第9話 父祖の声は峰の果てに (3)

 「ぼく、諭一ゆいち。諭一・アンダーソン。あ、もうミケくんに名前聞いちゃった感じ? よろー」


 車から降りてきてサングラスを取った若者は、根岸にそう語りかけ、米国式に握手を求めた。


 手を取られながら、体温の低さを気取られはしないかと根岸は気にしたが、周囲の気温も低いためか特に驚かれた様子はない。


「根岸秋太郎です、よろしく……アンダーソン、さん?」


 根岸は相手を見上げて自己紹介を済ませる。

 諭一は随分と長身だった。根岸も一七四センチと小柄な方ではないのだが、それより十センチ近く高いから、ゆうに一八〇以上はあるだろう。


 面長で鼻梁が高く、どこか日本人離れした顔つきではあるものの、一方でモンゴロイド然とした特徴も備えている。


 ――この顔立ち、それにアンダーソンという苗字。何だか誰かを思い出す。


 記憶を辿り、思い当たった瞬間、「あ」とつい根岸は短い声を上げた。ミケと諭一が同時に不思議そうな顔をするので、慌てて頭を下げる。


「いえすみません、マーティン・アンダーソンを思い出して。ミュージシャンの」

「あれ、うちの親父知ってんの? シブいねーお兄さん」


 あっけらかんと諭一が答え、根岸は目を丸くした。


「えっ、息子さん!?」

「あっははは、そうそう。実はさ、ぼくもたまーにYouTubeで歌とか歌ってんの。チャンネル登録よろ。いやー知名度で親父超えはまだまだキツいっすねー」


 実を言えば、マーティン・アンダーソンなる人物についての根岸の知識は、ほぼ妹からの受け売りである。

 根岸とその弟には芸術的素養がまるでないのだが、現在高校生の彼女は音楽大学を志望するくらいに、ピアノをはじめとした器楽の世界に精通している。


 マーティン・アンダーソンは人気の作曲家だった。民族音楽と現代音楽を融合した作風で知られる。自身も、北米大陸先住民の血を濃く引いているという。

 日本人女性のピアニストと結婚して現在は日本在住。

 そういえば、一人息子が音楽系YouTuberデビューし、そこそこ再生数を稼いだという話も妹がしていただろうか。


 諭一・アンダーソンが学生の身でシボレー・カマロを乗り回せる理由は察せた。

 しかし根岸の気掛かりは、別の所にある。


「でっさぁー、ミケくん聞いてよ」


 包帯の巻かれていない方の腕で、諭一はミケの肩を揺さぶった。ミケは根岸より小柄なので、諭一と並ぶとはなはだしい身長差になる。


「留学中にちょっとした登山に挑戦したわけ。したら遭難しちゃってさ。斜面で転んで腕怪我するし」

「……あん?」


 ミケが唖然とした顔で聞き返した。


「救助されたのはいいけど、なんか知らないうちに西との国境近くの危険区域に入ってたみたいで、もーめっちゃくちゃ怒られて。怪我もあったし急遽勉強切り上げて帰国って事になったんだよ。で、帰ったら親父もお袋もこれまたチョー説教してきてさぁ。酷くね?」


「お前さんの頭の中身が酷いよ。よく生きて帰ってきたもんだな」

「ミケくんまでそんな! ね、どう思いますネギシさん? この世間の冷たさ!」

「はぁ……無事で何よりです……」


 急に話を振られ、戸惑いつつも根岸は一応ねぎらいの言葉をかける。

 非友好国との国境に近づいて、実際よく無事だったものだ。


 一九四五年にアメリカで成された、怪異の存在証明。そして人類の認識が改まった事による、世界的な怪異接触事件の爆発的増加パンデミック


 当然ながらこの事件は世界中に大混乱をもたらした。


 怪異はその土地ごとの信仰や神話、伝統文化に影響されて大きく姿を変え、振るう力も変化する。人々の口から口、心から心へと伝わってきたおそれや遺恨によって、時に凶暴な存在ともなる。


