第18話 父祖の声は峰の果てに (12)

 一九三九年。ドイツによるポーランド侵攻を皮切りに、第二次世界大戦が勃発する数ヶ月前のこと。


 北米先住民の少数部族、『灰の角』の最後の一人となった青年は、自身が病に侵されていると気づいた。

 つい先日最期を看取った妻と同じ症状である。


 死に至るような病気ではなかったのかもしれない。十分な栄養が摂れたならば、清潔な場所で静養出来たならば、早期に医者にかかれたならば――それらのうちどの要件も、彼らは満たせなかった。


 ――


 彼は自責の念から、ほとんど生きる気力も喪失していた。病に罹患りかんし死期が近いと悟っても、絶望にこごえきった心は最早動かなかった。


 彼にとっての唯一の恐怖は、まだ幼い一人息子までもうしなう事だ。

 自らを隔離する必要があると、彼は決意した。


 彼には一人、友人がいた。

 手遅れの容態となった妻を最期まで看護してくれた男だ。

 彼とは異なる部族の先住民の血を引いていたが、医学知識が豊富で、白人からも信用されている。それを裏切りと非難する者もいたが、彼にはその友人を信じる道しか残されていなかった。


 息子を友人に預けて、彼は家を飛び出した。


「ウェンディゴを見つけ出す」


 と彼は周囲に言い残した。

 昔――子供の頃に聞かされた、人食いの化け物の言い伝え。


 その当時、怪異の存在をはっきりと認識する人間は少なく、彼も本気でウェンディゴの実在を信じていた訳ではない。


 荒唐無稽こうとうむけいな話を触れ回り、頭がおかしくなったとでも周囲に思わせておけば、彼を引き止める者はいなくなる。息子もじきに自分の事を忘れて、強く育ってくれる。そういう目論見もあった。


 ただ、もしも本当にいるのならば遭遇してみたいという思いも、確かにあった。


 かつては一族郎党が恐れてきた冬山の精霊。

 だが今となっては、先祖の暮らしていた山はほぼ無人の荒廃した土地だ。代々語り継がれてきた他の精霊の伝承はすっかり忘れ去られた。ウェンディゴが食い殺し、震え上がらせるはずの人々は滅んでしまった。


 『ウェンディゴ』という名は別の部族の言葉だから、『灰の角』の失われた言語による独自の呼び名があったはずだ。その名前も、言葉そのものも喪失した。哀れな名無しの怪物。


 殺されるならばそういう存在に食われたい。

 死ぬならば父祖の地で死にたい。

 そんな願望があった。ひょっとするとそんな思いに至った時点で、彼は実際に正常でなくなっていたのかもしれないが、それは誰にも確かめようがない。


 瀕死の容態に陥りながらも、彼は一人歩き続け、ついに父祖の土地である山の果てへと至った。

 そこで、ウェンディゴと出逢った。

 かつて信仰され、あるいはおそれられた、山の精霊達の生き残り。


 その山で最後の一個体となったウェンディゴもまた、飢えと孤独と絶望の中で消滅しようとしていた。


 彼はそれを理解し、ウェンディゴに訴えた――自分を食らい、その血肉で生き延びろと。

 ウェンディゴは彼の望みにこたえた。


 人食いの精霊は、かつておのれを恐れた部族の最後の一人の肉体を、食らい尽くした。


 食われる側がそれを受け入れた事による作用なのか。彼の記憶と『灰の角』にまつわる全ての知識、そして感情は、ウェンディゴの身の内にのこり続けた。


 戦争が始まり、世界に戦火が広がる中で、ウェンディゴ――『灰の角』の記憶を持つ怪異は、彼の血と思いを糧に生き、ひとり山奥に隠れ潜んだ。


 ようやく終戦の日を迎えたかと思うと、それから突如として、怪異がこの世に溢れかえる時代がやって来る。


 一九四五年以降、とっくに滅び去ったと思われていた北米大陸の怪異達が、次々と再び顕現けんげんした。

 ビッグフットがハイウェイの車を横転させたかと思えば、ワンプスキャットがハイキング客を食い殺し、サンダーバードが嵐を巻き起こす、といった具合だ。


 怪異は北米由来のものにとどまらず、アフリカ大陸の失われた伝承の怪物も、アジアの化け物も、アイルランド神話や旧約聖書で語られた獣まで現れた。


 当然アメリカ合衆国は大混乱に陥り、苛烈な宗教対立と民族紛争の末、ついには三国に分裂した。


 この間も『灰の角』はひっそりと、新たな国境となった山の奥地で生きていた。


 長らく何も口にせずにいたため、次第に飢餓感がつのりつつあったが、人間の記憶を引き継ぎ、そちら側に精神を引っ張られ過ぎたのか、最早人を食いたいという欲求は湧かない。

