第7話 父祖の声は峰の果てに (1)

 毎朝、目を醒まして身を起こす。身支度を整える。朝食を摂る。


 『幽霊』と呼ばれる怪異の一種に成り果ててしまった根岸秋太郎ねぎししゅうたろうが、それだけの日常を取り戻すのに、実に一ヶ月あまりを要した。


 まず、眠りに就くと度々たびたび日にちが飛ぶ。

 根岸は元々『木曜日に出現する怪異』だったものだから、油断すると木曜日まで肉体と意識が掻き消えてしまうらしい。


 更に、新調したシャツに勝手に血が滲む。

 確かに彼の身体には、生前致命傷となった胸と手首の傷痕が生々しく残っているが、触ってもぬぐっても傷は乾いているのだ。

 にもかかわらず、ふと気づくとシャツがたった今大量出血したような有り様になっている。これには困惑した。


 幽霊の肉体は死に際の思念によって形造られている、曖昧な存在だ。だから死の瞬間の強烈なイメージに、状態が引っ張られがちなのだという。


 それでも一ヶ月間規則正しい生活を送って、何とか根岸は『今現在の自分』を常に認識出来るようになりつつある。


 ただ今朝は久しぶりに、胸元に微かな血痕が浮き出てしまった。


「胸に傷痕って北斗の拳みてーだな」


 と、天狗てんぐ志津丸しづまるにからかわれたが、笑い事ではない。


 それにしても、何故山暮らしの天狗が人間社会の少年漫画を知っているのだろうか。


 根岸がそんな疑問を口にすると、朝食の玉子焼きを作っていた猫又のミケは、台所から事もなげに答えた。


「俺も志津丸も、一応人間社会に出入りしてるからな。多少はそういうのに詳しくなる。志津丸は天狗修行の一環でバイトしてるし、俺は大学通ってるし」


 そういえば、ミケは学生なのだった。


 初めてそう明かされた時には驚いた。確かに彼の外見は十七、八歳の少年のようだが、内面は根岸より遥かに老成している。

 人間の学校など退屈ではないのかと首を捻ったものだが、「いや寧ろ学問というやつは不可思議で楽しい」とミケは語る。


 ちなみにここ十日余りは冬休みだったようで、日常の感覚を取り戻すために奮闘する根岸を、何くれとなく助けてくれた。


 それはさておき、根岸にとって意外だったのは志津丸の話である。


「へえ、天狗修行でアルバイト……」

「あンだよ」


 単純に感心したつもりだったのだが、志津丸はじろりとこちらを睨んだ。相変わらず、彼には良く思われていないらしい。


 志津丸はこの音戸邸の住人という訳ではない。ただミケとは長い付き合いだそうで、時々届け物をしに来たり、単にミケの手料理を食べに来たりする。

 昨夜も何かの用で屋敷に泊まったらしく、今は勝手知ったる素振りで、食器棚から湯呑みを取り出したところだった。


「根岸こそオメー、どう暮らしてくんだよこれから」


 と、志津丸は人数分の湯呑みをテーブルに置いて問い質す。

 もしかして、気に入らないながらも心配されているのだろうか、と頭の隅で考えつつ、根岸は答えた。


「はい。大分、感覚を人間に合わせられるようになったので……前の職場に復帰しようと思ってまして」



   ◇



 公益財団法人東京都特殊文化財センター、略称をトクブン。根岸が新卒で入職し、一年少々で殉職してしまった勤め先だ。


 根岸の死は勤務中の事だった。だから同僚や上司に辛い記憶を思い起こさせないためにも会うのは止めておこうと、以前固く決意した手前、あっさり顔を出すというのも格好のつかない話ではある。


