第5話 真夏の夢、君がため (5)

 声か、それとも風切音か。

 ヒィィッ、と鋭く耳をつんざく怪音と共に、鎌の刃が振り抜かれる――

 

 ――かに見えた。が、刃は軌道の半ばでぴたりと止まった。

 止めたのはミケの片手だ。


 素手で刃を、と根岸は目を瞠る。

 手の平や拳で受け止めた訳ではない。ミケの両手指からは、長い爪が伸びていた。指とほぼ同程度の長さで、鉄製の鎌との鍔迫つばせり合いを披露しながら、まるで欠ける様子がない。


「言葉を使ってた名残だけはあるが、会話は成立しない」


 高硬度の物質同士がぶつかり合い、空気を震わせる中、ミケは憂鬱な声音でぼやく。


「こういうのとやり合うのは後味わりぃや」


 火花を伴う迫り合いにはミケが押し勝った。

 鎌を払われた女はたたらを踏んで後方に退く。


 そこに間髪入れず大きく踏み込み、ミケは目にも止まらない速さで蹴りを放った。

 先刻、志津丸にも食らわせた回し蹴りだ。今度の一撃もまた相手の首筋を捉えたが、志津丸の時とは異なり、女の首からは鋭利な刃物で貫かれたかのように鮮血が噴き出た。


 自在に伸ばせる爪は両手のみならず、両足にも生え揃っているらしい。猫科の肉食動物はしばしば、捕らえた獲物に後ろ足で攻撃を加える。

 ちなみにミケの履物は庭用の下駄で、指先が開いているので無事である。靴下はもう駄目だろう。


「ぎぃいいいああああっ」


 頸動脈を切断された怪異の口から、人間離れした苦悶の声が上がる。


「ゆるさ、ないィッ、ユルサァァナァ、イイイイイッ」


 人にとっては致命傷になり得る深手を負いながら、女はなおも怒りを露わに唸り、髪を振り乱して身構えた。


 怪異の肉体に通常の生物の法則は当てはまらない。出血多量程度ではそうそう死に至らないと言われている。


 しかし怪異を消滅させる事は可能だ。『これ以上一個体として存在していられない』と怪異自身に確信させれば、その生命は霧散する。


 最も単純な方法として、これは即死だと思い込むに十分なレベルまで肉体を損壊する、というものがある。


 他に、生前の思念によって生き続けている幽霊であれば、無念を晴らしたり目的を成就させたりすると、満足して消滅するケースも多い。

 いわゆる『成仏』と呼ばれる事象だ。


 ただ今回の相手は目的も何も分からないので、後者の手段を取るのは難しいだろう。


「ィアアアアアッ!」


 相手の死角へと回り込もうとするミケに追い縋り、彼女は庭の中央に躍り出る。

 全力疾走には不向きなデザインのパンプスを片方だけ履いている状態なのだが、その脚力は凄まじかった。


 ミケの頭上に鎌が振りかざされる。


 瞬間、彼の姿はふっと消え去った。

 代わって細い煙と共に現れたのは三毛猫である。猫の姿を取ったミケは怪異の足元を素早く駆け抜け、庭の古木の枝上まで一息に飛び乗った。


 苛立つように怪異が唸り、再び鎌の刃が閃く。庭木の枝が一振り、すっぱりと切落とされて芝生に転がる。


「ミケさん――!」


 目で追うのもやっとな凄まじい攻防に、思わず根岸は縁側から身を乗り出した。

 ミケは段々と邸宅から引き離されている。このままでは逃げ場がなくなるのではないか。


「やめとけって。庭に降りたら巻き込まれるぞ」


 背後からの声に振り向くと、志津丸がすぐ傍に立っていた。


「あのっ、この家に電話ありますか」


 根岸は勢い込んで志津丸を質す。


「すぐ陰陽庁に通報しないと」

「陰陽庁? あいつら嫌いだよ。下手するとオレらまで逮捕パクるじゃねえか」


 と、志津丸は至って素っ気なく答え、傍観を決め込む姿勢を取った。


「でもこのままじゃ!」

「心配すんな。ミケの奴なら、今丁度いい広い場所を選んでるだけだ」


 ミケから視線は外さず、志津丸は小鼻に皺を寄せる。


姿になるのは嫌いだっつってた癖によ。ひと思いにカタつけてやりてえのか……行きずりの幽霊にあんま同情すんなよなぁ」

「あの姿?」


 根岸が重ねてたずねた、その時。


 木から木へと飛び回っていたミケが、再度人の姿に化けて地面に降り立った。

 一歩後ろは小さな池で、畔に角ばった庭石が敷き詰められている。


 殺気だった怪異が彼に迫る。ミケは迎撃の構えも取らず無防備に突っ立ち、成すすべもないように見えた。


 しかし次の瞬間――火の手でも上がったかのような熱風が、ミケの周囲で巻き起こった。


 怪異が動きを止め、根岸も慄然と身を竦ませる。

 熱風はやがて火の粉をまとい始めた。ミケが両眼を静かに閉ざし、また見開く。その瞳は舞い散る火の粉と同じく、くれないを孕んだ金色の光を湛えていた。


 火の粉の群れは火柱に近い渦となって逆巻き、煌々こうこうと輝く。

 それに包まれたミケの姿が僅かな間、完全に覆い隠された。


 そして、熱気に伏せた瞼を根岸がどうにか持ち上げた時、ミケの立っていたはずの池の畔には、一体の獣が陣取っていた。


 全体の姿形は猫に近い。それも三毛猫だ。毛色の配置はミケとよく似ている。

 ただし、顔のハチワレ模様の左半分と、後頭部から背にかけて、それに根元から二股に分かれた尾の先端は、赤々とした炎に包まれていた。丁度黒毛に当たる部分だけが、局所的に燃え上がったかのようだ。


 特筆すべきはその大きさで、恐らく虎やライオンよりももう一回りはある。体長だけでも四メートル近く、二本の尾の先端まで入れればもっとだろう。

 その巨躯が高熱を発して燃え盛っているのだから、成る程、彼が位置取りに気を使った理由は理解出来た。


 獣が、咆哮を上げた。


 猫の声とは全く違う。

 人が、それも老若男女入り混じった何百もの人間が泣き叫び、怒号を上げているかのようだった。そこに更に、異質な音程も重なる。

 高々と響き渡り周囲にこだまするこれは、サイレンの音だろうか?


 突然根岸の脳裏に、自身の記憶には存在しない映像が浮かんだ。


 炎に照らされ朱に染まる街並み。


 電柱が、木造の家屋が次々と焼け落ち、人々が悲鳴を上げて逃げ惑う。

 風呂敷包みを背負った老婆が火だるまになって道端に倒れ、リヤカーを引く煤まみれの少年が半狂乱で叫ぶ。

 煙で霞んだ夜空の彼方に、航空機と思われる小さな黒い影が見える。


 ――ミケの記憶が流れ込んでいるのか。


 巨大な怪物をこの世にとどめる思念の塊。

 一体彼は何者なのか?

