第19話 父祖の声は峰の果てに (13)

 気の早い話で、翌日さっそく根岸は、諭一お薦めの吉祥寺のスペインバルに呼び出された。


「うち、明日には大阪に戻るんよ。皆さんには挨拶しとかな思て」


 そう切り出して芹子は、准教授の遠藤えんどうを通じて陰陽庁おんようちょうにある程度の経緯いきさつを証言した事、大阪に戻った後で『虫喚むしよ乙女をとめ』の連絡会にも調査を依頼する予定である事を報告した。


 公園の水道を破壊した件についても、ミケと口裏を合わせて、行きずりの怪異が暴れてミケと喧嘩になった結果、と説明したそうだ。間違ってはいない。これで怪異災害保険の補償対象となる。


「みんなの安全に関わるかもしれへんし、何か分かったら、すぐ連絡するわ」

「助かります。一応、僕が復帰予定の職場の電話番号も教えとくので。東京都特殊文化財センターだから、力になれるかも」

「あの『トクブン』? えぇー、学生さんやないっぽいなってのは途中から思っとったけど、そんなエリートさんだったんや」

「エリート? かなぁ? 今後は正規職員じゃなくて備品になる予定ですが」

「……備品?」


 怪訝けげんな表情を浮かべる芹子に電話番号を教え、ついでにLINEのアカウントを交換しようとした根岸は、「あ、えーと」と躊躇ためらって、向かいのソファに腰掛ける諭一の方を見る。


 諭一は芹子に惹かれている風だった――より言葉を選ばずに言えば、ナンパ目当てだった。根岸が連絡先を交換して、誤解が生じたりはしないだろうか。


「……ん? ああネギシさん、大丈夫。ぼく昨夜ゆうべのうちに唐須とうすさんにはフラれてるから、気にしないで」

「は!? 展開早くないですか!?」


 諭一の発言に、根岸は仰天して目を剥いた。


 昨夜の芹子は、小金井こがねい市の音戸邸までミケと根岸を車で送り届け、その後真っ直ぐ武蔵境むさしさかい駅前のビジネスホテルに戻ったはずだ。


 それから就寝までの間に諭一は電話か何かで告白して、フラれた、という事になる。驚異的スピード展開である。


「ここで言うー?」


 芹子が信じられないと言いたげに目をすがめてみせる。


「せやからそういうとこやって、友達止まりになるんは。デリカシーなさそうっちゅうか」

「あっはい、ゴメンなさい」


 諭一がしゅんと項垂うなだれた。が、どこまで反省したかは怪しいものだと根岸は思う。


「次、何飲むかなぁー」


 根岸の隣に座るミケはというと、人間同士のいたれたなどどこ吹く風で、早くも一杯目のビールを空にして、先程からうきうきとメニューを眺めている。


「お、白身魚のアヒージョがある。これ食いたい」

「ミケさんそういうの好きなんですか」


 意外な気分で、根岸はミケの持つメニューを傍らから覗き込む。

 ミケは料理が趣味で腕前も確かだが、作る料理のレパートリーからして、どちらかというと和食派だと考えていた。


「猫の怪異にとっちゃ、行灯あんどんの油を舐めるのはたしなみのうちだよ」

「アヒージョと行灯の油を一緒くたにしたら、流石にスペイン人から陶器鍋カスエラで殴られるんじゃ?」


 ちなみに、江戸期の怪談ものにはしばしば油を舐める化け猫が登場するが、これは当時の庶民層向けの油にいわしを原材料としたものが多く、その臭いで猫を惹きつけたためであるという。


