第28話 猫と死霊の剣舞 (1)

 その日、根岸秋太郎ねぎししゅうたろうは朝から掃除に励んでいた。

 ここ三ヶ月ばかり彼が寝泊まりしている邸宅、音戸邸おとどていの大掃除である。


 明治中期に建造されたこの和洋折衷の屋敷は、ごく丁寧に手入れされ、いくらかの修繕を施されつつ今日までその威容を保ってきた。


 音戸邸のあるじは東京都内でも有数の大物怪異、『もがりの魔女』で、ここ一年程は眠りに就いているが、彼女は眠りながらでも強力な結界術を張り巡らせることが出来る。

 結界が張られている限り、邸宅内に悪意ある者が侵入する事は出来ないし、地震や嵐による被害も軽減されるのだ。


 が――流石に古い建物ではあるし、術者が眠りっぱなしなので、多少は結界に緩みも出てくる。


 そこで、怪異の関わる文化財を管理・保護する公益財団法人、東京都特殊文化財センターは、邸宅の耐震補強工事の計画を進めていた。


 根岸は音戸邸に住み着く幽霊であると同時に、特殊文化財センター職員でもある。音戸邸の担当者だ。

 彼が一度してしまったため、工事計画は延期されていたが、ようやく近日中に着手する運びとなった。


 そんな訳で根岸は、音戸邸の家令兼使い魔である猫又のミケと一緒に、今せっせと家の中の整理を進めているのだった。


「ふーぅ」


 中身の片付けられた書棚を雑巾で拭き上げた根岸は、屈めていた腰を上げ、背筋を思い切り反らした。

 幽霊の身にぎっくり腰が起きるとも思えないのだが、人間だった頃の動作の癖は概ねそのままだ。


 黒縁の眼鏡の位置を正したタイミングで、階段を上ってくる足音が聞こえ、カラリと引き戸を開けてミケが顔を覗かせた。


「よう根岸さん、お疲れさん」


 彼の正体は猫又だが、今日は人間の姿を取っている。中性的で端正な容貌の少年、でありながらどこか年季の入った風格を漂わせる振る舞い。

 音戸邸の主とは未だに対面も出来ていないが、彼とはもうすっかり気心の知れた間柄である。


 ミケは盆を抱えていた。そこにいくつかのおにぎりと、味噌汁と茶が乗っている。


「今朝炊いた飯握っといたんだ。そろそろ休憩しないかい」

「わっ、どうも」

「台所が掃除中で、鍋釜をテーブルに散らかしちまってるから、こっちで食おう」


 ミケは書斎机の上に盆を置き、早速おにぎりを一つ手に取った。

 本性が猫だからなのか、彼は鰹節かつおぶしが好物らしく、音戸邸の冷蔵庫には大抵、おかかが常備されている。今かぶりついたおにぎりも具材はおかかだ。


「僕手洗ってきますね」


 埃っぽくなった両手をはたいて、根岸は部屋を出た。


 音戸邸の二階は三つの部屋で構成されている。一階からの階段を上がると廊下が伸びていて、右手に八畳の寝室が二つ。そのうち手前側は客用で根岸が間借りしており、奥側はミケの部屋だ。

 廊下の左手には十五畳ほどの書斎が設けられている。

 今根岸が掃除をしていたのはその書斎で、更に書斎の奥には、トイレと簡易な手洗い場があった。


 洗面台はモザイクタイル張りである。藍色を基調とした磁器質タイルはレトロな雰囲気だが、思いのほか鮮やかで華やかさも備えていた。


「タイルのファンには堪らないだろうな、こういうの」


 つい声に出して呟く。聴覚の鋭敏なミケは書斎からそれを聞き分けたようで、


「タイルのファン。そんなのがいるのかね?」


 と、戻ってきた根岸にたずねた。

 

 ミケは開け放った窓辺に腰掛け、欄干に背を預けておにぎりを頬張っている。

 少々行儀の悪い体勢だが、外の景色でも眺めながら食べたいという気分は根岸にもよく分かった。つい先日までの冷え込みぶりから一転、今日は暖かく過ごしやすい日和で、庭の池のほとりでは梅の花が見ごろを迎えている。