 だが当面、彼の幽霊としての人生は終わる見込みがない。


 ミケによれば、生前の『人間的な』生活を続ける事は、幽霊が人間社会で暮らす上で重要らしい。

 大体、暇に任せて暗闇で人を脅かしたりしていると、すぐ陰陽庁おんようちょうがすっ飛んできて悪霊として退治されてしまう。


 そこで今後の生活のために、とりあえずミケを通してトクブンの所長、上田衛うえだまもるに連絡を取ってみた。


 根岸の知る限り、上田所長は豪放磊落ごうほうらいらくと呼ぶに相応しい人物である。


 元は地方の埋蔵文化財センター、つまり通常の考古学遺跡・遺物を取り扱う施設に勤めていた。学者肌というよりは現場肌寄りで、フィールドワークを何より好む。

 調査中の遺跡に偶然出現した凶悪な怪異を、「遺構を荒らすな」と怒鳴りつけて素手で張り倒し、それが切っ掛けとなって半ばスカウトされる形でトクブンに転職したとかいう、嘘か本当か分からない逸話を持つ。


 武勇伝の真偽はどうあれ、この肝の据わった上司は、驚きはしたもののミケからの説明を受け入れ、


「一度会おう」


 と言ってくれた。最初は上田が音戸邸に出向くつもりだったようだが、根岸は職場まで自力で行ってみたかったので、協力して欲しいと頼み込んだ。


 というのも根岸はどういう訳か、公共交通機関に上手く乗れなくなっていたのだ。

 確かにバスに乗車したはずなのに、気づけば路上に置いていかれている。

 これも恐らく幽霊ゆえの、認識の問題なのだろう。


 おまけに、徒歩だとやたら道に迷いやすくなっていた。人間の頃とは距離感覚や疲労感が変わってしまったせいかもしれない。


 どうにかバスと電車の座席にしがみつけるようになり、ミケから借りた折り畳みの携帯電話で上田の誘導を受けつつ、数日がかりで多摩たま市にある特殊文化財センターまで辿り着いた。既に業務時間外になっていた。


「根岸、元気そうで――いや、幽霊なんだったか――とにかくまた会えて良かった」


 疲労困憊しながらもセンターの職員用扉を開けると、出迎えた上田に以前と全く変わらない調子で肩を叩かれ、根岸はほっとした。気を緩めると意識が木曜日まで飛びそうなので、必死で耐えたが。


 上田の方も相変わらず、見るからに壮健だった。

 白髪の混ざる髪をごく短く整えていて、それほど上背はないが、日焼けしてがっしりした身体つき。いかにも発掘現場あたりで重宝されそうだ。


「君が通勤に四苦八苦してる間に、こっちも怪異の雇用の前例を調べてたんだ。で、ちょっとこの扱いは酷だと思うが……法的には、怪異の従業員は『備品』扱いになるらしい」

「備品ですか」


 怪異の雇用の前例があったのかと、そちらに寧ろ根岸は驚いた。


「ウチの職場の話じゃないが、世間には何例かあった。猫の社員なんてのがたまにニュースになってるだろ。ああいうのと似た扱いになるんだな。何しろ人としての戸籍はないし、社会保険加入だとかが難しい」

