第4話 真夏の夢、君がため (4)

 蘇った自分自身の記憶に、根岸はただ呆然と佇む他なかった。

 眩暈めまいを覚える程に混乱してはいるのだが、一方でぼんやりしていた視界も頭の中も、霧の晴れるように鮮明となっていくのが分かる。


 何故気づかなかったのか――今自分が握りしめているスマートフォンは、ほぼ真っ二つに割れ、しかも血に汚れている。通話など出来る訳がない。

 見下ろせば、シャツの胸元と手首も切り裂かれて真っ赤に染まっていた。


 ふっと首元に冷たい風を感じて、根岸は外を見た。


 青々とした夏の庭、その向こうの木立……たった今までそう視認していたはずの景色は、がらりと様相を変えている。

 庭の隅では紅葉が美しく染まり、多くの木々は落葉を済ませて、剥き出しの枝を木枯らしに揺らしていた。


「僕は……いっ、今は」


 声を限りに叫びたいのを辛うじて堪え、ようやくそれだけ、根岸は言葉を絞り出す。


「今は、一体…………?」

「十一月の末だよ、根岸さん。あんたが死んでから三ヶ月経った」


 端的な答えが返ってきて、根岸は声の元に首を向けた。

 ミケがひょいと上体を起こしたところだった。口と顔回りの血を猫らしい仕草でぬぐって、「ああいてぇ」とぼやいた彼は、自分の後ろに突っ立つ天狗の青年を振り仰ぐ。


「どうやら思い出せたらしい。芝居はお開きだ。嫌な役回りさせて悪かったな、志津丸」

「っとにマジでそーだよ。何させてくれんだ、一個貸しだぜ」


 志津丸は薙刀を縁側に寝かせて据え置き、肩の力の抜けた様子で大きく息をついた。


 ミケは軽く目を眇め、そんな志津丸と庭の有り様を見比べる。


「ただ、芝生を無茶苦茶にするってのは聞いてないぞ。後で直すの手伝えよ。部屋の掃除も」

「アドリブ任せるっつったのはミケだろ!?」

「だからって事後処理を無闇に増やすな。――これちょっと台所の流しに持ってっといて」

「何だこりゃ」

「俺の腸」

「なんてもん渡してんだ!」

「その辺に放っといても不衛生だろうが。もう傷が塞がりかけてて戻らんのだよ」


 言い合いの後、志津丸は不貞腐れた顔で応接間を出て行った。

 片手にどろりとした何かを持っていたようだが、根岸はまじまじ見たいと思えず、あえて目を逸らす。

 それから彼は改めて、胡坐あぐらをかくミケの前に膝を進めた。


「ミケさん――貴方は――芝居って」


 湧き上がるまま、譫言うわごと染みた問いかけを吐き出す。


「さ、さっきの怪我……嘘だったんですか!?」

「いや、腹さばかれたのは本当だ。普通なら怪異でも無事じゃ済まん傷だろうが」


 そう言って、ミケはセーターをたくし上げる。

 彼の脇腹には鋭い創傷が走り、出血の痕跡もあったが、それは的確な治療が施されて何日も経ったかのような状態で、先程ミケ自身の言ったとおり、傷口は既に塞がりかけていた。


「俺は『半不死』だ。死ぬも生きるも御主人次第。……トクブンの人には伝えてなかったっけか」


 人間の前ではあまり死なないようにしてるもんな、と独り言めかしてミケは続けた。


「人間……」


 ミケの出した単語に、根岸はびくりと反応する。

 無意識に、彼は眼鏡をずり上げていた。


 そういえば、怪異に刺されて倒れた時、眼鏡を落としたように思うが、これは割れなかったらしい。少しレンズに傷がついただろうか。


 とにかく、根岸は最も重大な疑問を口にした。


「あの、僕は……まだ人間なんですか……?」

「いいや」


 質問に対し、少しばかり心苦しそうに、しかし躊躇も斟酌もなく、ミケは首を横に振った。


「あんたは、根岸秋太郎という人間じゃない。彼の命は消えた。遺体はとっくに火葬にされてる。今ここにいるのは、根岸秋太郎が死の直前にのこした強い思念から新たに生まれた、別の生命体。いわゆる『幽霊』と呼ばれる怪異だ」