 いや分かってはいる。猫又であり使い魔だ。

 何らかの形で膨大な人々の怨嗟の念を呑み込み、それを抑えて、人の街の片隅で平穏に、あるじに仕えて生きている。そして、この獣を従える魔女がいる。


 ……怪異は、やはり恐ろしい。底知れない種族だ。根岸もまた、今やそちら側に行ってしまったのだが。


「うぅ――」


 鎌を携えた女が唸る。

 理性のほとんどを失ったとしても、いやだからこそだろうか。目の前の獣が立ち向かうには危険な怪異だという事は、感覚で理解出来る様子だった。


 だが、何者かに引きずられるかのような彼女の敵愾心は、一瞬の怯えにまさった。


「うっ……ぁあああああッ!」


 二振りの鎌が、半ば投げつけるように振るわれる。


 迫る刃を前に、獣は突如跳躍した。

 予備動作らしいものもなく、ただ一跳びで女の頭上を越えると、彼女の背後でぐるりと身をよじり、容赦なく牙を剥き出して首裏へと噛みついた。


「ぎゃッ!!」


 直後、女の身体が燃え上がる。

 身じろきする程の猶予もない。血まみれのコートも長い黒髪も、瞬く間にオレンジ色の炎が包み込んでしまった。


「ア――アアァ――!」


 断末魔はごく短かった。


 連続殺傷事件を引き起こし、警視庁と陰陽庁を総動員させた怪異は、あまりにも呆気なくその身を焼き尽くされた。


 多くの怪異は遺骸を残さない。彼女も例外ではなく、炎の鎮まった後には、灰すら散らなかった。


 火を纏う巨大な猫は、しばしその場で虚空を睨んで佇む。どこか、自分が消滅させた怪異を悼むかのような眼差しである。


 そして彼は前脚を揃えて身を縮め、一度背中から火の粉を噴き上げたかと思うと、音もなく人間の少年の姿へと戻った。


「……ふう。やっぱり嫌なもんだ、同族を喰い散らすみたいな真似は」


 小さく呟いて、ミケは下駄を引きずり気味にこちらへ歩いて来る。


 根岸は緊張の糸が切れた思いで、その場で脱力しきって庭を眺めていた。

 巨大な熱と炎の塊が暴れ回った後のはずだが、庭の草木は別段焦げたり、煙を吹いたりはしていない。


 ただ、ふと違和感を覚えた。


 ミケの後方の草むらに、根岸は視線を送る。

 何かがうごめいたような気配。……鈍い金属の色。


 鎌だ。鎌を握った、ミケの足元、すぐ後ろへと這い寄っている。


「ミケさんっ!」


 声を限りに根岸は叫んだ。同時に、何も考えられないまま庭へと飛び出す。

 志津丸の制止の声が聞こえた気がしたが、足は止まらない。


 ――もう二度と、あんな思いは。何も出来ない事を悔やみながら遠のいていく意識、それを再び、こんな歪んだ形でも掴み取ったからには。


 手探りでスペル・トークンをポケットから取り出し、無我夢中で方術発動ボタンを押す。ディスプレイにコードが表示される。スマートフォンと違ってこちらは壊れていない。


「“略式方術、ヒトマルナナ”

 “現況裁定開始”

 “固着”

 “以降認識混在を拒絶”

 ――“未掟時界アンコンヴィクテド、発動”!」


 高い金属音にも似た、結界術の発動音。次いで、あらゆる物質の運動が停止し凍てついたかのような重く冷えきった感覚。


 ミケと擦れ違う格好で彼の背を庇った根岸がトークンを掲げるのと、焼け焦げた手指が渾身の力を篭めて鎌を投げつけるのと、ほぼ同時の事だった。


