第24話 怪談の学校 (5)
唐突に電子音が鳴り響き、諭一は飛び上がる程に驚いた。
「あっ……あ、電話か!」
半地下の倉庫は反響が良く、音の出所が分かりにくかったが、鳴っているのは自分のスマホだ。諭一は慌ててバッグを開いた。ミケからか、異変に気づいた根岸からの連絡かもしれない。
「はい! ミケちん!?」
画面もろくに見ずに電話に出ると、スピーカーの向こうからは、ザザッ、としばらく雑音がして、それから自動音声のような平淡な声が聞こえてきた。
『――わたし――メリーさん。いま――あなたの後ろにいるの』
「は?」
思わず、スマホを耳に当てたままひょいと後ろを振り返る。
積まれた石灰袋の手前。天井近くにある窓からの微かな陽光が射す床の上に、女の生首が転がっていた。
「わーっ!?」
大きくその場から飛び
……しかし、プラスチックだろうと鋼鉄だろうと、こんな所に人形の首が落ちているのは異様だし不気味だ。
そんな事を考えていたら、明後日の方向を見ていた人形の、塗料で描かれただけの眼が、ぎろりとこちらを見上げた。
「うぇ」
呻いたところで、また電話相手が声を発する。
『ねえ――あなた、なのかな? わたしの身体、盗んだの――』
どうも電話をかけてきているのは、目の前の生首らしい。
身体を盗んだとはどういう意味だ、と諭一は考える。彼は歳相応に――恐らくは平均以上に――異性に興味があるが、強引に事に及ぶような真似はしない。いや、状況から見てこれはそういう意味ではなく、文字通りの――
『わたしの――ないぞう――入れ物がなくなっちゃったのよ……』
「な……ないぞう? って……内臓?」
問い返す諭一の前に、新たな何かが転がってきた。袋の陰に隠れていたのだろうか。
それもまたプラスチックを思わせる材質だった。やや
人の心臓を模したものだ。
「……っ」
思考を巡らせる余裕もない諭一の前に、ごろりごろりと、人間の内臓の模型が転がってくる。胃袋に肝臓に小腸の
あまりに悪趣味が過ぎる光景だが、模型自体はかなり精巧に作られていた。元は理科室にでも展示してあった、教材の人体模型だろう。それが『入れ物』を盗まれた、とは?
「は、『灰の角』! なっ、何とかならない? 怪異同士でこう、もうちょい
壁際まで
『灰の角』が文字を
『COMING』
「……なんて?」
近づいてくる。何が?
ふと、日が陰ったように思えて諭一は窓を見上げる。
それと全く同時に、ガラスの割れる激しい音が部屋の中に響き渡った。
「うわっ――」
高い位置にある窓からコンクリートの床の上に、ガラス片が撒き散らされる。
諭一は咄嗟に腕で頭を庇った。彼の手首で刺青の模様が乱れる。『灰の角』も動揺しているらしい。
そして、メリーと名乗るばらばらの人体模型にとっても、これは予想外の事態だったようだ。
スマホのスピーカーからザーッと雑音が鳴り、
『ヨシエ』
と、
ガラス片に続いて、少女が窓の外から転がり落ちてきたのだ。
波打つ長い髪に、半ば骨の透けた身体。ブラウスと膝下まであるスカートという出で立ちだが、彼女は強引に開脚し、獣のような四つん這いで床に着地してみせた。
確かにミケがヨシエと呼んだ、音楽室と階段を
ヨシエは髪を振り乱し、
「うううあああああっ」
恨みを篭めた唸り声を発する。
その声に、何者かが呼応した。
「ごめんねぇ乱暴して。でも、邪魔してきたのは貴方よ」
突如部屋の中に、目に痛い程の赤い光が射し込む。
諭一が一瞬目を逸らし、また前方に向けると、そこにはいつの間にか、一人の女が立ち尽くしていた。
肩口までの黒髪に、墨筆で一息に引いたような悩ましげな眉、目元に長く影を落とす伏せがちの睫毛。厚めの
ただし彼女の首から下は、皮膚までも綺麗に脱ぎ捨てられていた。
肺も胃も心臓も、内臓が全て剥き出しになっている。こちらは模型には見えない。ぬらりとした質感に絶え間ない脈動、生きているもののそれとしか思えない。
一方、彼女の腕や脚はつるりとしている。どうやら作り物の人形らしい。――人体模型の胴体と手脚だ。
「大胆に脱ぐにも程がある」
顔を引きつらせて、諭一は呟いた。
まだ彼の手に握られていたスマホが、雑音混じりに喋る。
