第14話 父祖の声は峰の果てに (8)

 午後八時。

 根岸が大学図書館を出ると、当然ながら周囲はとっぷりと暗くなっていた。雲は低く垂れ込め、顔に当たる外気が冷たい。


「しまった……長居し過ぎた」


 脇目も振らず数時間、活字と向き合い続けた根岸は、眼鏡をずり上げて目頭を押さえる。


 昼食も夕食も摂っていない。幽霊なのだから死にはしないだろうと高を括っていたが、空腹のつらさは生きていた頃とそう変わらないようだ。ちゃんと腹も鳴る。


 夕方に一度、授業の終わったミケが図書館にやって来たが、調べ物に熱中している根岸を見て、「あんたも物好きだねえ」と感想を述べた上で先に帰宅した。

 確かに我ながら物好きだ。


(滝沢先輩に偉そうな口きけないよなあ)


 いつだったか――根岸の命日になったあの日だ。

 業務に関係ない好奇心や探求心はほどほどにしてくれと、滝沢に苦言を呈した事があった。

 ところがそう言った根岸の方こそ、今まさに赤の他人である諭一の事情に首を突っ込んでいる。

 人間社会の営み全てが今や彼にとっては他人事で、彼らを守る義務などどこにも発生しないというのに。


 正義感に駆られた、とまで言うのは大袈裟だろう。単純な好奇心の占める割合の方が強かった。


 ――『灰の角』。諭一が一瞬怪異に『化けた』時、叫んだ言葉。かつて存在した北米先住民の一部族の名に、根岸は見覚えがあったのだ。


 二年前、根岸は大学を卒業するにあたって、卒論のテーマを特殊文化財の遺跡にした。

 勉強していたのはあくまで日本国内の事だから、他の文化圏は専門外だが、比較と参考のために海外の事例もいくらか調べた。


 ざっと目を通した北米の怪異についての論文の中に、『灰の角』を名乗る最後の一人となった青年と、ウェンディゴの記述があった。


 ――彼の、曾孫?


 その文章をもう一度確認したくて、論文データベースを検索し、参考文献を探し、元の文献である調査報告書が英語だったので和訳して、とやっていたらこんな時間になってしまったのである。


(多分……諭一さんもあの報告書を読んでる)


 それで、かつて『灰の角』の生きていた土地で出遭であったウェンディゴを曾祖父と信じているのだろう。


 そしてそこまでを確認した上で、根岸に何が出来るかというと、特に何も出来ない。


 諭一ともども、ウェンディゴを陰陽庁に通報するのはいくらなんでも無慈悲に思えた。

 かと言って、危ないから元いた場所に帰してこいと、諭一を説得するだけの言葉も持ち合わせてはいない。


 根岸は平凡な日本生まれ日本育ちの身である。両方の祖父母の顔を知っているし、お盆には墓参りくらいしていた。


 土地も家も、通じ合う言葉もうしなった血族と相対した時、人は何を思うのか。怪異は何を思うのか……勝手に想像したり理解した気になるのは難しい領域だ。


 ――ミケの言ったとおりか。


 ミケは今頃、音戸邸に戻っているだろう。一報入れて、自分も帰るとしよう。


 人気ひとけの絶えたキャンパス沿いの道を歩きながら、根岸がポケットから携帯電話を取り出した時、後方から車の音が聞こえてきた。

 道路の脇に身を引いて振り返る。

 徐行運転で近づいて来るコンパクトカーの運転席の窓から、ひょいと顔が覗いた。


「あっ、さっきの! 諭一くんの友達の人やんな?」


 何と、運転手は芹子せりこである。まだ学校に残っていたとは。


 とりあえず挨拶しようとする根岸だったが、その前に芹子は車を停め、泡を食った様子で手招きをする。


「ちょっとごめんなさい! うち、東京の道路全然分からへんの。しかもこれレンタカーでめちゃめちゃ運転不慣れやねん。ほんで急いどるんやけどね、この場所ってどっち方面行ったらええ?」