「なるほど」


 猫の勤め人ならよく知っている。というより、現状根岸は猫の世話になりっぱなしである。


「前例があるなら、もう少し法整備されても良さそうなもんだが」


 上田は社会的義憤に駆られているが、根岸は不思議なくらいすんなりと、その話を受け入れた。


 法整備するにしても、根岸はその場に参加しようがない。選挙権を喪失している。

 外国にホームステイして、「郷に入っては郷に従え」と言われているような気分だ。


「それで、どうだ。ウチに戻ってくれる気はあるのか? 根岸」

「はっ? はい。それはもう」


 あまりにもあっけらかんと問われ、逆に根岸は戸惑った。殉職者を元の職に戻してくれなどと、どう頭を下げて願い出たものか悩んでいたというのに。


「そいつはありがたい。すぐに以前の業務や勤務形態に戻るのは難しいかもしれないが、給与の事も含めて話を詰めよう」


 厳めしい顔を綻ばせてデスクに戻り、規定やら規則やらをまとめたファイルを取り出す上田の後を、慌てて根岸は追う。


「あの、所長。他の人は大丈夫なんですか? 幽霊が職場にいても。特に滝沢主任――」


 事件の日に根岸と共にいた上司、滝沢みなみにしてみれば、ほんの数ヶ月前に目の前で死なれた人間と顔を合わせなくてはならないのだ。

 しかも、根岸にはたまにうっかり血まみれになる癖が残っている。


 何より、あの時は滝沢も怪我を負った。軽傷で済んだとはいうが、怪異に襲われ鎌で斬りつけられるなど、尋常の経験ではない。

 PTSDと呼ぶのだったか。強い精神的ショックによる心身への影響。そうした所への配慮が必要そうだ。


「ああ、滝沢はな。俺も慎重に対応した方がいいとは思ったんだ。しかしちらっと話をしたら、今日どうしても会いたいと言って」

「え?」

「外せない仕事があって今日はずっと外出してたんだが、戻れるのか……」


 上田がそこまで言いかけた途端、扉の開閉する音がして、誰かがばたばたと事務所内に入ってきた。


「所長、遅くなりましたっ――根岸くん!」


 声に振り向いた根岸と、入口に立ち尽くす滝沢の視線がかち合う。


「……先輩」


 予期しない形での、覚悟も何も決まっていない再会である。

 根岸はどんな表情を浮かべるべきかも分からず、彼女に呼びかけたきり二の句も継げなくなった。


 そんな根岸の方へ、滝沢は真っ直ぐ歩みを進めてくる。

 どこかの現場に出ていたのか、彼女は作業着姿で後ろ髪を括っていた。土埃の付いた軍手がポケットに突っ込まれたままである。


「所長、根岸くんは雇用契約書に署名しました?」


 根岸の目の前まで来て、滝沢は唐突に、上田の方を向いてたずねた。氾濫しそうな感情を懸命に抑えたような、気迫を伴う声色だ。


「いいや、詳しい話や書類関係は全部これから」


 上田すら気圧されした風に即答する。

 そうですか、と滝沢は応じ、瞬き分ばかり唇を噛む。そして口を開いた。


「じゃあ……今だけは、上司部下じゃなく赤の他人同士って事にしてくれる?」


 言葉の意味を根岸が問い返そうとした時、滝沢がもう一歩近づき、根岸は彼女に抱きしめられた。


「ごめんね――」

「たきっ……」


 狼狽うろたえて今一度名を呼ぼうとした根岸は、顔を伏せた彼女の肩が震えているのに気づき、押し黙る。

 何も言えないまま、彼はその肩に手を添えた。


 ――この世に思念をのこし化けて出るくらいには、彼女の事をおもっていたはずだった。


 だが、根岸は既に怪異だ。これ以上はどうにも出来ない。


 歴史上、怪異と恋に落ち結ばれた人間の事例はいくつかあったと、以前何かの記事で読んだ。しかし大体の関係は、最終的に破綻している。


 怪異は家族も持たなければ子孫も遺さない。吸血や感染によって眷族けんぞくやすタイプの怪異はいるし、同族同士で群れる種もいるにはいるが、人間の考える家庭やコミュニティとは様相が異なる。