「ところで二人とも、怪我の方はどんな感じ? 怪異専門医に診せるとかいう話……」

「俺は一晩で完治したよ。医者に診せたのは根岸さんの怪我」


 元通りになった左手を握ったり開いたりしてみせながら、ミケは言った。

 一方の根岸は昨日の深夜の出来事を思い出して、首を竦める。


「僕も怪異医の治療のお陰で、間もなく治るらしいです。……河童かっぱの医師と、家の風呂場で突然遭遇した時には、死ぬかと思いましたが」

「いや幽霊やん」


 芹子がツッコんだが、これは気持ちの問題だ。


「河童ってのは名医が多いんだ。大抵オリジナルの『河童の妙薬みょうやく』の調合レシピを持ってる」


 怪異の社会にまでは詳しくない諭一に、ミケが解説する。


「ただ、人んを訪ねる時に玄関を使う習慣が全然身につかないのは困った所だよ」


 ミケが呼んだ河童の医師には、水場から水場へと飛んで転移する能力が備わっていた。

 通常彼らは自分の縄張りを動かないが、呼び出されて移動する場合は、沼から沼、淵から淵、あるいは風呂だの台所だのに現出するものであるらしい。


 音戸邸には強力な結界が張られていて、他の怪異の侵入を妨げているが、家主代理が正式に招いた相手だとそれも意味をなさない。


 結果、根岸が入浴しようと風呂の扉を開けると、そこでいきなりアマガエルのような体色の甲羅を背負った老人と鉢合わせしてしまった。


 音戸邸が森の中にぽつんと建つ一軒家でなかったら、間違いなく近所迷惑とクレームが入るくらいの絶叫を根岸は浴室内に響かせた。


「――まあその、怪我が治るんなら良かったよ」


 話を聞いて大分複雑な表情を浮かべつつも、諭一は安堵した風だった。

 ウェンディゴ化した自分が噛みついて負わせた怪我という事で、彼なりに気がとがめていたのだろう。


「ほんなら根岸さん、元気にトクブンに復職出来るやんな」

「ええ。……その前に行く場所があるんですけどね」

「行く? どこに?」

「『根岸秋太郎しゅうたろう』の――実家まで」


 根岸のその言葉の意味を理解して、諭一と芹子がはっとした顔になる。

 テーブルに目を落として、根岸は続けた。


「僕はもう『根岸秋太郎』と同じ存在じゃない。人間ですらない。家族はみんな怪異に関わらずに生きてきた人達だし、僕の姿を認識も出来るかどうか。それで、ずっと帰るべきか迷ってたんですが」


 顔を上げて諭一を見る。それから根岸は、ミケと視線を交えて笑った。


「あれこれ悩むよりも、単純に家族の顔が見たくなりました。……諭一のお陰ですかね」


 ミケもまた穏やかな微笑を返した。さながら、進路を決めた子供を見つめる人生の先達せんだつである。

 バルの入り口で年齢確認をされたくらいには年若く見えるミケだが、こういう表情には相変わらず、老練な風格があった。


 何と言葉を返したものか迷うように視線を下げた諭一が、自分の左手首を見つめ、眉尻を下げる。


「ネギシさん、『灰の角』から伝言。『良い旅を。貴方の家族に幸運を』だって」

「どっ、どうもありがとう……何だか『灰の角』に言われると重みがあるな」


 特急で一本だから、旅と言う程でもないのだが、と根岸は照れ臭くなって無意味に眼鏡の位置を正した。


「あれ、ご実家どこなん?」

「山梨です。特急かいじ」

「あー、ええやん。お仕事復帰前の小旅行や」


 芹子は運ばれてきたレモンサワーのグラスを取って、小首を傾げる。


「そういや根岸さん、昨日諭一くんにタメ口で頼むて言われとったよな。享年が歳上やからって」

「はい。で、折衷案せっちゅうあんを採用しました」


 根岸が社会人と知った諭一は、むずがゆいから敬語をやめてくれと頼んだのだが、幽霊としては生後五ヶ月の身で不慣れな事も多いせいで、敬語に慣れてしまった根岸との折り合いをつけて、敬称だけ変える事に決まった。


