第17話 父祖の声は峰の果てに (11)
とにかく、全員どこかで身体を休める必要があった。
ミケと諭一は勿論のこと、根岸も片足を負傷しているし、芹子も疲れ果てている。
「ぼくん
そう提案したのは、初めて見るくらいにしおらしく消沈した表情の諭一である。
「うちらの乗ってきた車、コンパクトやから大分狭ぁなるけど」
「俺は場所を取らない大きさになっとくよ」
芹子が案じると、ミケはその場で三毛猫に
「前足が一本ないから歩きづらいな。すまんが誰か抱えてくれ」
ミケの左腕――猫でいう左前脚は、出血こそ止まっていたが、流石にあっという間にまた生えてくるものではないらしく、半ばの所で欠けている。
「うわーネコチャンや。可愛いーっ」
幽霊が苦手と言っていた芹子は、尾が二本生えた喋る猫ならば平気なようで、嬉々としてミケを抱き上げた。
「三毛猫のオスかあ。珍しなあ」
「あまり股間をしげしげと見つめんでくれんかね、お嬢さん」
芹子の顔の高さまで掲げられたミケが、少しばかり気まずそうな声を上げる。
「あのさ……ぼく、ここ小一時間くらいの記憶が曖昧なんだけど……」
困惑気味に、諭一が片手を挙げて発言した。
「ええっと、ミケくん猫なの? ていうか怪異? なんか薄っすら覚えてる感じだと、巨大化して火を噴いたりしてなかった?」
「火は噴いちゃいないぞ。そっちの方が簡単だったがやらなかった」
と、ミケは不機嫌に尻尾を膨らませる。
「お陰さんでクタクタだよ。ウェンディゴを満腹にするのに、かなり力を吸わせたからな」
「あっはいゴメンなさい」
両耳を倒すミケの前で、諭一はしゅんと
訳が分からないなりに、大変な事をやらかしたとは認識している様子だ。
「元はといえば、クッチー逃がしたせいで起きた事やから」
芹子がそんな風にフォローする。
ともあれ一行は、今度は諭一の道案内によりアンダーソン家へと出発した。
車の運転手は芹子なので、ミケを抱える訳にはいかず、結局彼は根岸の腕の中に収まっている。
「しかしミケさん、よく場所が分かりましたね。助かりました」
胸元で丸くなったミケの両耳の間をモフモフと掻いて、根岸は礼を述べた。ミケは喉を鳴らして答える。
「あれから、家帰って晩飯食ってたんだけどな。諭一から電話があったんだよ。ところがそれが無言電話で、すぐ切れた」
時間帯を聞くに、根岸が芹子の車に乗り込んですったもんだしていた頃だ。
諭一はLINEの文章が打てない状態になった後、最後の理性でミケに電話をかけ、その直後完全にウェンディゴ化してしまったのだろう。
当然、ミケは不審に思った。
諭一に何が起きたのか。彼は考えを巡らせ、昼間の別れ際に微かに感じた匂いのことを思い出す。
「既にウェンディゴが憑いてたから、匂いが紛れてよく分からなかったんだが、もう一体、あの場に小さな怪異がいた。ありゃもしかして『虫』だったかと思って……とにかく諭一の家まで行ってみたんだ」
「住所知ってたんですか」
「正月に年賀状を出したばかりだったからな」
「年賀状……」
「郵便で? 今どき律義なネコチャンやな」
バックミラー越しに後部座席のミケを見て、芹子が感心した。
「そうしたら部屋の窓がひび割れてて、家の中は無人。こりゃいかんって事で、あとはウェンディゴの残り香を辿って追ってきた」
「ええッ、うちの窓割った? ぼくが? ……そういや割った気がする!」
助手席の諭一が
そしてその途端、
「うわ!」
と彼は叫んだ。車の中で反響した大音量に、全員が仰天する。
「なっ、なんやなんや?」
「……謝ってる。
自分の左手首を見つめて、諭一は呟いた。
昼間は包帯を巻いていたはずのその素肌には、
ファッションのためのタトゥーではなく、
『MY』『APOLOGIES』
確かにそういう風に読める。意味は「謝罪する」だ。
「……
ミケが軽く瞳孔を広げ、くんくんと鼻をひくつかせて諭一の手首を観察する。
「随分と器用な真似をする怪異だな」
「すごいけどさ。急に話しかけてくるんだから、びっくりしたよ」
困り顔で片腕をかざす諭一である。
「また文章が浮かんでる。えー……『猫の怪異』……『貴方はとても強い』。ミケくん褒められてるよ」
「何だい、照れるな」
ミケが目を
「……『貴方ならばわたしの罪を裁けるだろうに』? 何言ってんだ?」