 ――


 根岸が滝沢にかけられる言葉は、やはりそれだけしか残っていなかった。滝沢もまた同じだろう。


「あっ……私、作業着のままだわ」


 不意に滝沢がそう呟いて、根岸から身を離す。その表情は、既にさっぱりとしたものだった。


「これはほんと、重ねてごめん」

「いえ……先輩現場帰りですよね。お疲れ様です」


 ようやくいつもの調子で、根岸は声を発する。


「ええ。――所長、大変お見苦しい所を、失礼しました」

「うん……ああ……」


 深々と頭を下げる滝沢を前に、上田は所在なさそうに両手もろてを挙げた。


 そんな風にして、根岸の復職にとって最大の難関だった再会は、平穏に終わった。


 同時に根岸はつくづくと思い知った。自分は『人間らしく』生きようとしているだけの『人間ではない別種の何者か』に、既に成っているのだと。



   ◇



 「……根岸さん?」


 ぼんやりと物思いに耽っていた根岸は、ミケの声に我に返って、「うわはいっ!?」と珍妙な応答をした。


「朝飯出来たよ」

「ああっ、どうも」


 慌てて配膳を手伝いに台所へ向かう。青菜のおひたしと卵焼きと焼き鮭が並べられている。


 生前の生活を続けるのは大事だとミケには言われたが、食生活に関しては寧ろ生前より、大分品質向上したような気がする。


 以前の根岸は単身用アパート暮らしで、一応ある程度自炊はしていたものの、凝った料理の心得はなかった。朝はトースト、夜は肉野菜炒め、そんな具合だ。


 電車に乗れるようになった時、多摩市内にあるかつての住居にも行ってみたが、根岸の住んでいた部屋では既に別の入居者が暮らしている様子だった。


 無論、空き部屋だったとしても勝手に居着く訳にはいかないだろう。

 そうしている怪異は多いと聞くが、根岸はまだ人間と揉めたくない。

 しばらくは、音戸邸の世話になる他なさそうだ。


「そんで根岸さん、トクブンへの復帰はいつになるんだい?」


 食卓に着いたところで、ミケが根岸に訊いた。


「一月の後半からって話になってます。それまでに、時間通りに指定の場所へ行けるようになっとかないと」


 確実に乗り物に乗れるようになったかというと、まだ怪しい。


「へぇ、もうじきだな。そういや、一度実家には帰らんのかね? 年末年始は、まだ現れたり消えたりと忙しくて無理だったろ」

「実は……上田所長にもそう言われまして。何なら自分のポケットマネーで切符代を出すとまで言って貰えたんですけど……」


 根岸は顎に手を当てて思い悩む。

 上田は根岸の通夜に参列している。相当に居たたまれない思いを抱えた事だろう。彼の好意はありがたいし、根岸も家族の顔が見たいのは山々だ。


 しかし正直言って、事態が重すぎる。


 両親はもう若くない。トクブン職員のように怪異に慣れてもいない。

 葬式まで済ませた長男がひょっこり帰ってきたり、電話を寄越したりして、ショックのあまり心臓に不具合でも生じたら大ごとである。


「……やっぱりもう少し間を置いてから」

「あ? うざってー奴だな。めでてぇ話なんだから、正月にでもパッパと帰ってくりゃ良かったじゃねえか」


 何故だか苛立った風に志津丸が言う。

 正月に幽霊が化けて出るというのは、果たしてめでたい現象だろうか、などと根岸が首を傾げていると、横合いから「志津丸」とミケがたしなめた。


「お前さんこそ早く家に帰んな。『人狼ゲームを楽しむ人狼の会西東京支部』の新年会で飲み過ぎて翼で飛べなくなって、深夜にうちの庭に落ちたなんてお師匠に知られたら、また叱られるぞ」

「あ、それで泊まってたんですね」

「ミケてめー、こいつの前で言うなよ!」


 赤面しながらも急いで白飯を掻き込む志津丸である。


「ま、出現した土地から離れるだけでも怪異は一苦労だったりするもんだ。根岸さんも焦って無理するこたぁないと思うが……そうだな、時間があるなら」


 ミケは何事か思案する面持ちで湯呑みを傾け、続く言葉を紡いだ。


「軽く人の多い場所に行ってみるってのはどうだい。良い訓練になるだろ」

「人の多い場所というと?」

「例えば、うちの学校」


 道案内するよ、とミケは笑ってみせた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る