『わたしの――わたしの、からだ――!』
人形の生首が、突然現れた女の方に向かって床を這いずる。ヨシエも屈んだ姿勢のまま身構え、跳躍した。
「その身体はメリーの! 出て行けェッ!」
ヨシエが女の首に掴みかかる。首根を引っこ抜かんばかりの勢いだった。しかし、対する女は眉一つ動かさない。
そして次の瞬間、彼女の上半身から赤い光が放たれた。
「ぎゃっ」
悲鳴と共に、ヨシエが
床に叩きつけられたヨシエは、手脚の骨をあらぬ方向に散らばして、そのまま動かなくなる。
「子供って我慢がきかなくて嫌ねぇ。ちょっと借りただけじゃない、貴方の身体」
女は首を傾げてぼやき、その傾けた首を真っ直ぐにして伸ばした。
比喩ではない。首が伸びている。
というより――『入れ物』に納まっていた上半身の臓腑が丸ごと、ずるずると上方に抜け出したのだ。
「あたし、こんなだから。人間の街をうろつくには不便でしょ?」
「ウッソだろ……っ」
吐き気を催しかけて、諭一は口元を押さえた。
人体模型の身体を捨てて、彼女は宙に浮かび上がる。
美しい女の首に、臓物がぶら下がった状態で浮遊している。全体が淡く赤く発光し、とびきり趣味の悪いハロウィンのランタンのような様相だった。
「あらぁ、貴方は……人間ね? どうしてこんな所にいるのかしら」
彼女が諭一の方を流し見る。艶めいた視線だったが、諭一としては全く嬉しくない。
「まあ、どうでもいいけど……でも貴方の血、美味しそう。あたし、お腹空いてるの」
その言葉が終わるより早く、浮遊する首と臓物が動いた。
予想より遥かに、彼女の動作は速かった。壁際にいた諭一は弾かれたように床を蹴り、辛うじて飛来する首を回避する。勢い余って積まれた袋に突っ込み、白い粉と埃がもうもうと舞う。
「げほっ――『灰の角』ッ!」
咳き込みながらも、諭一はこの場で唯一の味方に助けを求めた。
諭一の首筋に噛みつこうとして虚空を掻いた彼女が、空中で大きく弧を描いて方向転換し、再び獲物へと迫る。
「グルガァアアアアアアッ!」
諭一の身に獣の姿を
室内の温度が一息のうちに、氷点下まで下がる。空気中の僅かな水分が凍てつき、『灰の角』の周囲のコンクリートは白く染め上げられた。
「あらぁ、凄い」
『灰の角』の振り回した角と爪を避け、天井近くまで後退して彼女は感心した。
「怪異憑きなのね。変な匂いがすると思ったら。貴方も、この辺の怪異じゃなさそうね……」
独り言を続ける彼女の臓腑は、赤い光を強めている。
瞬く間に倉庫の半ばまでを覆った氷が、光に照らされて溶け始めた。
ミケのように高熱を発している訳ではない。部屋を侵食する冷却効果だけを解除し、
「あたしはね、
にたりと『灰の角』に笑いかけて、彼女は言う。
「この建物にも誰かが結界を張ってたけど、
『灰の角』は白く凍った息を吐き、両角を前方に向けて体勢を低めた。
両者の、互いを狩りの獲物として測り合うかのような視線が交錯した、まさにその時。
「そこまでだ! お前、何をしてるッ!」
閉め切られていた扉が開き、赤いスカートにおかっぱ頭の少女が足音も荒く踏み入ってくる。
少女は室内を見回し、その惨状に顔を歪めた。
「メリー、ヨシエ……何てことを」
「貴方は……ひょっとして、この建物に結界を張ってたひと? ここの偉いひとって事かしら。ねぇ、結構強くて素敵な、
臓物を揺らめかせる女は、挑発的な声音で少女に問いかける。
「貴方、『彼』を知らない? この近くに、つい最近までいたはずなのよ。でも見つからなくて。貴方達の……この建物に巣食う怪異の誰かが、知ってるんじゃない?」
「何の話だ?」
「……どこにやった、って
女の声が怒気を
『灰の角』の内側で、諭一はひやりとする予感を
あの首と臓腑の怪異は、人を喰ったような態度を見せているが、その実、焦っているし飢えている。狂気に飲まれそうな状態に
自分もほんの数日前、同じ状態になったためか、何となく読み取れるのだ。
ついでに言うと、諭一はよく女性を怒らせるので、そうした声のトーンにも敏感である。
「『灰の角』、諭一」
ごく密やかな声がすぐ足元で上がり、諭一はそちらを見下ろした。
