼前に出現した。

 身幅の広い武骨な形状の刀身が、血にまみれている。

 長大な刃渡りを持つその刀は、背後からミケの心臓部を正確に貫き、照明を反射して不気味な輝きを放った。

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