第8話 父祖の声は峰の果てに (2)
年の明けたばかりの街角は底冷えする寒さだった。
見上げれば空は灰色の雲で覆われ、雪でも落ちてきそうだ。
怪異も雨に当たると濡れる。雪に降られた経験はまだないが、体温がないから溶けずに肩に積もっていったら厄介だな、と根岸は考えた。
「雨に当たっても濡れないタイプの怪異もいるそうですね」
「物理世界にほとんど干渉しない奴だな。人によっちゃあ見えなかったりするらしいが。俺は濡れるの嫌いだから、ちょいと羨ましいよ。寒いのも苦手だ」
そう愚痴るミケは実際寒そうで、マフラーとコートの内に首をすぼめ、身を縮めつつ大学への道を先導している。
人間が怪異をはっきりと知覚出来るかどうかは、体質による。俗な言い方をすると『霊感』が関わってくる。
この感覚が鋭ければ、スペル・トークンなどの
トクブンに就職する人間は概ね、一定以上の霊感の持ち主だ。
一方で、怪異を知覚しづらい人間も数多い。
幽霊は特に人から見えにくい怪異で、『誰にでも見える幽霊』となると五割を切るという調査結果もあった。
幸か不幸か、根岸は『見えやすい幽霊』の部類らしく、今はごくオーソドックスな冬用コートを羽織っている事もあって、歩道ですれ違う人々は彼を普通のサラリーマンか学生と思っている風だった。
「うちの両親は全然怪異に関わらずに暮らしてるんで……僕が会いに行っても見えないかもしれない、なんて事も考えるんですよ」
ぽつりと根岸は漏らす。少し先を歩くミケが、彼を振り仰いだ。
「縁のある者同士は知覚しやすいって言うぞ。霊感をまるで持たない人間でも、夢枕に死んだ
「縁、かぁ……」
これまで家族を動揺させる可能性の心配ばかりしていたが、考えてみればそもそも、自分はきちんと『縁』を結べていただろうか。俄かに根岸は不安になった。
彼はそう大袈裟に家族愛を表明する人間ではなかったし、両親も物静かな方だ。弟や妹とはそれなりに仲良くやっていたつもりだが、喧嘩をした事もある。
誕生日や盆正月も一応祝った記憶はあるものの、盛大なホームパーティーを開くような家ではなかった。進学や就職を経て、実家で顔を合わせる機会も減っていた。
――もう少しちゃんと、感謝や愛情を形にして残しておくべきだったかもしれない。
今更どうにもならない反省をする。
もう彼は『根岸秋太郎』ではない。その記憶を持つだけの別の存在だ。
厳密には、両親の息子でも何でもない。
彼らの息子は死んでしまった。根岸が会いに行ったところで、本人が戻ってくる訳ではない。
「何だ何だ、急に暗い顔んなっちまって」
地面に目を落とす根岸に対して、両手をコートのポケットに突っ込んだまま、ミケが肩を竦める。
そんな彼に、根岸はふと浮かんだ疑問を投げた。
「……ミケさんは何故、他人の僕にこんな親切にしてくれるんです?」
「何故って? あんたがうちの玄関先に化けて出たから」
それも縁と言えば縁だろ、とミケは淀みなく答える。
「それだけで?」
「結構な大ごとだと思うが。それに、御主人の意向でもある」
意外な言葉に、根岸は軽く瞠目した。
「御主人、というと――ずっと眠りに就いている――音戸邸の?」
「あの家には御主人の結界が張り巡らされてる。眠ってる間でもな。最近多少緩んできたが、それでも踏み入らせたくない幽霊をやすやすと上がらせたりはせんよ」
幽霊となった根岸が音戸邸を訪ねた最初の木曜日。
あの時点で邸宅の結界が根岸を明確に招き入れたという事実に、何かしら
「そこんとこの真意までは、家令の俺が
根岸は何とも応じづらくなって、押し黙った。
『
都内有数の大物怪異が、根岸に何を見出したというのだろう。それも、当人は眠り続けていてまだ対面すらしていないのに。
「もう一つ言うと」
そう口を開いてから、ミケは続けるべき台詞を探るように癖のついた横髪をいじる。
「何です?」
「……根岸さんが、なかなかいい奴だったからさ。前に言っただろ。茶飲み友達が増える分には、俺は歓迎だ」
「……」
またも根岸は言葉を失った。今度は違う意味でだ。