 歩み寄った根岸に、芹子はスマホの画面を見せた。LINEでの遣り取りが表示されている。会話相手のアカウント名は「ゆいち・A」。


「……諭一さん?」


 諭一と芹子は昼間にLINEアカウントを交換していた。早くもナンパか、と根岸は呆れかけたが、芹子の表情がどうもただ事でない。


「ヤバいかもしれへん。クッチーがな、諭一くんに取り憑いてもうたみたいなんよ」

「――……ええっ!?」


 驚きのあまり、彼女の口にした内容を理解するまでにタイムラグが生じた。


 クッチー、即ち『脾臓ひぞう悪虫あくちゅう』……取り憑かれると空腹をもたらす『虫』の怪異が、既にウェンディゴ憑きである諭一に。


 それは取りも直さず、まずい事態だ。


 急いでLINEの画面をさかのぼる。

 諭一が『脾臓の悪虫』の症状を質問する所から会話は始まっていた。焦っているのか、やけに誤字が多い。

 対する芹子の説明はこうだ。


『クッチーは主に背中側、特に首の裏から身体に侵入する。その際、三つ巴型の特徴的な腫れが侵入箇所に出来る。侵入後、取り憑かれた人間が空腹を感じるタイミングでそれを強く増幅する』


 症状を確認したいからすぐに居場所を教えてくれと、芹子は続けていた。


武蔵野市むさしのしきちしよう』


 諭一は半端な所までの文を返信し――吉祥寺きちじょうじと書きたかったのだろうか――そこから数分間連絡を途絶えさせたのち、細切れのメッセージを送ってきている。


『あぶないから』

『ひとのすくないとこ』

『ちゆおこう』

『えん』


 それが最後の送信だった。


「ちゆおこうえん……中央公園?」

「分かるん?」

「多分」


 芹子の問いに、根岸は頷く。

 根岸も上京してまだ二年目だから、さほど地理に詳しくはない。

 ただ武蔵野市にも大学がいくつかあり、多摩市にある特殊文化財センターからも近いので、懇意の教授を送迎したり、アルバイトや見学に来る学生を車で送ったりと、用事が多かった。

 諭一の伝えたかった住所が吉祥寺地域のどこかだとすれば、『中央公園』と呼ばれる場所は確かに近くにある。


道案内ナビしましょうか?」

「ほんまに? 助かるわ! クッチーは本来そんなに暴れん坊な虫とちゃうねんけど、様子おかしいんよ。心配や」


 乗って、と助手席のドアを芹子が開けた。

 根岸は座席に着き、扉を閉めてシートベルトをして、車が走り出すのを感じ――そこで、ぽいと地面に投げ出された。

 前方に目をやれば、芹子の運転する車が根岸を置いて、のろのろと遠のいていく。


「あっ」


 幽霊の身で乗り物に乗ると時々失敗するという事を、うっかり忘れていた。『自分はここにいる』という認識を強く持って足腰を踏ん張らないと、よく置いて行かれるのである。


「え、えええっ!?」


 根岸が助手席から消えた事に気づいた芹子が、後方を振り返って仰天し、ハンドルを切り損ねて道路脇に乗り上げてしまった。幸い、少し砂利を乱したくらいで済んだが。


 走って車に追いついた根岸は、目を丸くしている芹子に頭を下げた。


「すみません。その、僕幽霊なんですよ。油断しなければ車にも乗れるはずなんで、次は大丈夫」


 コートとスーツの袖を軽くまくって、血痕の滲むシャツの手首を見せる。


「どひゃあ――!? ユーレイッ!!」


 けたたましい悲鳴を芹子は上げた。今度は根岸の方が声の迫力にたじろぐ。


「……怪異には慣れてるんですよね?」

「むっ、『虫』は平気やけど、幽霊はあかんて! 死んどるやんか! グロいのもダメ! 手首、手首しまって!」

「えぇー……」


 グロテスクと言うなら、『虫』だって見目麗しいとはとても言いがたいのだが。


 根岸はいくらか理不尽なものを覚えつつも、まあ無理はないかと自分を納得させ、袖を直して今一度謝罪する。


「黙っててすみません。ええと……乗ってもいいですか?」

「うう……怖っ……けど、うん、乗って」


 芹子の方も、不承不承ではあるが意を決した顔でドアを開けた。


「そっち側の道から出て下さい」


 車がそろりと発進し、道路に出る。今度は根岸も置き去りにされなかった。


 車が大通りに至るのを見計らっていたように、半ばみぞれの混じった雨が降り始め、しとしととフロントガラスを叩く。


「いっこ聞きたいんやけど」

「何です?」

「……うちのこと助けてくれた時、諭一くんが一瞬だけ、なんや変な格好しとるように見えてん」


 あの時芹子は、諭一の変異に勘づいた様子だった。動転していて自分の見たものに確信が持てなかったのか、それとも恩人だからと見なかった事にしてくれたのか。


「あの人も――怪異?」

「いえ、彼は人間です」


 そこは率直に、根岸は答える。


「ですが、多分今頃……いくらか説明の必要な状態になってると思います」


 車は五日市いつかいち街道に出て、真っ直ぐ東へと向かっていた。彼らを追いかけるかのように、西から雨足が強まっていく。

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