 怪異の災厄を無効化する結界、『未掟時界アンコンヴィクテド』を張り巡らした根岸のほんの鼻先で、空中の鎌がぴたりと静止し、落下する。


 振り向いたミケはごく短い間、呆気に取られた表情で根岸と地面に落ちた鎌を見比べたが、すぐに苦笑を浮かべて彼の肩を叩いた。


「なんともまあ。逆に借りが増えたちまったな根岸さん。――解いていいぞ」


 結界が解除される。

 そこから一秒足らずのうちである。ミケが地面に落ちた鎌を拾い、伸ばした爪で未だうごめく手首をばらばらに切り裂き、更に庭の奥まで跳ね飛んで、そこに落ちていたもう一振りの鎌を手に取ったのは。


「こっちが元凶、って事かね?」


 錆びつき、血に汚れた鎌を二本指で摘まんで、ミケは軽く匂いを嗅いだ。

 すぐに嫌そうな顔で口を開けたのは、フレーメン反応だろうか。


「うん、妙な異臭がする……これは陰陽庁と、トクブンさんにも連絡だな」

「ええーっ、結局陰陽庁呼ぶのかよ」


 庭に降りてきた志津丸が不平を述べた。それから彼は、根岸の方をじろりと見遣る。


「つうかこいつ、何なんだよッ。今、結界張ったよな? 人間の使うあの……ポークンとかいう……」

「トークンだ。スペル・トークン」

「それだ。あれ、幽霊が使いこなせるモンなのか? 幽霊だって怪異だろ?」


 怪異が怪異避けの結界術って、と志津丸は言い募り、頭の中がこんがらがってきたのか、自分の金髪を乱暴に引っ掻き回す。


「確かに、あまり聞かん話だな」


 ミケもまた、興味深そうに根岸を見つめた。その瞳のふちが金色がかった怪しい光を帯び、根岸はたじろぐ。


「特別な力を持つ怪異ってのは、そりゃ多いがね。あんた、生まれて三ヶ月で余程強力な幽霊になっちまったのか……」

「いえ、そんな。まさか」


 胸ポケットにトークンを仕舞い、根岸は慌てて手を振った。


 生前の根岸秋太郎は、少々特殊な業界で就労しているだけの、平凡の域を出ない人間だったはずだ。それが幽霊になったからと言って、急に特別な存在になるとも思えない。


 しかし平凡な人間の身の内にも、時として強い思いは宿るものだ。一生に一度きり、死んでも死にきれないような悔いや気懸かりが。


 それが奇跡とも呼ぶべき力を呼び起こし、結界術を発動させた。……つまり、幽霊となって化けて出た根岸の無念は、既にすっかり晴らされたのだろう。


「多分、これで僕は……『成仏』出来るんでしょうね」

「だろうな」


 軽い調子でミケは請け合い、やや気遣わしげに首を傾げた。


「これからトクブンを――あんたの元同僚を呼ぶが。会ってくかい?」


 根岸は回答に迷う。

 滝沢や他の同僚達に、最後の挨拶をするべきだろうか。なかなかない機会だ、当人が死んだ後で言葉を交わせるというのは。

 だが、辛い思いもさせるだろう。

 特に滝沢は、目の前で部下に死なれたのだ。その事実に何の痛痒つうようも感じない人ではなかった。


「……いいえ」


 結局根岸は首を横に振り、いくらかの沈黙を置いて、


「でも、一つお願いが」


 と続けた。

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