第11話 父祖の声は峰の果てに (5)

 その後の遠藤の講義を、どうにか眠りに落ちる事なく耐え凌ぎ、授業を終えた根岸達は学部棟のロビーに出た。


「次の授業は少人数だから、ちょっと根岸さんは連れていけないな。バレちまう」


 ミケが腕を組んで根岸を振り仰ぐ。


「どうするね? 家に帰ってもいいし、校内の散歩でもするか……あ、学食もう開いてるぞ。味はそこそこ」

「んっなになに、見ない顔だと思ってたら、やっぱネギシさんうちの学生じゃないの? 何かワケあり? 編入志望とか?」


 会話を聞きつけた諭一が首を突っ込む。ミケは動じるでもなく頷いた。


「まあそんな所だ。他言無用で頼む」

「ほーん。じゃ、ぼくが案内したげよっかキャンパス。この後は午後まで暇だから」


 無意味にくるくると両手の人差し指を回して、諭一が提案する。


「え――」


 根岸は多少逡巡した。自分の正体を怪異と知らない人間と行動を共にするのは、初めてになる。いつかは訪れる事態なのだろうが。

 ついでに付け加えると、生前の根岸は諭一のようなタイプとあまり親しく付き合ってこなかった。会話に疲れそうだ。


 しかしながら彼は結局、


「だったら……はい、よろしくお願いします」


 と、低めのテンションで応じた。


「オッケー任せて! イエーイLINE交換する?」


 何しろこのとおり、諭一の方には屈託がない。

 根岸は享年二十三歳、あのまま生きていれば今は二十四になっているはずだった。

 恐らく諭一より年上だし、社会人である。

 学生相手に「君の性格が苦手なので同行は結構」などと告げるのは、大人げないように思えた。


「逆に子守りみたいな事になってすまんね、根岸さん。諭一を頼む」


 根岸の複雑な心境をどこまで察したのか、ミケが苦笑を漏らす。


「言い方! ミケくん何だか今日冷たくない?」

「お前さんが留学先で死にかけたばかりだからだよ。根岸さんの方が頼れる。大人しくしててくれ」


 やんちゃ盛りの孫でも諫めるような口振りである。ミケにとっては似たような感覚なのかもしれない。

 そして案外と、ミケは根岸を買ってくれているらしい。


 ――例の、音戸邸主人の意向と何か関係があるのだろうか?


 そんな事をちらりと考えるも、その時にはミケはもう「そんじゃな」と手を振って、講義室の方へときびすを返していた。



   ◇



 幸いにして大きなトラブルもないまま、根岸と諭一はぐるりとキャンパスを一回りして、また文学部棟へと戻ってきた。


「あー寒っ。あったかいもん欲しいな。ネギシさん、三階行かね? 自販機あるから」


 大学の公式サイトなどでは『ラウンジ』と洒落た呼び方をされているが、大体徹夜明けの学生がコーヒーをガブガブ飲みながら泣く泣く未完成のレポートと顔を突き合わせているスペースだ――と説明しながら、諭一は階段を上っていく。根岸もそれに続いた。


 案内されたスペースは、壁の一方がほとんど全面ガラス張りで、陽光の射すカーペットの上に、間隔を開けて椅子とテーブルが並べられている、確かに洒落た空間だった。

 授業中の中途半端な時間帯だからか、学生の姿はごく少ない。


「コーヒー六十円。こういう所の飲み物って安いですねえ」

「その分味は値段相応だけどね。ぼくココアにしよ」


 紙カップ式の自動販売機のラインナップを、二人揃って眺める。

 と、不意に廊下の奥から微かな物音が聞こえた。


「……悲鳴?」


 財布を取り出そうとしていた諭一が、さっと顔を上げる。


 その両眼は碧色みどりいろに輝き、瞳孔の形状までも奇妙に歪んで見えた。


 が、根岸にはそれを怪訝に思う暇もない。物音の主がラウンジへと飛び込んできたためだ。


「待って、待って!」


 叫びながら現れたのは、唐須芹子だった。

 そして彼女が追いかけ、手を伸ばす先には――バッタのように飛び跳ねる、一冊のノート。講義中に虫を封じてみせた、あの『籠帳』だ。


 けつまろびつ、とでも表現するべきか。籠帳のどこが足でどちら側が前面なのかは知らないが、とにかくその紙束はばさばさと音を立てて無茶苦茶に跳ね回り、捕まえようとする彼女の手から逃れ続けている。


