第27話 怪談の学校 (8)
「――根岸さんは」
管理棟の入口まで出てきたところで鶴屋に呼ばれ、根岸は振り向いた。
他の面々は帰路につくため、駅の方に向かって先を歩いている。
諭一はリンダラーの攻撃の影響でまだ
「方術が使えるんですか? 幽霊でありながら」
そう
先程、根岸が結界術を使おうとしたのを、鶴屋も見ていたのだろう。
「ええ。何故使えるのかは僕にも分かりませんけど……」
根岸は正直に答える。
「勿論、プロの陰陽士さんにはとても
「いやいや。それ、とんでもない事ですよ」
真剣というよりは困惑しきった顔になって、鶴屋は首を横に振った。
「怪異が変身したり自然現象を操ったりするのとは、理論上大きく違います。そりゃ『理論上』なんて怪異相手じゃ通用しないってのは、重々承知してますが……それにしたって」
顎に手を当てて何事か考え込み、そして鶴屋は正面から根岸に向き直る。
「『
「……一応は」
スペル・トークン使用資格試験に合格したのだから、根岸も方術の理論についての基礎知識は身につけている。
――結界術、『
怪異は物質として構成されるよりも先に、精神が塊となって
ならば、彼らの引き起こす災厄を食い止めるには、不確定の存在である怪異が物質世界に影響を与えない可能性を確認し、それを確定させれば良い。そんな発想から編み出された対抗策だった。
『
遥か昔から文化圏を問わず、邪霊や魔物を退散させる方法は、光を当てる事と正体を見破る事とされてきた。
太陽光の下に晒す、洗い清めて真の姿を確認する、真の名前を呼ぶ。そうした伝統的な怪異祓いの発展型とも言える。
資格試験用テキストに書いてあった文章のほぼ受け売りではあるが、根岸はそのように
「うんうん」
方術使いのプロたる陰陽士の鶴屋は、根岸の説明に頷いた。
「その認識で間違ってません。ただ問題は、我々が方術で『怪異被害の起こり得ない世界』を視認している時、それは一体何を見ているのか、という点です」
「何を……?」
話の道筋が見えず、今度は根岸が戸惑いに首を傾げる。
「そこはつまり、異世界って事なんですよ」
端的に、鶴屋は言った。
「異世界と言っても、ナルニア国だとか9と4分の3番線の向こう側ってんじゃありません。私達の世界とそっくりで、だけどほんの少しだけ異なる歴史を歩んだ、怪異の存在しない
鶴屋は一旦口を
「根岸さん、フォトショップって使った事あります?」
「はあ?」
突然明後日の方向に話が飛んだ。根岸は呆気に取られたが、一先ず質問に答える。
「えっと、トクブンの広報担当の先輩が使ってるのを横で見てた事はありますね」
勤め始めたばかりの頃、何かのチラシを作るのを手伝った記憶があった。
「じゃあ分かるかな。例えば、フォトショでポスター作るじゃないですか。そうすると完成して印刷されるのは一枚の絵だけど、作業画面上はいくつもの『レイヤー』に分かれてるんですよ。背景レイヤーがあって、写真を配置したレイヤーがあって、テキストを入力したレイヤーがある。非表示にされたラフのレイヤーも」
「あー、はい」
鶴屋が頭に浮かべている図を、何となく根岸は理解した。
一見、一つきりのような世界は実は何層にも分かれている。人によっては
異なる世界層を認識する能力、それを人類は霊感だとか第六感と呼んできた。
「厳密には」
と、鶴屋は続ける。
「怪異である根岸さんと、人間――物質生命体の私が存在している世界も『違う』というのが、最近の怪異学の定説となりつつあります。こうして向き合って、お互いに声も聞こえてるんですけどね」
「そう……なるんですか」
感覚としては納得行かなかったが、理解は出来た。
かつて――怪異パンデミック以前、怪異を視認出来る人間はごく僅かな『霊感持ち』だけだった。現代ですら、多くの人間から認識されず、物質世界に干渉する力を持たない幽霊もいる。
それは何を意味するのか? 文字通り、住む世界が違う、という事だ。
「でも、異世界に住んでる相手を刺し殺したり、異世界の食卓のご飯を食べたり出来ますかね?」
どちらも根岸の身に起きた出来事である。
「現代は……何て言うか、異世界同士がすごく近くなっちゃったんですよ。昔はガラス一枚分くらいの隔たりがあって、たまにものの弾みで近づき、影響し合う程度だったはずの二つの世界が、常にキッチンラップ一枚挟んだくらいになってる状態」
ガラスケースの向こうにあるパン生地をこねるのは無理だ。が、ラップ一枚で包んだパン生地は
現在、物質世界と怪異達の世界はそういう関係にある。世界同士が強い影響を与え合い、変化を生み出している。
しかしこれは恐らく、不自然な状態だ。
現在の我々の世界は間違っている。そう主張する学者は、反怪異国を中心として多い。
「やーでも、間違ってるって言われてもね……私が生まれた時には元々こういう世界でしたし、勿論根岸さんだってそうでしょ」
苦笑して肩を竦める鶴屋に、根岸も軽く首肯した。
「カオティック・オーダーですね」
「また古いフレーズ知ってますねぇ、根岸さん」
一九七五年、旧アメリカ合衆国領を巡って長らく戦争状態にあった北米三国の間で、休戦協定が結ばれた。
この時、東アメリカ合衆国大統領、ディーン・フリーマンは次のような演説を残している。