二尾の三毛猫がこっそりと間近まで忍び寄っている。
「ミケちん! なんでまた猫に?」
「接待だ」
「え?」
「いいから、行くぞ。その姿じゃドアを潜れん、人に戻ってくれ。あと寒い。肉球がしもやけになる」
「あ、うん」
人の姿へと戻った諭一はミケの後に続いて、壁際に貼りつくようにして倉庫の入口へと向かった。
首と臓腑の怪異は、階段から降りてきた少女と対峙していて、諭一の足止めをする余裕はなさそうだ。
赤い光を放つ怪異に対し、少女は自分の足元から、幾筋もの黒い影を伸ばしている。
一見、光源が複数あるために影が増えているだけのように思えたのだが、影はそれぞれかばらばらに
「あの子がひょっとして――」
「ハナコだ。ここは奴に任せる。お前さんを無事に逃がすのが先決だからな。ピー・ガスーに一度獲物と見定められると、しつこいぞ」
「ピー・ガスーってなに?」
「そこにいる生首と臓物の怪異だ。タイの妖怪。
ハナコもハナコだ、アメリカとタイの区別くらいつけろ――などとぶつくさ言いながらも、ミケは開け放たれた扉から諭一を脱出させる。
一階まで階段を駆け上がったところで、二人の目の前の窓にぺちゃりと赤い手形がついた。
「テケ、お前も一旦離れな。下でハナコが暴れてる」
手形の怪異にはテケという呼び名があるらしい。
諭一と手形の怪異まで引き連れて、廊下への曲がり角で背後を確認したミケは、途端にさっと両耳を伏せ、二本の尾を膨らませた。
「目を閉じろっ!」
鋭いミケの声が飛ぶ。慌てて両目を
「逃がすと思った?」
真上から女の声が届く。ピー・ガスーだ。
「ハナコを振り切ったのかよ、こいつ……」
薄目を開けると、ミケは人間の姿を取って諭一の前に立ち、天井付近を浮遊するピー・ガスーを睨み上げている。
「あらぁ、随分と可愛い子ね」
「そりゃどうも」
ピー・ガスーの言葉を受け流し、ミケはナイフ程の刃渡りまで両手の爪を引き出した。
ここで彼女と
しかもウェンディゴを相手取った時とは違って、本気で。
諭一も『灰の角』に助勢を頼もうとしたが、先程浴びたピー・ガスーの光の影響か、手足が酷く重い。
傍らを見ると、床に伸び切った不明瞭な手形が垂れている。テケはまともに光を浴びてしまったらしい。
――どうする。今ここでどう動く。
諭一は考えあぐねて、廊下の彼方を見る。
両開きの重たげな玄関扉。ついさっき入ってきたばかりのその場所が、残酷な程に遠く感じた。
「ねえっ、あれなに!?」
またも突然に、新たな声が響いた。
廊下の半ば程の所で、二体の怪異が窓枠に取り
一体これ以上何が起きると言うのか。諭一はつられて窓の外へと視線を移した。
――確かに、何かが空を飛んでいる。
まっしぐらにこちらへと近づいてくる。鳥のようにも見えたが、大き過ぎる。
「なん……」
自転車だ。空を飛ぶ一台の自転車に、二人分の人影が乗っている。
いや、正確にはどちらも人間ではない。ハンドルを握る一人は猛禽類を思わせる翼を背に生やし、後ろでしがみつくもう一人は、甲虫の
「突っ込んでくるよーっ!?」
絵画の少年少女が叫んだ。
直後、都指定重要特殊文化財である戌亥小学校の玄関扉は
木片と共に飛び込んできた自転車は廊下の上を滑空し、ほとんど突き当たり近くまで駆け抜けた上で、両輪を強引に床板へ擦りつけて、ようやく停止する。
戦闘態勢に入ったままのミケがぽかんとして、自転車のハンドルを握る、鳥の翼を生やした金髪の男に注目する。
「……
と、彼は名前を口にした。
それは今朝、電車の中で聞いた天狗の名だと諭一は思い出す。何の用事でか一緒にここに来るはずが、遅刻したという人物だ。
「ウヒャー、すっげー」
金髪の男の腰にしがみついていた、四枚の
近くで観察すると彼の
「今のブレーキ、『AKIRA』の有名な場面みたいだった! なあシヅマル、もっぺんやろー」
「アホかチャチャイ! 二度とやらねーよ!」
ぜいぜいと息を切らして、志津丸は声を荒げる。
それから彼は、その場にいる全員に向かって宣言した。
「届けモンだコラァァッ! ピー・ガハンを返しに来た!」
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