「なっ、何なの!?」


 ラウンジの隅で茶を飲みながら寛いでいた女子学生が、椅子を蹴立てて狼狽うろたえた。


 トクブン勤めのさがだろうか。根岸は咄嗟に学生を庇える位置まで駆けつけ、


「離れて! 避難して下さい、怪異です!」


 と呼びかけると、内ポケットのスペル・トークンを手に取る。


 非常時なので「怪異です」と断定したものの、何が起きているのかは彼にもはっきりと分からない。


 芹子の持つ籠帳、あれ自体は怪異ではない。怪異に対処するための道具、霊験具だ。根岸の持つ霊験機器、スペル・トークンと似たようなものである。勝手に暴れ出すという事は考えにくい。


 学生を廊下に逃がして振り向いてみれば、籠帳の暴れぶりはいよいよ手のつけられない凄まじさになっていた。


 天井にぶつかるまで飛び上がったかと思えば、目で追えない程の速度で座席の間を転がる。窓際のテーブルを籠帳が押しのけ、テーブルがひっくり返った。

 金属の脚が当たったのか、窓ガラスに亀裂が入る。

 すかさず、籠帳がひび割れた窓に突進した。


「だっ、駄目! エナちゃん!」


 芹子が悲痛な声で誰かの名を呼んで後を追う。籠帳は背表紙部分を激しく振動させ、窓ガラスを大きく砕いてみせた。


(紙だよなあれ!?)


 唖然として自問する根岸である。


 一方、芹子は躊躇ためらわない。窓の向こうに飛び出そうとする籠帳に間一髪で追いつくと、両手で思い切り表紙の端を掴んだ。

 途端、カーペット上で踏ん張る足が、割れた窓の外側へずるずると引きずられる。


「ちょ、ちょぉっ!? 落ちる! 助けて!」


 ここまでは無我夢中の行動だったらしい。我に返った芹子が悲鳴を上げた。


「危ない!」


 根岸は慌てて走り出した。

 しかし彼女の身体は既に半ば以上、外に向けてかしいでいる。この位置から間に合うか。


 ――その時、ラウンジに鋭い声が響き渡った。


ッ!」


 諭一の声だ。

 ものの数秒前には自動販売機の前に立っていたはずの彼の姿が、いつの間にか窓の間近に迫っている。


 そこからは一瞬の事だった。


 諭一の両側頭部から突如として、一対の灰白色かいはくしょくの角が伸びた。角は曲がりくねり、枝分かれ、巨大な牡鹿おじかのそれに似た形状へと成長する。


 異変は角だけではない。

 彼の身の丈は二倍程になり、胴体から手足まで、熊と猿を掛け合わせたような獣の皮に覆われた。短い暗色の毛皮の合間に、青みがかった線刻風の刺青いれずみが走っている。

 見開かれた瞳は碧色みどりいろの輝きを放ち、横長に伸びた瞳孔が落下しかける芹子を捉えた。


「おおォォォッ!」


 諭一が一声吠える。

 その頭部も既に人間のものではない。鹿と熊と山羊を混合させたような顔つきで、開いた口に鋭い犬歯が覗く。


 芹子の足先が窓の縁を離れ、両手に持った籠帳もろとも、逆さになって転落する。


 同時に、諭一が床を蹴った。


 両の角で窓に残ったガラスを更に割り砕き、勢いよく外へと飛び出した彼は、芹子の自由落下に追い縋ってみせた。片手で彼女の身体をすくい上げ、もう片方の手で素早く窓枠を掴む。