 国内に民族問題や宗教問題を抱えていた近代国家では軒並み、怪異対策を巡って深刻な確執が表面化した。


 問題を起こす異民族や他宗教の怪異を断固殲滅せよという論争、怪異を崇め古代の信仰を復活させる集団、対等な共存の道を探る者、それを不敬として阻む者。

 結果として、多くの国は内紛を経て分裂し、この地上から超大国と呼べる国家は消え去った。


 例えば現在、ドイツは東西に分かれ、イギリスからはスコットランドが独立し、ソビエト連邦は崩壊している。日本でも北海道と沖縄には特別行政自治区が設けられた。


 特に悲惨な歴史を辿ったのはアメリカである。

 あらゆる人種と文化が入り混じるこの国と怪異とは、あまりにも相性が悪かった。


 かつてアメリカ合衆国と呼ばれた地域には、泥沼の内戦の末に三つの国が成立した。


 怪異容認派が打ち立てた東アメリカ合衆国。

 怪異を崇拝する宗教団体がまとめ上げた連合国アメリカ。

 そして、怪異の脅威を克服し人類に再び平和と栄光を取り戻そうと主張する、西アメリカ共和国だ。


 日本国政府は、長らく怪異に対する態度を曖昧にしているが、強硬策は取らず、事実上容認もしくは『黙認』に近い状態となっている。そのため、外交上は東アメリカ合衆国との関係が最も良好と言える。


 日本の大学生にとってアメリカ留学といえば、大体は東アメリカ合衆国への留学を意味する。諭一も例に漏れなかったようだ。


「それで、諭一」


 ミケが端的に言う。


「今お前さんに憑いてる怪異は何だ? 留学先で拾ってきたのか?」

「……。あー……」


 諭一の視線が、目に見えて宙を彷徨さまよった。ミケから身を離し、軽く両手を挙げる。


「そっか、ミケくんには分かっちゃうよねー……空港の怪異検疫もスルーだったのに。流石は霊感少年っつーか」


 ミケは自分が怪異と明かしていないのか、と根岸は胸中で意外に思う。諭一の言い方から察するに、特殊な力を持つ人間だと思われている様子だ。


「そんなに危なっかしい雰囲気はせんのだが――」

「そう、ほんとそう。こいつはね、全っ然安全なやつだから」

「お前さんが力説するとかえって胡散臭くなる」

「ええー!?」


 眉間に皺を寄せたミケに凝視され、諭一は更に後退あとずさった。

 が、そこでミケは広場のモニュメントの先端に据えられた時計に視線を移し、表情を緩める。


「――とりあえず、授業始まるから教室行くか。ほれ、根岸さんも」

「本当に、勝手に紛れ込んで大丈夫なんですかね?」


 ここまでついて来ておいて今更だが、在籍してもいない学校の授業に幽霊の身で忍び込むのが、根岸としては気が引けた。通常、聴講生にも手続きと料金は必要だ。


「そりゃあ厳密にはダメだけど。でも分かりゃせんよ、次の『文化人類学概論』は大きな講義室でやるし、点呼する訳じゃないから」


 受験時に住民票を偽造し、恐らく年齢も詐称しているミケは、けろりとしたものである。


 ――信号無視の一つもせずに生を終えた根岸秋太郎は、今や遠い存在だ。


「それじゃ……なるべくこっそり」


 諭一は二人の遣り取りにきょとんと振り返りながらも、建物群の一角に向けて足を進めている。根岸は息を吐いて彼の後ろを歩き始めた。

 幽霊の吐く息は、白い温もりを伴ったりはしない。



   ◇



 聞けば、諭一はミケより一年早く入学していると言う。つまり三年生だ。留学やら何やらのせいで、今後の進級は遅れる可能性が高いが。


 去年、栄玲大に入学したてだったミケは、たまたま学内で諭一と擦れ違った時に、彼が『引き寄せ体質』で、今まさに幽霊に取り憑かれている事を見抜いた。


「最近毎晩、枕元に女が立って恨み言をぶつぶつ呟いてきたりしないか?」


 見ず知らずのミケから率直にも程がある質問を受け、諭一は驚いたが、もっと驚いたのは、その質問の回答が完全に「YES」になるという点だった。


 春休み中、廃墟のホテルへ肝試しに行って以来、彼は怪現象に悩まされていた。


 陰陽庁おんようちょうに通報するべき事態なのだが、その場所の怪異発生確率の高さを承知で肝試しをしたと発覚すると、『過失による怪異出現誘発』で場合によっては憑かれた方が訴えられてしまう。そもそもが不法侵入だ。


