第15話 父祖の声は峰の果てに (9)

 降りしきる冷たいみぞれは厄介だったが、人払いになる点は有り難かった。

 大学や繁華街の近い公園には、どうかすると真冬や真夜中でもカップルや酔っ払いがうろついている。


「誰もいないな……」


 公園の中心部、広々とした野原は静まり返っていた。根岸の独り言はみぞれが芝生を叩く音に掻き消される。


「LINEの返信ありました?」

「ないわ。通話もかけてみたけど、出てくれへん」


 暗闇の中に芹子のスマホのライトがともった。


「根岸さん、さっきの話……アメリカ生まれの怪異が諭一くんに取り憑いとって、しかもそれがご先祖さんかもしれへんて。なんや話がぶっ飛んでて、整理しきれへんのやけどな」


 ここに来るまでの道中、根岸は芹子に諭一の置かれている状況を、ごくかいつまんで説明した。

 芹子にとっては初めて耳にする情報だらけで、「余計に混乱するわ!」と文句を言われたが、ともあれ事態の深刻さは理解してくれたようだ。


「要は『ウェンディゴ』ちゅう怪異もクッチーと同じで、取り憑いた相手のお腹を空かせるような力を持っとるわけやね? しかも、と思うようにさせる」

「ええ。恐らくは冬季の飢餓や栄養失調、旅の半ばで独り行き倒れる事への恐怖から発生する怪異なので」


 かつてのアメリカ大陸北部において、冬の生活は極めて厳しいものだった。食料や資源の少ない山間部ともなれば尚更である。

 容赦なく襲いくる寒さと飢えへの恐れが、やがて人食い精霊の伝説を生み、怪異を形作ったのだろう。


「そら何ちゅうか、まずい事になりそうやな?」

「まずいでしょう」


 二人は自然と背中合わせのような格好になって周囲を警戒し、そろそろとした足取りで野原を横断すると、いくらか木々の茂るエリアに入った。バーベキュー用と見られる水道設備がある。


 今までより更に空気が冷え込むのを、根岸は感じ取った。


 木々に囲まれているからだろうか? しかし遮る陽射しもないというのに。寧ろ生い茂る枝によって身体に当たる風とみぞれが減った分、肌寒さがやわらいでもいいはずだ――


 ――生い茂る枝?


 ふと、根岸は視線を持ち上げた。自分の頭上、ケヤキの太い枝が張り出す方へ。

 星明かり一つない真っ暗闇の中に、みどり色の双眸が浮かんでいる。


!?」


 つい、名を呼んだ。同時に樹上の両眼と視線が合う。


 『彼』は身体を逆さにして、鉤爪で木の幹に張りつき、こちらを見下ろしているようだった。

 あの熊ほどもある巨体で木になど登れるのかと根岸は首を捻りかけて、そういえば熊も猿も木登りは得意だと思い出す。何にせよ、生き物の生態に思いを馳せている場合ではなかった。


「ウオオおおぅッ」


 『彼』が吠える。昼間に聞いたそれよりも人間離れした声色で、凶暴な敵意を感じさせた。後ろ足の鉤爪がぎりぎりと幹を抉る音がする。


 根岸は無我夢中で芹子の肩を掴み、突き飛ばす勢いで出来る限り前方へと押しやった。


「ひゃっ」


 勢い余って芹子が転倒し、根岸もそれにつられる。倒れた彼の足先からほんの数センチ向こうの地面に、重々しい地響きを立ててウェンディゴは降り立った。


 灰白色かいはいしょくの見事な牡鹿おじかの角、有蹄類ゆうているいの瞳。黒々とした体躯を覆うブルーの刺青が闇の中で淡く輝く様は、芸術品のごとく幻想的だった。


 ただし、犬歯を剥き出しにして獲物を睨みつける獣の眼は、明らかに異常な興奮状態にあり、荒い呼吸音が周囲の空気を震わせている。

 幻想に浸るどころではない。


 ウェンディゴの口の端から泡立った唾液が垂れ、それが瞬く間に凍りついていく。

 吐く息が白く染まっているのは、体温が高いからではなく、逆に低過ぎるからだと根岸は気づいた。ウェンディゴの足元の草も、降り注ぐみぞれも、固い氷の塊となって辺りに散らばっている。


