第13話 父祖の声は峰の果てに (7)

 諭一ゆいち転寝うたたねから覚めて、自室のベッドの上でごろりと寝返りを打った。


 包帯を解いた、自分の左腕が視界に入る。

 ブルーの繊細な線刻模様にいろどられた手首。


 留学先で登山中に怪我をした、というのは本当だ。

 ただしほんのかすり傷だったので、とっくに治っている。


 ところが怪我が治った箇所に、この刺青いれずみのような模様が浮き上がってきた。


 これから就職活動もあるし、大学側にあれこれ問われても面倒なので、とりあえず包帯で隠している。


「うーわ、もう八時……? メチャ寝過ごしてんじゃーん」


 枕元の目覚まし時計を見上げて諭一は一人ぼやき、乱れた長髪を掻き上げた。


 学校から帰ってすぐ、着替えもせずにベッドに転がって、そのまま眠りこけてしまったらしい。

 やけに疲れていて、身体が重い。


 両親は仕事で遠方に出掛けている。音楽家にとって新年は多忙な時期なので、家事の代行サービスを頼んでいたが、それも午前中に済み、家の中には今諭一だけだ。


 ――冷蔵庫に夕食が作り置いてあったから、さっさと食べてしまおう。


 そうは思いながらも、諭一は起き上がりきれずに再びうとうとし始めた。

 夢うつつの中、何故だかふと、子供の頃一度だけ会った祖父の顔が瞼の裏に映る。


 あの時――父方の祖父と初めて会った日。諭一はまだ十歳かそこらだっただろうか。



   ◇



 諭一は、親戚との付き合いのない家で育った。


 母の親類は日本にいるが、父との結婚を強く反対したらしく、絶縁状態になっていた。

 父マーティンは、ごく若い頃に西アメリカ共和国から亡命している。結婚によって、母や家族が何かしらの国際問題に巻き込まれるのを心配されたのだろうと、諭一が大分成長してから両親は語った。


 父方の祖父――トマス・アンダーソンも共和国生まれだが、現在は東アメリカ合衆国に住んでいる。


 その祖父が来日し、父を訪ねて来た。諭一の顔を見て、皺の刻まれた顔を綻ばせて喜んでくれたのを覚えている。諭一も昔から人懐っこい性分だったので、すぐに祖父と打ち解けた。


 ……何故あんな質問をしてしまったのか。


 ほんの軽い好奇心からだった。

 その時は夏休み中で、諭一は友人から、『お墓参り』に行った話を聞いたばかりだった。


 『お墓参り』というイベントを諭一は知らない。経験した事がない。

 良い機会だと思って、祖父に訊いたのだ。


「うちの、ゴセンゾサマのお墓ってどこにあるの?」


 祖父は、にわかに顔を曇らせた。


「先祖……『灰の角』の眠る場所は……」

「父さん」


 いくらか焦ったような声色で、父が祖父の言葉を遮る。


「今はよそう。諭一にはそのうち折を見て、僕らの歴史の事を話すよ。父さんが教えるのはつらいだろうし、その――諭一にもショックが大きいかも」

「どうせただの、ろくでなしの恨み節になるから、か?」

「そこまでは言ってないだろ」


 父と祖父が硬質な視線を交わす。

 室内の温度が、真冬の金属のような冷たさを帯びた気がした。


 その後すぐ、諭一は母に促されて寝室に引っ込んだため、二人がどんな会話を交わしたのかは分からない。


 ただ、酷い口論になった様子だった。


「事実は事実だ。赤子同然の息子を捨てて勝手に狂い死にした夢想家、それが俺の父親だった。俺達はそういう歴史をいくつも抱えてる。一体誰のせいで? 白人達だ! これらは知っておくべき事だろう!」