 このまま部族の記憶と共に、穏やかに消滅しても構わないと思えた。


 ただ、罪を償えなかったのだけが心残りだ。

 彼が償うべきは、この大陸のどこかにまだ無事でいるだろうか。


 意識の散逸しそうな日々が何十年と過ぎ、その果てのある日――

 『灰の角』は突然、懐かしい匂いを雪道の彼方から微かに感じ取った。



   ◇



 「……で、そこに来たのがぼく、ってわけ」


 ちょっと気の抜けるような調子で、諭一は説明を締めくくった。


「縁ある者の血の匂いを嗅ぎ取ったんだろうな。ウェンディゴに食われて……今もその体内に魂を根づかせてるのは、諭一の曾祖父ひいじいさん。これは間違いなさそうだ」


 ミケが言葉を添える。


「人間側が捕食を受け入れた事による魂の融合。その上で、諭一からも取り憑く事を受け入られた。結果としてそのウェンディゴは、人間に限りなく近い理性を獲得してる」


 先程のように、精神を操られでもしない限り彼は安全な存在だ、とミケは太鼓判を押した。


「裁いて欲しい、償いたい、と繰り返してましたが、それは――」


 と、根岸は確認するように問いかけた。


「――息子さんに対してですか?」


 諭一の手首にいくつかの文字列が浮かぶ。


『YES』

『HIS』『SON』


「彼の息子」


 諭一が呟いた。


「……それって、ぼくの祖父じいちゃん?」


 文字列が変形し、『灰の角』は再び肯定で答える。


「『どんな理由があったとしても、彼は我が子を遠ざけた。わたしは彼を殺した。謝罪しなければならない。そして』……」


 滑らかに文字列を翻訳していた諭一が、そこで言葉に詰まった。

 彼は微かに唇を震わせてから、続ける。


「『伝えなければならない』……『お前の父と母は、お前を心から愛していたと』……」


 リビングに沈黙が降りた。


 おぼろげながら、根岸は理解した。『灰の角』が人の血肉を口にせず、何十年も忘れ去られた山奥で孤独に過ごしながら、それでも理由を。

 根岸が幽霊になった時と同じだ。


 怪異は、想いによってこの世界に繋ぎ留められる。どうしてももう一目会いたい誰かがいる限り。あるいはその誰かに強く記憶されている限り。


「それ聞いたら、祖父じいちゃん喜ぶよ。いや、どうかな……多分喜ぶよ」


 曖昧な微笑を浮かべて、諭一が口を開いた。


「ただ、ぼく祖父じいちゃんがどこにいるか知らないんだよなあ。子供の頃に一回会ったきりだし。東アメリカのどこかで、まだ元気にしてるんじゃないかとは思うけど。流石に何かあったら、父さんに連絡来るだろうから」


 元々親戚とは疎遠そえんな家庭だったのだと、諭一は語る。


「十歳くらいの時、初めて会った――んだけど――その日に父さんと大喧嘩しちゃってさ。多分、ぼくのせいで。……祖父じいちゃんとは、それっきり」


 はぁっ、と諭一は大きく息を吐いて、背後のソファに深く腰掛けた。


「別にだからどうって言うんじゃなくて。親戚付き合いだの先祖の墓参りだの、今時そんな気にする必要もない事だし……ぼくが『灰の角』って部族を調べたのも、ほんの興味本位。何かこだわってた訳じゃないんだよ。……でもさ」


 彼は両手を鼻先で合わせ、そこに顔をうずめるようにして、しばらく俯いていた。

 その指の合間を、幾筋かの涙が伝っている。


「……なんでだか分かんないけど、今の言葉は嬉しいな……ぼくに言ったわけじゃないってのに。何やってんだろ、イタい奴じゃんこれ」


 肩を揺すって声もなく笑い、それから諭一は、絞り出すような嗚咽を漏らした。


 諭一がどんな思いで自分のルーツを調べ続けていたのか。彼の家族に、父や祖父に何があったのか。

 根岸には知りようもない。

 ただ諭一が今流している涙は、ごく誠実で真摯しんしな感情から来るもののように思えて、それを止めるための慰めの言葉など、根岸にはかけられなかった。


 自分の存在を肯定してくれるただ一言を渇望して、人は様々な行動に出る。時には無茶な真似もするし、他者との衝突もある。


 彼らは。山の果てに残されたウェンディゴも、『灰の角』の青年も、その子孫である諭一も。恐らくは、諭一の父や祖父も。


「血族ってもんは、ややこしいよな。人間は特に」


 ミケが諭一に歩み寄り、ソファに座り込む彼の頭に、気軽い調子で手を添えた。


「ややこしいが、しかし悪いもんでもないだろう。お前さんが今抱えてる思いは」


 諭一が一つ頷き、自身の手首の刺青を見つめる。


「父さんに話してみるよ、全部。……きっと祖父じいちゃんがどこにいるか、父さんは知ってると思う。そんな、本気でスッパリ縁切ったり出来るタイプじゃないから、あの人」


『THANK』『YOU』


 刺青が変形し、感謝の言葉が手首につづられる。

 諭一は涙に濡れた顔で笑った。


「『灰の角』もさあ、こんな便利な事出来るんなら、せめてぼくが東アメリカにいる間に話しかけてくれれば良かったのに。その方が祖父じいちゃんの所までたずねやすかったかも」