 まさしく、極寒の山の飢えた生き物達の、無念と恐怖の化身だ。


「――ォオオオッ!」


 凍てついた芝を蹴り、ウェンディゴが飛びかかってきた。

 根岸は慌てて地面を転がり、突進を回避する。

 何とか角に串刺しにされるのはまぬがれたが、立ち上がろうとした所で靴のかかとに食いつかれた。


「根岸さんッ!」


 芹子が叫ぶ。


 根岸は靴を脱ぎ捨てようとした。

 しかしその前に、足首をウェンディゴの前足が掴んでくる。

 爪に抉られる鋭い痛みと、氷の塊を押し付けられたような、火傷にも似た冷たい痛み。声を上げるだけの余裕もない。


 目まぐるしく揺れる視界の端で、芹子が懐から笛と籠帳かごちょうを取り出すのが見えた。


 ――ピィイイッ。


 甲高い笛のに、ウェンディゴが反応する。


「『ベッチョウ』!」


 籠帳を笛で叩いて、芹子が声を張った。途端、開かれたページから一羽の蝶が舞い出る。

 黒と夕陽色の美しいはね。ただし大きさはからすほどもある。


 蝶はふわりと根岸の頭上を超え、ウェンディゴへとまとわりついた。

 ウェンディゴが苛立たしげに唸り、前足で蝶を振り払う。一時的に解放された根岸は、這うようにしてウェンディゴから離れた。


「根岸さん、走れる!?」

「何とか!」


 元気いっぱいと言えるような状態ではなかったが、ともあれ根岸は片足を引きずって身を起こした。


 靴は片方どこかに飛んで行ってしまったし、足首も痛む。だがとどまっている訳にもいかない。今のウェンディゴ――諭一には、全く話が通じそうにない。


「あの蝶は?」

「籠帳に入れてた『虫』。取り憑かれるとだんだん眠くなってくる……はずなんやけど」


 走りながら芹子は、心配そうに後方を振り返った。

 ウェンディゴの周りを舞い飛んでいた蝶の動きが鈍っている。立ち昇る冷気に当てられたのか。そこでウェンディゴが一声吠えて、蝶を地面に叩き落とした。


「あああ!」


 芹子が悲痛な声を上げる。

 恐らく『虫喚むしよび』で扱う虫達は、遅効性の能力を持つ怪異がほとんどだろう。ウェンディゴに対抗するのは無理がある。


 根岸はウェンディゴから距離を取りつつ、スペル・トークンを手に取った。


 この霊験機器れいげんききで結界術を発動するには、どう頑張っても五、六秒は必要だ。あと六秒、ウェンディゴは二人を放っていてくれるだろうか。


 更に、結界の発動が上手く行ったとしても持続時間の問題がある。

 根岸が『未掟時界アンコンヴィクテド』を維持出来る時間はそう長くない。

 結界術発動中の感覚は、呼吸を止めて水に潜っている時に近く、一分もすれば心身への負荷がきつくなる。最大でも二分がせいぜいだ。


 その間に――何をすればこの事態が解決するのか?


 『脾臓ひぞう悪虫あくちゅう』を諭一から引き剥がしさえすれば、一旦は落ち着いてくれるだろうか。芹子なら可能かもしれない。


 つまり、彼女がウェンディゴに近づける隙を作ればあるいは。


「ひぁっ」


 すぐ傍らで、芹子が小さく息を呑んだ。


 地面に落ちた蝶からこちらへと向き直ったウェンディゴが、上体を前に傾けて身構える。

 完全に攻撃態勢だ。とても六秒もの時間を稼げそうにない。


 それでも根岸は、半ば破れかぶれでスペル・トークンを掲げた。他に武器と呼べる物はない。やってみるしかない。

 ウェンディゴが角を突き出し走り始める、と同時に彼はボタンに指をかけ――


「そいつの起動はまだだ、根岸さん」


 間近で上がった声に、思わず動きを止める。


 声は少年のものだった。ごく落ち着いた老境の男のような口振りの。


 その声の出所を探るまでもなく、根岸と芹子の足元をさっと小さな影が駆け抜けた。

 尾が二股に分かれた三毛猫だ。


「ミケさん!」


 瞬き程のいとまもなく、ミケはウェンディゴへと迫り、そして躍りかかる瞬間に巨大な獣へと変容した。

 夜の闇に包まれていた公園が、ミケのまとう赤い炎に照らされる。


「グルオアアアッ」


 戸惑いを帯びた唸り声が、ウェンディゴの喉奥から絞り出された。

 ミケもまた咆哮を上げた。老若男女の悲鳴とサイレンが混ざり合ったかのような、あの耐えがたい絶叫だ。彼は牙を剥き出し、ウェンディゴの角の付け根へと噛みついた。


「ウゥオオオオオオッ」


 辺り一面に広がりつつあった氷が融解し、温度を急速に上昇させ、公園内にはもうもうと水蒸気が立ち込める。

 その中を、二体の怪異は暴れ回った。ウェンディゴがミケの牙を振りほどこうともがき、ミケはそれを四肢でねじ伏せようとする。


 フゥーッ、とミケが威嚇音を発した。全身の毛が逆立ち、後頭部から背中にかけて、たてがみのごとく燃え盛る炎も輝きを増し火の粉を散らす。

 四肢の長い爪を地面に深く突き立てたミケは、噛みついたままのウェンディゴを顎の力で咥え上げ、首を大きく振って投げ飛ばしてみせた。


 叩きつけた先は、公園のバーベキュー用の水道設備である。ウェンディゴの背でコンクリートが砕け、水栓まで壊れたのか、水道水が勢い良く噴射された。


「なぁっ……」


 芹子は目も口もいっぱいに開いて、呆然と目の前の光景を眺めている。


「な――なにあれ? あっちも怪異? なんか二大怪獣大決戦みたいなん始まってしもうたけど」

「大丈夫です、猫又の方は」


 手短にミケについて説明しようとして、根岸はいくらか言葉に詰まる。

 何故、ミケが今ここに駆けつけてくれたのかは根岸にもさっぱり分からない。それにそもそも、根岸と諭一とミケの関係について、短く的確な表現が思い浮かばなかった。


「……僕の茶飲み友達というか」

「貴方あれとお茶すんの!?」

「それより唐須とうすさん、今なら『虫喚むしよび』でクッチーを回収出来るんじゃ?」

「あっ、せやな!」


 我に返った芹子が、笛と籠帳を構える。


「いや、まだ危ない。あんたらは近づくな」


 芹子の方を振り向いたミケが端的に告げ、髭をしかめてみせた。


「あのウェンディゴの爺さんは、なかなかに頑丈だ」


 ミケの言葉が終わるより早く、壊れた水道から撒き散らされている水が、ばりばりと音を立てて凍てつく。

 背中から倒れていたウェンディゴは素早く身を起こし、怒りも露わに低い呻き声を漏らした。


「俺がどうにか隙を作る」


 両耳を伏せた警戒姿勢を取って、淡々とミケは続ける。


「合図を出したら根岸さんが結界術。その後で虫喚むしよびだ。そういう手順でいいな?」

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