「あっははは、何それ。変な幽霊」


 明るく笑い声を上げた芹子が、勢いのままグラスを掲げた。


「ほなら、根岸さんの素敵な旅路と家族の幸運を祈って!」


 どうやら芹子には、もう怖がられる事はなさそうだ。そんな感想をいだきながら、根岸は自分のグラスを持ち上げる。


「おう、あらためて乾杯かい」

「かんぱーい!」


 ミケと諭一がそれに応じた。

 バルの暖色の照明の下に、それぞれの思いを乗せた四つのグラスが掲げられた。



   ◇



 栄玲えいれい大学文学部棟、文化人類学研究室――


 棟内は静まり返っていた。

 非常口の誘導灯に照らされて緑がかった影の落ちる廊下を歩きながら、遠藤は陰鬱な声色で電話口に相槌を打つ。


「ええ。……分かりました。せっかく東京までお越し頂いたのに、見送りも出来ず申し訳ありません。そちらもどうかお気をつけて」


 通話が切れる。遠藤は立ち止まり、『唐須芹子』と表示されたスマートフォンの画面をしばし見つめた。


「セリコ・トウスからの電話? 彼女には怪しまれてないだろうな、遠藤准教授」


 突然背後から声がかかる。

 遠藤は驚くでもなく、嘆息混じりに振り返った。


「あまり気安く不法侵入しないで下さい、少佐マヨール・シュレーゲル。最近は日本の大学もセキュリティにうるさい。監視カメラに映りますよ」

「不法ってほどじゃない、誤魔化せるだけの言い訳はちゃんと用意してるよ」


 英語で文句を言う遠藤に対して、薄暗い廊下に立つ人物はあざける口調でそう答えた。

 こちらも完璧な英語だったが、それと知っていれば微かにドイツ風の訛りが聞き取れる。


 ベリーショートに整えたアッシュブロンド。遠藤よりも上背があり、遠目には一見男性のようだが、彼女はエーリカ・シュレーゲルと名乗っている。偽名と思われるものの、少なくとも女性ではあるらしい。


「残念ながら『虫』は使い勝手が悪そうだ。暴走状態が持続しない。ちょっとしたショックで術が解ける」

「怪異そのものよりも、物品を介して彼らを暴走させた方が効率的である……結局、仮説どおりの結論ですね……」


 歩み寄りながら報告するシュレーゲルに対して、教科書を読み上げるような口調で遠藤は呟く。

 彼女は遠藤のすぐ目の前まで来たところで、小さく舌打ちをした。


「せめてあのウェンディゴが、もう少し騒動を起こしてくれれば良かったんだがな。こちらも全く使えなかった。やれやれ、それなりに危ない橋を渡ったというのに」

「……『使い魔』の実力は測れました」

「例のカッツェか。この前のデータじゃ不十分だったの?」

「前回は記録出来た交戦時間が短すぎました。データはあればあるほど良いので」


 ごく淡々と回答する。シュレーゲルの灰色がかったブルーの目が細められた。


の東ベルリン支部から聞いたとおりだな。エージェント・アマネ・エンドー……国籍は西アメリカ共和国、日系人、拠点は日本。何事に対しても動揺しないはがねの精神の持ち主で、それで通称を『カタナ』」


 ふっと、シュレーゲルの唇から廊下の空気と同じくらい冷たい笑みが零れる。


「あの時、猫に焼かれた幽霊は、元は君に取り憑いていたんだろう。生前の友人か、恋人? それとも家族?」

「ええ」


 どうとでも取れる風に遠藤は頷き、少し間を置いてから続けた。


「日本の怪異検知システムは、憑かれた人間と縁の深い怪異に対してゆるいので。これを利用しない手はありません。しかし元が何者であろうと、怪異となった時点でそれは別の生物です。人類とは相容あいいれず、二通りの存在でしかあり得ない」

「二通り?」

「利用可能な道具か、そうでなければ敵です」


 アッソウ、とシュレーゲルは言った。ドイツ語と日本語で、同じ発音かつ同じ意味になる相槌だ。


「ま、私は自分の理論が実証出来ればそれでいいさ」

「貴方の方術ほうじゅつ研究には期待しています、シュレーゲル少佐。の推薦したとおり」

「おや、『カタナ』の割に嬉しい言葉をかけてくれる」

「私の中に帰属意識が存在するとすれば、その対象は血縁や地縁などではなく」


 シュレーゲルに背を向け、再び廊下を歩き出した遠藤の声は、鬱々とした響きに戻っている。


「……我々のと、その理想のみですから」



 【父祖の声は峰の果てに 了】

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る