――今や怪異のもたらす混沌は新たな世界秩序の一部となっている。私の子供達は、怪異のいる世界しか知らない。
望むと望まざるとにかかわらず、我々人類は奇妙な隣人と共に、
このフレーズが印象的だったらしく、各国で盛んに報道され、一時期の流行語になったと言う。
その演説が成されてから、更に半世紀が過ぎようとしていた。
「話が少々ズレましたけど……根岸さん、重要なのは」
鶴屋が改まった態度で呼びかけた。
「怪異が、怪異の存在しない
それは根岸にも容易に想像出来る話だった。
幽霊になってからも何度か結界を張った経験はあるのだが、方術を使いこなしながらも根岸は、自分が行使している能力の正体を、さっぱり分かっていない。
「世界層に上下左右なんてものがあるのかは知りませんけど、並びの順番としてはこんな仮説が」
そう言って鶴屋は片方の手を水平に掲げ、その上にもう片手を重ねる。
「まず、『怪異の観測されない物質世界』があり、その上……多分上に、今私が立ってる『怪異の影響を受けている物質世界』がある。そこに重なって、根岸さんのいる『怪異の世界』があります……」
今、自分が立っているという怪異の世界も、人間の影響を強く受けている。ふと根岸はそれに気づいた。
人間の根岸秋太郎がいなければ、幽霊の根岸も、少なくともこんな姿ではなかったはずだ。
物質世界の住民は感知し得ない、姿や形というものを一切持たない生命体が漂う世界――そんな
「……つまり、貴方が『怪異の観測されない物質世界』を視認するには、二つの
「なるほど。……いえその、確かに不思議ではあるんですが」
納得はしたものの、根岸は眉尻を下げる他ない。専門家に疑念をぶつけられたところで、相手より知識の乏しい状態では答えようがないからだ。
すると鶴屋が、こちらにずいっと歩み寄る。
「あのぅー、これも奇縁だと思って、今度中央局で身体の検査してみません? いやいや、怪異に人権がないからってそんなに無体はしませんので、是非!」
「ええ!?」
根岸は
丁度そこに、ありがたくも声がかかった。
「根岸さん? どしたい」
足元を見れば、ミケが根岸の脛にするりと横腹を擦りつけて、鶴屋との間に割って入る所だった。
根岸がなかなか追いついてこないので、戻ってきてくれたらしい。
「うちの客分と、何か揉め事か?」
そう言ってミケは、鶴屋に向けて短くフゥッと威嚇音を吐く。
「いやっ、まさか。音戸邸のお客さんと揉めたりしたら、始末書ものです。小金井局からも睨まれてしまいます」
穏やかならぬ三毛猫の剣幕に鶴屋は
「……あんた、中央局の陰陽士だってな?」
と、ミケは鶴屋を見上げ、髭の片方だけを動かす。
「妙だと思ってたんだが、
「あっ、はい、そのとおりなんですけどね」
ミケの質問に対して、鶴屋は肯定で応じた。
確かに、そこは根岸も奇妙だと思っていた。
ただ、都の中央怪異対策局の仕事は多岐に渡る。事件が起きるごとに対処するチームもあれば、長期的な調査や研究にあたるチームもあるようだった。鶴屋は後者かもしれない。
「しかしですね、去年の多摩地域無差別連続殺傷事件をはじめ、ここのところ深刻な被害を出す怪異事件が相次いでまして。上層部もピリピリしてるんですよ。それで念のため、ハイ」
曖昧な笑顔で説明する鶴屋を、ミケはなおもフンフンと足先の匂いを嗅ぎ回りつつ睨んでいたが、やがてくるりと二本の尾を向けた。
「……分かった。じゃ、帰ろうか根岸さん。どっかで昼飯食おうぜ」
「ええ――」
根岸は頷いて、ミケが前足でつついてくるので彼を抱き上げてから、「それじゃ」と鶴屋に一礼して、管理棟の玄関口を抜けた。
「あーっ、鶴屋さんまたこんな所でサボって! ねえ、事件解決したなら早く戻って報告しろって司令が!」
「はーい分かってますよ山東さん。あ、根岸さん! 名刺の裏に私の私用携帯の番号も載せてるんで、いつでも連絡下さいね!」
背後から騒がしい声が飛んでくる。
「私用携帯……」
根岸はミケを肩に乗せてポケットを探り、鶴屋に貰った名刺を急ぎ確認した。確かに、裏面にも電話番号が走り書きしてある。
「ひょっとして、トクブンの職員が……というか僕が、ここに来るってスケジュールを把握されてた?」
ミケの耳元で囁くと、心得た様子で彼も首を縦に振った。
「どうもあんたは、今注目の怪異になっちまってるらしいな」
しばらく身辺には気をつけろ。ごく小声でミケが付け加え、途方に暮れる気分で根岸は息を吐いた。
――自分は一体、どういう世界に踏み込もうとしているのだろう。
彼は肩口にミケの体重と毛並みを感じている。互いに怪異だから体温を持たないはずなのだが、どこか温もりを覚えるような心地すらあった。
たとえ、この世界も根岸も何かを間違えた存在で、是正すべきだったとしても、根岸は簡単には同意出来ない。
根岸秋太郎は死んでしまったが――ミケという猫又の元になった猫も、既に命はないのだろうが――それでも、自分達は確かにここにいて、まだ生きていたいと思ってるのだ。それだけが今分かる真実だ。
【怪談の学校 了】
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