「そりゃあたくさんいますよ。タイル専門の博物館やギャラリーだってありますから。大きい所では、岐阜県のとか……」


 仕事を抜きにしても、根岸は古い建物や古道具を見るのが好きだった。音戸邸の造作も隅々まで気に入っている。

 それは良いにしても、好きな事について語っていると、だんだんと熱が入って早口になるのは悪癖である。


「……つまりこの音戸邸の芸術性とは、実用性との意図的な両立というよりは、実用性を突き詰めた結果としての機能美がですね……」


 とその辺りで、根岸ははたと我に返った。

 ミケは感心半分呆れ半分といった表情で、ぽかんと熱弁する彼を眺めている。既に二つ目のおにぎりをぱくついていた。


「ああ――えっと、すみません、つい夢中に」


 慌てて身を縮め、ついでに盆の上のおにぎりを拾う根岸である。そのおにぎりの具は昆布だった。


「何だよ、謝るこたぁないだろ。根岸さんは面白いな」


 ミケは軽快に笑う。


「俺はそこそこ長年、色んな幽霊を見てきたつもりだが、あんたはその中でもなかなかのもんだよ」

「はぁ……恐縮です」

「余程、古道具が好きなんだな。それに博物館だとかの類いも」


 それはそのとおりだったので、根岸は正直に頷いた。


「それは、はい。上京して特殊文化財センターに就職するくらいには」

「だよなあ」


 おにぎりを食べ終えたミケは、茶を一口飲んでから立ち上がり、書斎の奥を指差す。


「そこの……まだ整理のついてない奥の本棚だが。御主人が集めた博物館の図録がいっぱい入ってるぞ」

「え?」

「一時期うちの御主人、旅行にハマってさ。国内は勿論海外の博物館美術館まで巡って、パンフ買ってきてくれたもんだよ。俺は留守番してる事が多かったから、土産にって」


 ミケはあまり乗り物が好きではない。

 旅よりも縄張りを守っている方が安心だと言うミケに、主人である『もがりの魔女』は、世界中から様々な土産と土産話を持ち帰ってくれたものだと彼は語る。

 ミケは海外の怪異にも詳しいが、それは恐らく、主人から得た知識なのだろう。


 主人の事を語る時、ミケは他では見せないいとおしげな眼差しになる。それは仕事上の雇用主に向けるものというよりは、家族に対するものであるように根岸には思えた。

 そうまで思っている主人が一年以上も眠り続けていて、寂しく心配ではないのだろうかと根岸は密かに案じているが、真正面からそう問い質すのも気が引ける。


「これなんて、ベルサイユ宮殿のパンフレットだ。こっちはノイシュヴァンシュタイン城、これがロンドン塔。ロンドンでは幽霊と大喧嘩になったってよ」

「イングランドの怪異はで有名だけど……大丈夫なんですかそれ」

「あ、これは随分近場だな。郷土資料館の図録……」


 ミケが手に取ったそれは、図録と言ってもごく簡易な、表紙含め八ページ程のパンフレットで、都内の郷土資料館が作成したものだった。

 表紙を見て、ミケと根岸は同時に眉根を寄せる。


「これって――」

が盗まれた資料館のじゃないか」


 根岸を殺した女の幽霊が持っていた鎌。

 幕末頃に作られたと推定されるそれは何の変哲もない農具で、どこかの農家から都内にある郷土資料館に寄贈されたものだった。


「いやぁ、こんなのがうちにあるなんてな」


 御主人はいつの間に行ったんだ、とミケは呟きながらページをめくる。最後のページの隅に発行日として、四年前の日付が記されていた。


「意外と最近のパンフですね」

「そうだな。『寄贈品特別企画展』? 何かのイベントついでに作られたみたいだが……うん?」


 不意に、ミケが紙面に顔を近づけた。

 発行日の上部には、パンフレットの作成に関わったスタッフの名前が載っている。そしてその隣には『協力』との項目がけられ、また二、三の人名が連なっていた。


 企画展の図録にはよくある項目だ。大抵は監修や資料提供をしてくれた、地元の名士や寺社、学者の名前が記載される。


