第12話 父祖の声は峰の果てに (6)

 一先ず芹子は、文化人類学の遠藤准教授に招かれた客という身分であるから、そちらの研究室に経緯を説明して判断を仰ぐと言う。


 行きずりの部外者、それも厳密には侵入者である根岸としても、その方がありがたい。


 何故か諭一が頼み込んで芹子とLINEの連絡先を交換して、その場は解散となったところで、授業終わりのチャイムが鳴った。


「何だか妙な物音がしたが、どうした?」


 教室から出てきたミケが、開口一番根岸に訊ねる。


「えっ、ぼくが大活躍って話してもいい?」


 諭一が身を乗り出して武勇伝を語ろうとしたが、それより先に根岸は、人の少ない物陰にミケを引っ張って行き、声を落としつつ告げた。


「ミケさん、まずいです。彼に憑いてるのは恐らく――『ウェンディゴ』です。僕も実際に見たのは初めてですが」


 ミケは二、三度、瞬きを返し、平然と頷く。


「おお。ああ、そうか」

「そうかって……ウェンディゴといったら、指定危険外来怪異にも登録されてる『人喰い種』ですよ!」

「ちょっ、待ってよネギシさん。そんな危ないもんじゃないって。うちの曾祖父ひいじいちゃんなんだし――」

「危ないですよ、危険種が空港の怪異検疫もすり抜けて……!?」


 ぎょっとした根岸は、思わず上擦った声を発してしまった。

 学生達が、廊下の突き当たりにいる彼らを振り向く。


「ど、どういう事です?」


 根岸はどうにかして再び、声のトーンを落とした。


 基本的に、怪異は子孫を残さない。だが自らの眷属けんぞくやせる種も、確かにいる。

 そう、ウェンディゴはまさにそのタイプだった。


 カナダから、現在の東西アメリカ北部にかけて広く言い伝えられ恐れられてきた人喰いの精霊、それが怪異ウェンディゴである。


 冬季の峠道などに出没し、通りかかる旅人に取り憑いて、不吉な言葉を囁きかけ相手の精神を摩耗させる。

 やがて取り憑かれた人間は疲弊し、飢えと渇きにさいなまれ、人の血肉をむさぼりたくて堪らなくなる。


 ついに人を食い殺してしまった『ウェンディゴ憑き』は、ウェンディゴそのものへと変わり果て、新たな犠牲者を求めて極寒の山を彷徨さまよう事になる……。


 そういえば、諭一の父親マーティン・アンダーソンは、北米大陸先住民の末裔なのだと根岸は思い出した。


「つまり……諭一さんのご先祖はウェンディゴに……」

「憑かれた。いや憑かれたっていうか――この辺面倒な話なんだけどさ」


 急に渋るような口振りになって、諭一は包帯に覆われた左腕を撫で、それから首裏を掻いた。


「……何か首が痒いな。とにかく、これはぼくんちの問題だから心配しなくていいよ。それにホラ、さっきみたいに人助けに役立てたらヒーローじゃん。絶対モテる」

「映画とかで超能力に目覚めたものの、調子に乗って痛い目に遭う人の台詞みたいに聞こえますが」

「平気だって。ぼかぁ生まれてこの方ずっと調子こいてるし、怪異に憑かれたのも初めてじゃないから、これくらいで調子こき方変わんねーもん」

「どういう理屈ですか!?」


 呆れ返る根岸の前で、諭一はくるりと二人に背を向けた。


「じゃっ、ぼく友達と昼飯約束してるから。ミケくんもまったねー。あ、吉祥寺きちじょうじに美味いスペインバル見つけたから、今度飲み行こーなー」


 おう、とミケが短く応じる。

 彼は先程から、眉間に皺を寄せてくんくんと鼻をひくつかせていたのだが、結局軽く首を傾げただけだった。


「妙な匂いだな」

「ミケさん、本当に良かったんですか? ウェンディゴを放っといて」

「ああ、そっちは……良かぁないしそのうち誰か食われるかもしれんが……」

「良くないんじゃないですか」

「しかし、怪異の方も諭一の方も、全部承知してそれでいいと思っとる以上はな。俺が口出す事じゃない」


 根岸は眼鏡をずり上げて眉間を押さえた。


 ミケの立場はあくまで、怪異側にある。人間に対して友好的というだけだ。

 根岸がそうだったように、自分の目に留まる所で困り果てていないうちは、手助けする義理など彼にはない。

 人間と上手く付き合い、友人になればその身を案じたりもするが、必ずしも法や秩序に従う訳でない辺りは、他の怪異と同様だ。


「――いやでも、以前諭一さんに憑いてた幽霊は、ミケさんが退散させたと」

「あれは幽霊の方が、元々住んでた廃墟に戻れなくなって困ってたんだ。『引き寄せ体質』ってのは、怪異の意志も関係なく取り憑かせちまう場合がある」


 ミケの見た限りでは、諭一は怪異憑きになった事を受け入れているし、怪異の方も諭一から離れたがっている風ではなかったと言う。


「怪異が憑いてるかどうかは、空港で検査されますよね。それほど精密なセンサーじゃないらしいですが」

「俺らの鼻の方が余程アテになるよ。特に憑かれてる人間と怪異の縁が深い場合、霊験機器れいげんききはスルーだ。ほれ、先祖の霊が守ってくれるのを、人間は『守護霊』って呼んで有り難がったりするだろ? あれと見分けがつかないからな」


 余程厳密に怪異侵入阻止を掲げている国家でもない限り、家族の幽霊がくっついている程度なら入出国を許可するのが、現時点での国際社会の常識となっている。

 色々とトラブルはあるのだが、取り締まってもきりがないためだ。


「縁の深い怪異……じゃあ本当に、諭一さんの曾祖父そうそふが怪異化して、曾孫ひまごに取り憑いてるって事ですか?」

「さてねえ。少なくとも縁もゆかりもない相手じゃないんだろう」


 話し込んでいるうちに、二人は学部棟の外に出ていた。


 数名の学生が三階の割れた窓を見上げて、何があったのかと首を傾げている。応急処置として、窓に大判の紙が貼られていた。


「さっきの物音の出所はあそこかい」

「ええ。唐須さんの封印していた『虫』が、籠帳の中で急に暴れ出したとかで。諭一さんが――というよりウェンディゴが、彼女を助けたのは本当です」

「そりゃまた変な話だな」

「唐須さんと大学が対処してくれるようですが……」

「じゃ、そっちはプロに任せて俺達も昼飯にするか」


 何を食おうかな、と学食の方向に歩き出すミケの隣で、根岸はしばし考え込み、足を止めた。


「ミケさん、このキャンパスに大学図書館ってあります? 人文系の論文が置いてあるような」

「ん? そりゃあるが」


 ミケは不思議そうに根岸を振り仰いだものの、建物を指し示してみせる。


「すぐそこだよ。学食の隣」

「ありがとうございます。ちょっと調べ物してきます」

「飯は?」

「飢え死にはしないので!」


 根岸は教えられた建物に、早足で向かった。


 幽霊とはいえ三食きっちり摂る習慣が既に身についているから、空腹を覚えるだろうか。しかし今はそれ以上に、気になる案件があった。


 ――空腹といえば、芹子のクッチー……『脾臓ひぞう悪虫あくちゅう』が行方不明になった件は、ミケにまだ話していない。


 怪異が迷子となると、ミケも心配に思うかもしれない。後で一応伝えておこう、と根岸は胸の内で自身に言い聞かせた。

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