『OH』


「オー、じゃないっての」


 また笑う諭一だったが、それに続いた『灰の角』の言葉に、彼は眉根を寄せた。


「え……? 『言葉がつづれるようになったのは今日、つい先刻からだ』?」

「今日のついさっきって事は、クッチーに取り憑かれてから?」


 芹子が身を乗り出して手首の文字列を確認し、「うち英語読めへんわ」と数秒で投げ出す。


「『突如、極限の飢餓と狂気に襲われる中で、お前に危険を伝えなければならないと思った。そしてこの方法に成功した』……」


 そこまで読み取って、諭一は顔を上げた。


唐須とうすさんの虫も、普段ならあり得ないような力で籠帳かごちょうごと逃げ回ったんだよな。エナちゃんだっけ」

「そ――そう。エナちゃんもおかしかったし、クッチーかて、取り憑かれた相手が数時間で我を忘れるような危険な虫とはちゃうよ。お付き合いの仕方さえ間違えんやったら、虫っちゅうのはそんな危なくない怪異なんよ」


 『虫』に愛情ある立場らしく、芹子は力説する。


「つまり……やっぱり『虫』に異常な何かが起きた、ってんだな。怪異から極限の能力を引き出して凶暴化させる作用のある何かだ。しかもこれは多分、誰かによって意図的に引き起こされた。怪異が暴れ出しちまう事はちょいちょいあるが、この状況を偶然とは考えにくいや」


 ミケが半端に回復した腕を組んで考え込み、芹子に質問を投げた。


「唐須さん、今の『脾臓ひぞう悪虫あくちゅう』の様子は?」

「もういつもどおり。籠の中では、大体虫は眠っとるよ」

「異常状態は長くは続かないという事でしょうか?」


 根岸が推論を述べると、ミケは更に首を斜めに傾げる。


「以前のあの鎌持った幽霊は、数ヶ月間も狂暴化して人間を襲い続けてたもんだがな。……あれと結びつけるのは早計か?」

「あのぉー」


 そこで諭一が、ひらひらと左腕を振った。


「大事そうな話の腰を折って悪いけど。ってことは、『灰の角』とこうして話せるのは異常な状態ってこと? もうすぐ会話出来なくなっちゃう?」

「いや――そうじゃなさそうだ」


 『灰の角』の対話能力は、一度獲得した以上、正常に戻っても継続して使えるだろう。それがミケの見解だった。


「腕力やら冷却の異能やらは、どうだろうな。元々そなわってたんだろうが、異常状態の方が強いかもしれん」

「へー……いや、別にそんな強くなくてもいいよ。もー暴れるのはたくさん」

「ヒーローに憧れてませんでした?」


 根岸はついチクリと、諭一に問う。


「えっと、今後そういうのはほどほどにする。流石にちょっと懲りたよ。ミケくんにぶん投げられたり殴られたりして痛かったのは覚えてる」


 それでも『ほどほど』か、と根岸は多少呆れたものの、ミケの乱闘や片腕の犠牲が教訓になったのは何よりである。


「山程おかしな事が起きとって、この場で出せる結論はあんまないみたいやけど」


 と、芹子が両手を広げる。


「とにかく、諭一くんがひい祖父じいさんの気持ちを知れたんは良かったわぁ。――お山のご先祖さん方が会わせてくれたんよ、きっと」


 あっけらかんとそう言われ、諭一は少しばかり意外そうに目を開いて芹子を見つめ返した。

 やがて彼は感慨深そうな眼差しになり、自分の左腕を撫でる。


「うん、そうだな。そう信じる」


 ミケはそんな二人をしばし眺めてから、ひょいと根岸を見遣った。


「まあ、今夜はこんなところか。……晩飯の途中で出てきたから、俺の方が腹減ってきた。根岸さんは?」

「僕? そういえばペコペコです」


 全くそれどころではなかったので忘れていたが、根岸は空腹を抱えての帰路にあったのだった。思い出した途端、胃袋の辺りからグウと派手な音が鳴る。


「あっ、『腹の虫』や」


 芹子がからかった。


「なあ、諭一が昼間に言ってた、吉祥寺の美味いスペインバルってどこだ?」

「駅前のサンロード……待って、ミケくん今から飲みに行くの? バイタリティ溢れすぎじゃない?」

「腕がもげたんだぞ。一杯くらい引っ掛けたい気分だ」

「腕がもげた時にそんな気分になりますかね……」

「うち送ってってあげるから、はよう帰んなさいよ。全員怪我人でしょ」


 周囲からの説得を受け、多少口を尖らせつつも、ミケは帰宅を選択したようだ。


「分かったよ、仕方ないな。――ああ、根岸さんの晩飯も冷蔵庫に取り置いてあるから。温め直して食おう」

「あ……ありがとうございます」

「ごはん用意してくれるネコチャンて、最高やなあ」


 芹子は羨ましそうな声を上げ、それから「ん?」と片眉を跳ね上げる。


「ええ? 根岸さんとミケくんて、同棲しとるん?」

「言い方!」


 気まずさから、根岸は慌ててツッコミを入れた。

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