自分の腕の英文を翻訳した上で、諭一は眉をひそめる。ミケもまた髭をしかめてみせた。
「罪を裁く? どうしてそんな事をせにゃならんのだ。俺は裁判官でも
「ミケくん、例えが爺臭くない?」
「ニャア?」
諭一の思わずといった風の指摘に、ミケが心外そうな鳴き声を漏らす。
『MY』『GUILT』
刺青が揺らめき、再びその文字列を表す。その動きにはどこかしら、
「何か語りたい事情があるのでは?」
根岸は後ろの席から口を挟んだ。
先刻、結界を張った瞬間に垣間見た何者かの記憶を、彼は思い出している。
あれがウェンディゴの記憶だとすると――いや、やはり当人に語らせた方が良い。
ミケと諭一が顔を見合わせた時、運転に集中していた芹子が前方を指差した。
「ね、とりあえず皆、怪我の手当てとかせーへん? 諭一くんの家って、あそこやろ?」
閑静な住宅地の突き当たり。
小振りのコンサートホールのような、立方体に近い洒落たデザインの民家が見える。家屋もよく手入れされた庭も、広々としていた。
「豪邸ーっ。ここいら土地だけで大分高そうなんになあ」
芹子が率直な感想を述べた。根岸も同意見である。人気音楽家の息子なだけはあると思えた。
「あ、じゃあ……うちの駐車場停めちゃって。親は今日帰んないから」
ラッキーだったよね、と諭一は、苦笑して付け加えた。
先刻までのウェンディゴの状態で、何も知らない両親と鉢合わせするなど、想像もしたくない話だろう。
◇
「怪異の専門医を呼べるといいんだが」
根岸の足首を見て、ミケは呟いた。
噛み傷と軽度の凍傷。幽霊の身体が凍傷まで起こすとは意外だ。
怪異の肉体が損傷するかどうかは、攻撃した者の力と意志次第、とミケは説明する。
「すぐには医者を呼べそうにないから、人間と同じ応急手当をしとくぞ」
「どうも……ミケさんの方は?」
「俺の左手? そろそろ生えるよ」
今のミケは、救急道具を扱うためにまた人間の姿を取っている。
着ていたニットの左腕部分はウェンディゴに噛みつかれた時のまま、血まみれで毛糸がほつれているが、腕の形は大分元通りに近づいていた。
「何ていうか、凄いですね」
「再生能力は猫又の力じゃなく、御主人との使い魔契約で得たものだから、凄いのは御主人って事になるけどな」
淡々と応じて、ミケは肩を竦めた。
二人は諭一の家の風呂場と洗面所を借りている。
そこで顔や服に飛んだ血を洗い流したり、包帯を巻いたりしていると、程なく芹子が呼びに来た。
「二人とも、諭一くんが……あわあぁっ」
洗面所のドアを開けて首を突っ込んだ芹子は、すぐさま
「ごめんごめん! ていうかなんでうちがラッキースケベする側なんや。逆やろ。逆も困るけど」
「何を言っとるんだ」
ミケは怪訝な顔をする。
「俺もそれなりに長く人間と付き合ってるが、服装への感覚ってのは未だに掴みきれんよ。よくテレビでやってる大相撲と似たような格好じゃないか」
「人ん
「ついさっきは喜んで
「それとこれとは大分違いますって」
根岸は
本能部分が猫側に近いミケはそもそも衣服が好きではないらしく、自宅でも猫の姿で
根岸は多少慣れたが、芹子には刺激が強いだろう。人の姿の時、稀に見る程に整った容貌であるという自覚もミケには乏しい。
「で、諭一が? 翻訳終わったのかい」
オーバーサイズ気味のシャツをもそもそと着ながら、ミケは問いかける。
諭一はリビングで、『灰の角』からのメッセージを読み解いていた。
彼は父親が米国生まれで、当人も英米文学専攻の学生だから、英文読解に全く支障はないのだが、『灰の角』の方がそうスラスラとアルファベットを
そのため、『灰の角』からのメッセージを少しずつメモして翻訳、という作業が必要になった。それが終わったらしい。
「うん……『灰の角』の言ってる事は分かった」
廊下の壁に半ばもたれかかりつつ発言したのは、諭一である。
彼は何とも複雑な表情で、左腕の刺青をさすっている。
「なんかさ、
曖昧な物言いに、ミケが少しばかり
「ほう?」
「寧ろ……
「どっ、どういう事?」
芹子が勢い込んで問い質す。
「つまり――こういう話だったんだよ」
メモを取ったタブレットを片手に、諭一は語り始めた。
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