「諭一さん、唐須さん!?」


 根岸は叫び、窓の大穴に取りついた。しかし心配するまでもなく、大きな牡鹿の角がすぐ足元に確認出来る。訳の分からない事だらけだったが、一先ず彼は安堵した。


 窓枠からぶら下がっていた諭一が、片腕の筋力だけで自身と芹子を持ち上げ、難なく三階の床に這い上がってくる。


 そこで、ふうっと雪のけるように、諭一の身を覆っていた獣の体表も角も消えた。

 後にはカーペットの上で芹子を抱える諭一と、いくらかのガラス片が残るのみである。


「あービビったー」


 至って呑気な感想を諭一は漏らした。

 それは寧ろ、目撃者である根岸が口にするべき台詞と思われる。


「唐須さん、だいじょぶ? ガラスで怪我してない?」

「あっ……あ……」


 芹子は腰を抜かした様子で、呆然とカーペットの上にへたり込んでいた。両手にはいまだしっかりと、籠帳を握り込んでいる。そこは大したものだ。


 根岸がざっと確認した上では、二人とも大きな怪我を負っているようには見えない。多少手足を擦り剥いたくらいで済んだらしい。


「あ……あなた、今……?」


 と、諭一を見つめた芹子は何か言い募ろうとして途中で止め、改めてまた口を開く。


「いえっ……おおきに、ありがとうございます。それより――エナちゃんが! 籠の中で大人しゅうしてたエナちゃんが、急に暴れ出して」

「エナちゃん?」


 根岸は首を捻る。


「籠帳に封じてある『虫』の一体や。『胞衣えな血積けっしゃく』。憑いた人を錯乱させる虫で、エナちゃん自身も暴れん坊な気性ではあるんやけど」


 どうやら芹子は、封じた虫にニックネームを付けているらしい。名前の可愛さと引き起こす症状の凶悪さに、いささかギャップがある。


「でもここまで暴れるなんて……それも籠帳ごと引きずり回すなんて、あり得へん。何があったんや。今はまた急に大人しゅうなってもうたし」


 そう切々と呟いて、芹子は籠帳を開いた。


 何枚かページをめくった先に、罫線に囚われた一枚の虫の絵があった。不定形のどろりとした塊にまとわりつく白っぽい蛇。

 ほら、と芹子が指し示したところからして、これが胞衣えな血積けっしゃく――エナちゃんと呼ばれる虫なのだろう。

 確かに、現在のそれはただの絵にしか見えなかった。籠帳も最早ぴくりとも動かない。


「他の虫は無事っぽい? さっきの授業でび出した、何だっけ、『欠伸あくびの虫』だとか」

「あら、さっきの授業受けとった人?」


 恐怖と困惑に強張っていた芹子の顔が、諭一に向けられて少しばかりやわらぐ。


「えっと……他の虫にはおかしな所なさそやけど……」


 虫の絵図の描かれた紙をめくる芹子を諭一に任せて、根岸はラウンジの周囲をぐるりと見渡した。


 先程廊下に避難させた女子学生が、恐々こわごわとこちらを窺っている。スマホのカメラを構えたりする余裕はなかった様子だから、多分諭一も芹子も撮られていない。


 窓の外はいくらかざわついていた。

 幸い、落ちてきたガラス片で怪我人が出たりはしていないようだが、「見て、窓が」「ガラス落ちてんぞ危ない」などと言い合う声が聞こえる。


 ――籠帳が窓を割った件は事務室にでも報せるとして、一旦この場を離れた方が得策かもしれない。


 これも職業病だ。怪異事故の際の関係者のプライバシー確保は、現代では重要な仕事なのである。


 根岸が二人に声をかけようとした時、芹子が「あっ――」と、息を呑むような声を漏らした。


「クッチーがおらん。籠が破れてもうたんや」

「クッチー? それも虫の名前?」


 諭一の問いかけに、芹子は深刻な顔で頷いた。


「『脾臓ひぞう悪虫あくちゅう』……」

「『あゅう』で『クッチー』? ……たまにあるよな、そこ拾う? みたいな渾名」

「それはどういう症状を悪化させる虫なんです?」


 首裏を掻いて能天気な事を呟く諭一を尻目に、根岸は質問を重ねる。


「すごく簡単に説明すると――」


 諭一に手を貸されてその場に立ち上がりながら、芹子は言った。


「取り憑かれたら、メッチャお腹が空く」

「……何気に厄介じゃん」


 根岸と顔を見合わせた上で、諭一がそう所感を述べた。

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