遠藤周えんどうあまね


 記された人名の一つを、ミケが読み上げた。


「遠藤?」


 根岸はその名を頭の中で探り、ややあって「あっ」と思い出す。


「以前、ミケさんの大学で授業を聴講した時の先生……文化人類学の准教授。彼が確か、遠藤周先生でしたよね」

「そう。で、虫乙女をとめ唐須芹子とうすせりこを授業に招いた人だ」

「専門は確か――」

「アジアにおける農耕祭祀の比較、とか何とか」


 パンフレットでは、地域伝統の祭りの神輿みこしと装束が紹介されていた。

 豊穣を祈願するための祭り、と説明文にはある。現在は二十三区に数えられる大都市圏だが、江戸時代のその地域は田畑の広がる農村だった。


 区内にある旧家から、現在は失われた古式の祭りの資料が発見され、資料館に寄贈された。そこで祭りを特集した企画展を開催し、発行したのがこのパンフレット。紙面の文章を要約するとそういう話になる。


 遠藤周准教授が企画展のアドバイザーを務め、資料館に赴いた――? 根岸は考えを巡らせる。十分あり得る事だ。彼の苗字はともかく、下の名前は珍しい。同姓同名の別人は少ないと見ていいだろう。


 例えば……仮の話だ。遠藤が企画展の後も資料館を度々訪れて、関係を保っていたとして、何かの折に鎌を持ち出す事は可能だろうか?


「虫喚びも、農耕に関わる祭祀が起源の可能性がありますよね」

「そうなのか?」


 恐らく、と根岸は目を瞬かせるミケに答えた。

 ミケは全般に博識だが、人間側の怪異対策にまつわる文化史技術史については、根岸の方が少しばかり先輩風を吹かせられる分野だったりする。


 芹子のあの装束は、早乙女姿を連想させた。元々は蝗害こうがいや虫害を退しりぞけるための祈りと楽曲だったものが、やがて他の信仰と習合し、体内に巣食う極小の怪異への対抗策に変化していったのではないだろうか。


「なるほど。遠藤先生が虫喚びの連絡会と、研究のためのコネクションを作っても何も不自然じゃないってぇ訳だ」

「アジアの農耕祭祀って事は……まさか戌亥いぬい小学校の企画展にも関わっていた?」


 はたと気づき、根岸はミケと顔を見合わせた。

 タイの夫婦めおと妖怪であるピー・ガスーのリンダラーとピー・ガハンのチャチャイが離れ離れにされ、両名の暴走を招いた事件。

 あの時戌亥小学校の資料館で準備されていた企画展は、まさに『農耕と祭祀』だった。


「あれが、単なる手違いじゃなかったってのかい? チャチャイはわざとタイから連れ去られた……? いやしかしそうなると、いくら大学の准教授つったって、とても一個人で出来る芸当じゃなくなってくるぞ」

「――確かに、そうですよね……」


 興奮に空回る頭を振って、根岸は一旦気分を落ち着かせた。

 たまたま、二つの事件にまたがって関わる人物の名前を見つけたというだけだ。人死にも出ているような事件なのだから、安易に疑いをかけるのは良くない。

 ただ根岸を殺した幽霊は、遠藤の勤務先、栄玲大学の学生だったという事実もある。


 一色綾いしきあや。反怪異団体の一員だったという学生。

 一体彼女に何が起きて死に到り、自我を失った悪霊となってしまったのか。彼女の名前までは分かっても、それ以上の事は根岸にも、事件を追っている上司の滝沢みなみにも、解明しようがなかった。


「あ、そういや根岸さん、今日は日没頃に出勤予定だったよな。滝沢さんと」


 不意にミケが発言し、根岸も今日の予定を思い出した。


「そうだった。あれっ、今何時でしたっけ」

「まだ正午過ぎだよ」


 慌てなさんな、とミケは笑う。


 特殊文化財センターの仕事は、たまに夜間に及ぶ場合がある。

 怪異の中に、日光を嫌い夜にしか出現しない種が少なくないためだった。

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