 放課後、人気ひとけのない場で再びミケに会った諭一は、全てを白状した。


 するとミケは一つ頷いて諭一の背を叩き、それであっさりと幽霊を引き剥がしてみせたのだった。


「で、その時ぼくは思ったわけよ」


 講義室の席に腰掛けて、諭一は根岸に語る。


「霊感持ちでビジュ最強の不思議系美少年、合コンに連れてったらめっちゃ盛り上がらね? って」

「は……?」


 根岸は我知らず、怪訝な表情を浮かべていた。


「諭一の誘い文句は正直よく意味が分からなかったんだが、酒の飲める機会だと言うから、その合コンについて行った」


 と、ミケが根岸を挟んで反対側の座席から説明を添える。


「いやーミケくんのお陰で盛り上がったは盛り上がったんだけど、結局コクってきた女の子振っちゃったんだって? もったいないなー可愛かったじゃん」

「なんせ忙しい身でね」

「でも結構、遊びに誘うと付き合ってくれんだよね。ぼくもその合コンで出来た彼女にはソッコーで振られて、後には飲み仲間のミケくんだけが残りました、っていう顛末」

「……何も話としてまとまってないような?」


 授業開始前なので、根岸はこそこそと囁き返す。


 この馴れ初め話で判明したのは、諭一・アンダーソンという青年が、迂闊で懲りない性格で押しが強いという事だけだ。そしてミケは、割り合い誰に対しても世話焼きである。


 今現在、諭一に憑いているらしい怪異は放っておいて良いのだろうかと、根岸はミケの顔を横目に見遣った。彼は呑気に鞄からペンケースを取り出している。

 「それほど危なっかしくない」と彼が判断したからには、急を要する事態ではないのかもしれないが。


「皆さん、明けましておめでとうございます……」


 講義室の前方から、全くめでたくなさそうな鬱々とした挨拶の声が上がり、根岸は急いでそちらに向き直った。


 階段状に並ぶ座席の列を下った先、教壇に立っているのは、ひょろりとしたスーツ姿の男である。

 年齢は三十代か四十代か。くしゃくしゃの髪に半ば隠れた顔色が幽霊と見紛う程に青白い。


「文化人類学者? あの人が?」

「ああ。准教授の遠藤先生」


 これから始まる授業は『文化人類学概論』だとミケが言っていた。


 文化人類学といえば、文化・社会の観察によって人類を研究する学問であり、フィールドワークが欠かせない。研究対象にもよるが、時には発展途上国に長期滞在し伝統的な生活を送る人々と触れ合う事もある。

 彼が途上国でたくましくキャンプを設営している様は、どうにも想像しづらかった。


 いささか失礼な根岸の疑念をよそに、遠藤准教授は淡々と授業を開始する。


「あの、はい、今日は新年最初の授業という事でね……。年末にお話しした我が国の無形特殊文化財についての続きなんですけども。特別なゲストをお招きしましたので、実演して頂きましょう」


 ――無形特殊文化財。


 その単語に根岸は好奇心を刺激された。同時に、ミケがこの授業に彼を誘った理由が分かった。


 無形文化財とは、文化的価値の高い音楽や演劇、技能などの事を指す。無形特殊文化財はそれらのうち、怪異との関わりが強いと陰陽庁に認定された技術だ。


 かつて怪異対策の技術は、地域の神事や祭事と密接に結びついていた。

 陰陽庁職員や市井の拝み屋の中には、今でも伝統的な手法で怪異と対峙する者もいる。


 特殊文化財センターはあくまで有形の文化財を取り扱う機関なので、根岸は無形特殊文化財に詳しくはないのだが、興味深くはある。


「それではお願いします。『虫喚むしよび』の専門家……唐須芹子とうすせりこさんです」


 講義室前方のドアを遠藤が開けると、その向こうに待機していた人物が室内へと入ってきた。

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