「あんたなら家族の事も、そんな暗く考えるこたぁないと思うんだがね。しかし血族ってもんは、ややこしいからな。人間は特に」
ミケは前へと向き直り、ここにいない誰かに思いを馳せるような眼差しをする。
怪異は底知れない種族であり、音戸邸には未だ謎めいた部分も多いが――少なくとも今目の前にいる音戸の家令は、善意の猫だ、きっと。
ミケの横顔を眺めながら、そんな事を根岸は考えた。
「ところでミケさん、大学には正規の学生として通ってるんですよね。聴講ではなく」
「そりゃあそうだ。ちゃんと試験に合格した」
「……受験の時に必要な住民票とか、どうしたんです? あと学費も」
「ニャー」
「鳴いて誤魔化さないで下さい」
タイミング悪くすぐ
「いるんだよ、そういうのをどうにかしてくれる人が。それに金は自力で稼いだ奴だ。土地だとか……色々転がして」
彼を
怪異が人を相手にやる商売は、大抵違法行為か脱法行為が絡む。
その生態の曖昧さ奔放さゆえに、彼らは人間社会の遵法精神を獲得しづらいらしい。
生前は生真面目でとおっていた根岸ですら薄っすらとその気持ちを理解しつつあり、この先自分がどうなるかも分からない。
不正受験でなかっただけ良いか、と受け流しかけて、
(正規の手段で合格したって、それはそれで凄いな)
と、根岸は感心し直した。
ミケと根岸が今向かっている先は、
国内の私立大学の中でもそれなりの難関名門校である。音戸邸からぎりぎり徒歩圏内の立地だ。
学生証によると、『
出掛ける前にその学生証を見せて貰った根岸は、首を傾げたものだった。
「学生証に載ってるこの生年月日だと、入学して早々二十歳ってことになりません? 今二十一歳」
つまり、高校三年の卒業前に受験という一般的なルートを取ったとすれば、一年浪人した計算だ。ミケの実年齢を根岸は知らないが、多分十代でも二十代でもない。わざわざこの生年月日を申告した事情があるのだろうか。
根岸の質問にミケは、
「その身分証で早いところ、居酒屋に入れるようになりたかったんだよ」
と軽く応じた。
古来より
音戸邸を
それで志津丸は
「あっ、あれが正門ですか」
窓が広々と張られ透明感のあるデザインのビルが目に留まり、お
建物もそうだが、周囲を歩く学生達も小洒落た空気を纏っている。
その時不意に、エンジン音と聞き覚えのない声が横から響いた。
「あっれー、ミケくんじゃん。おっつー、あけおめ! これから授業ー?」
風船に注入したら浮かび上がるのではないかというくらい調子の軽い声音である。
根岸が車道側を向くと、そこには磨き上げられたメタリックグレーのオープンカーが停車していた。運転席にはサングラスをかけた若者が一人。
長い髪を撫でつけて後頭部で一つに括り、その半分程を水色と群青色に染めている。垢抜けを通り越して、大分気合いの入ったヘアスタイルだ。
「
ミケが目を瞬かせて名を呼んだ。
「何だお前さん、東アメリカに留学してたんじゃなかったか? 帰るのはまだ先だって聞いてたような」
「いやそれがさー聞いてよ……あっヤベ、ここ停めらんねえや。ちょっと駐車してくるわ」
正門のすぐ手前に、学校関係者の駐車場があるようだ。整備係に警告の笛を鳴らされ、オープンカーの青年は慌てて大きくハンドルを切る。
彼の左腕に包帯が巻かれている事に、そこで根岸は気づいた。
その腕から、何か嗅いだ事のない匂いを彼は感じ取る。線香のようなスパイスのような――香水だろうか?
隣のミケに目を向ける。彼も心なしか、眉をひそめて鼻をひくつかせているようだった。
「今、根岸さんも嗅ぎ分けたか?」
駐車場を徐行で進むオープンカーから目を離さず、独り言のようにミケが質す。
「じゃあさっきの匂い、ミケさんにも?」
「おお、怪異らしくなってきたな」
怪異同士は互いに鼻が利くものだと、特に焦る風でもなくミケは呑気に続けた。
「諭一の奴はれっきとした人間なんだが、引き寄せ体質でね。また憑かれたみたいだ。一体何をやっとるんだか」
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