「そんな話を小学生にしろって言うのか? 変な先入観を植え付けないでくれ! いつかはあの子も知るだろうけど――」


 断片的に聞こえてきた言い争いに諭一は思わず耳をそばだてた。

 祖父は翌日、挨拶もそこそこに帰国してしまい、以来一度も再会出来ていない。


 自分の先祖に何が起きたのか。諭一が強い関心を抱くようになったのはあの日以来だ。

 しかし、父から話を聞く事は出来なかった。話題にするのも怖かった。

 ただ祖父が口にした『灰の角』という言葉を手掛かりに、諭一は北米先住民に関する文献を読み漁った。


 やがて彼は、『灰の角』の正体を知った。

 先住民の部族の名前だ。


 旧アメリカ合衆国とカナダの国境付近に暮らしていた集団。独自の言語を使っていたが、その言語も文化の記録もほとんど残っておらず、他の部族の言葉で『灰の角』を意味する名乗りが伝わっているのみである。


 『灰の角』は、険しい山の奥地に集落を築き、自然への敬意と人生の誇りを重んじる民だった。


 が、十八世紀以降、交流のあった他部族とはカナダとの国境で分断され、彼ら自身も入植者らによって、父祖の土地から遠く離れた居留地へと強制的に移住させられた。


 元々大規模な集団ではなかった『灰の角』は、分かたれ、追い詰められ、その人数を瞬く間に減らし、伝統も文化も祈りの言葉も永久に失った。


 ――これが、一族の歴史。


 先祖の身に降りかかった悲劇の一端を知り、諭一は少なからず衝撃を受けた。


 それでも彼は更に調べ続けた。

 そして数年が経ち、大学に入学して、キャンパス内の図書館で偶然にも、二十世紀末にまとめられたとある怪異の調査報告書を見つける。

 『北米大陸における怪異パンデミック以前の事例調査』とのタイトルだった。その中に、一九三〇年代の記録が載っていた。


「一九三九年。先住民の一人の青年が、『山にウェンディゴがいる。ウェンディゴを探す』と周囲に告げて冬の雪山に入り、それきり行方不明となった。

 この青年は、現在の西アメリカ共和国北部に存在した少数部族『灰の角』の言語を話す、最後の一人であったとされる。民族の再興を夢見ていたとの証言もあった。

 しかし、先住民にとっては困難な時代の最中さなかの事である。彼の夢は欠片も果たされなかった。貧困の中で最愛の妻を亡くし、ついに正気を失った彼は、自死同然に雪山へと向かった。

 当時、まだ怪異は実在の疑われる存在で、その数は非常に稀少だった。彼がウェンディゴと実際に遭遇した可能性は低いと見られる」


 そんな内容の記録である。


 ――祖父が言っていたのは、この人の事だ。


 諭一は直感した。


 報告書によれば、青年が姿を消した山は、西アメリカ共和国、東アメリカ合衆国、カナダの国境が交わるポイントの近くにある。

 かつて『灰の角』を名乗る部族が暮らしていた、父祖の土地だ。

 彼が本当に正気を失っていたのかどうかは定かでないが、ただ単に命を捨てたくて闇雲に山へ向かったのではない。そんな気がする。


 何の確証もないというのに、諭一は勢いに任せて、留学の名目で合衆国へと旅立った。


 曾祖父――と思われる誰か――が登った山道を辿り、その山の果てで諭一は出逢った。


 人食いの精霊として北米大陸の人々が恐れた、怪異ウェンディゴと。


 『引き寄せ体質』の諭一はある程度怪異を見慣れていたし、ウェンディゴの特徴も事前に調べていた。とはいえ雪の中、突如真正面からあの姿が現れた時には竦み上がったものだ。


 まずい事になったと思いつつも、彼はウェンディゴを身の内に取り憑かせて、日本に連れ帰った。


 彼らが出会った場所は西アメリカ共和国との国境付近。放置していればウェンディゴは山中を彷徨さまよい歩き、国境を越えてしまうかもしれない。

 共和国では、あらゆる怪異が抹殺対象とされている。

 どんな姿になろうと、家族だったかもしれない相手を孤独に消滅させたくはなかった。


 各方面から散々叱られつつ帰国して、以降、今日ミケに指摘されるまで一応何事も起きずにいた。

 両親にも怪異憑きになった事はばれていない。

 ウェンディゴは大人しくしているし、諭一も人の血肉を欲したりはしない。


 それどころかウェンディゴは、諭一からの『灰の角』という呼びかけに応じ、力を貸してくれる。

 諭一は曾祖父の名前も、使っていた言葉も知らない。それくらいしか呼び名が思いつかなかった。


 ……果たして、自分はこの怪異と通じ合えているのだろうか。彼は本当に諭一の先祖か、縁ある者の成れの果てなのだろうか。


「『灰の角』……曾祖父ひいじいちゃん。可愛い曾孫に何させたいわけ?」


 左腕の刺青を見るともなしに見つめ、諭一はまた寝返りを打つ。


 気怠けだるい。

 昼間からずっと首の裏が痒い。指で触れると、心なしか腫れている気がする。こんな真冬に、蚊に刺されたのだろうか。


「ほんとに人とって食ったりしたいもんなの?」


 虚空にそう問いかけた時だった。

 左腕に異変が起きた。刺青の模様が、動いたように思えたのだ。


「うぇッ!?」


 諭一は面食らって、自分の手首に目を凝らした。皮膚に異常はない。その表面を彩る線刻模様だけが、ぐにゃぐにゃと形を変えつつある。


「文字……アルファベット? 『NO』……?」


 確かに、『N』と『O』が形成されたように見える。


 この線刻模様の刺青は、ウェンディゴに取り憑かれて以来、彫った覚えもないのに浮き上がってきたものだ。だから怪異憑きの影響で現れたのだと思っていたが。


「でも怪異が――人食いの精霊が英語つづれる? ……あーいや、曾祖父ひいじいちゃんならあり得るか」


 北米大陸先住民の言語には文字のないものが多いし、曾祖父が諭一相手に何か訴えるとすれば、寧ろアルファベットくらいしか手段はないだろう。……この状況に冷静に納得するのも妙だが。


 思考を続けながらも手首から目を離せずにいる諭一の前で、刺青は一旦文字の形をくずし、また新たなアルファベットを形作り始めた。


『DANGER』


「――危険? 何が?」


 また文字列が崩れ、再度現れる。今度は文章になっていた。


『YOU』『NEED』『HELP』


「助けが必要……? だから何の話?」


 自分の腕に向かって問答をしている。多感過ぎる中学二年生ではあるまいし。

 諭一は思わず吹き出しそうになり――その直後、中途半端な笑みを凍りつかせて跳ね起きた。


「……!? なんっ……だこれ……!」


 身体の中で何かうごめく感覚があった。

 気持ちが悪い。しかし嘔吐感はない。逆だ。


 飢餓感きがかんと強烈な喉の渇きが湧き上がっている。


 今すぐ食べたい。かじり、すすりたい。冷蔵庫に夕食があるはず……いや、むさぼりたいのはそんなものではない。


 異様に過敏になった嗅覚が奔流のごとく情報を送り込んでくる。室内のラグの匂いに防虫剤の匂い、家電の匂い、スチールパイプの棚の匂い、そして窓の外から微かに漂う、人間の匂い。


 欲求にき動かされるまま、諭一は窓の方へふらふらと歩いた。目眩を覚え、ガラスに手をつく。指から生えた鉤爪がガラスを引っ掻き、酷く耳障りな音を立てた。


 窓に映る自分の瞳は爛々らんらんとした碧色みどりいろである。


「……待っ……てよ、なんでいきなり……!? おかしいって」


 獣じみた荒い呼吸の合間、残る理性を総動員して諭一は人の言葉を吐き出す。

 手首に浮かんだ文字列は崩れ、元の線刻模様に戻りつつあった。

 『HELP』の単語が、最後に消える。

 そうして元に戻ったかと思いきや、刺青は淡く青く輝き、諭一の腕を駆けのぼって全身に広がり始めた。


 ――。このままでは。


 『灰の角』は助けを求めていた。彼はこれから起きる何かを一瞬早く予見していたのか。しかし助けを求めると言っても、一体誰に?


 窓ガラスが、手をついた箇所からひび割れた。

 その音に、意識を散らしかけていた諭一ははっとしてベッドを振り向く。帰宅してすぐ投げ出したらしいスマートフォンが毛布の上に転がっている。彼はそれを掴んだ。


 この鉤爪の伸びた指で、果たして操作出来るかどうか。ほとんど祈るような気持ちで、彼は画面を立ち上げた。

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