 ――幽霊。


 予想出来ていた回答ではあったが、それでもどうしようもない虚脱感にうちのめされて、根岸は返事も出来ずに自分の横髪をぐしゃりと掴む。


「根岸さんが亡くなった次の週、あんたは現れた」


 淡々と、ミケは説明を続けた。


「以来毎週木曜日にうちを訪ねちゃあ、打ち合わせの仕事をして、『滝沢にも申し伝えます』と告げて消える。先輩の事が余程気にかかってたんだな。幽霊の死の瞬間の記憶は、ショックから混濁しがちだが、あんたの場合は半端に現実を捻じ曲げた記憶にすり替わってた。『滝沢さんは怪異に襲われたが無事で、怪我のために自分が仕事の担当を交代した』と」


 一つ溜息を挟んで、ミケは玄関の方角に視線を飛ばす。


「こっちとしては、茶飲み友達が増えたと思ってそのままでも良かったんだが、何だか忍びなくてね。それに、うちの玄関先で人死にを出したのは、家令である俺のだ。だから、まあ……荒療治を承知で、根っこの所から解決する事にした」


 そう言いつつミケは、セーターの上から脇腹を撫でて顔をしかめる。


「『荒療治』ってのは、施す側にとって荒っぽいやり方って意味じゃなかった気がするが」


 半不死の怪異といえども、傷つけられれば痛いらしい。


 彼に倣って根岸は、再び自分の身体を見下ろし、恐る恐る胸元に触れた。

 シャツの破れ目。そこの肌に深い亀裂が走っているのが分かる。皮膚感覚もある。しかし痛みは感じない。出血の直後のように生々しく見えるが、乾いた感触しかしない。


 こんな大怪我の痛みが延々続いていたら頭の方がどうにかなりそうなので、ありがたいといえばありがたい仕様だが、不気味でもあった。


 一方で、体感気温の方は正常に戻ったようだ。

 先程まで確かに現実のものと感じていた真夏の蒸し暑さはぬぐい去られ、開け放した窓から吹き込む風が肌寒い。

 今の今まで、一部怪異の季節感覚のなさや場違いぶりをちょっとおかしく思っていたが、こういう事だったのか、と省みる根岸である。


 彼ら怪異は――自分は――死の事実を強制的に突きつけられない限りずっと、幻に包まれて暮らしているのだ。


 そこは現実と寸分違わない、しかし苦痛も恐怖も悔恨も忘れられる夢の中だった。


「そうだ……滝沢先輩は」


 滝沢が無事で自分も無傷。

 そんな都合のいい夢の中で『幽霊』の根岸は過ごしていた。

 その全てが嘘だったという事は、彼女は。


「無事なんですか?」

「無事だとも。怪我はしたがね。数日入院したが、もう職場に復帰してる」

「……怪我はしたんですね」

「軽傷で済んだのは、根岸さんが庇ったお陰だな」

「いいえ」


 と、根岸は俯く。

 スペル・トークンの発動さえ間に合っていれば、二人とも無事だったはずなのだ。

 死の間際の薄っすらとした記憶によれば、滝沢を助けてくれたのは――ミケだった。根岸は何も出来ていない。


「僕のせいで先輩は……」

「そう自分を責めなさんな。さっきも言っただろ。うちの玄関先で起きた人死には、俺の責だ」


 そんな、と言い募ろうとした時、不意にミケがその場で立ち上がった。

 くんくんと匂いを嗅ぐような仕草を見せ、鋭い眼光を外へと巡らせる。喉奥から、ごく低い獣の唸り声が漏れ出た。


「ミケさん?」

「来たな。もう一つの……が」


 音もなく庭へ足を向けつつ、ミケは言う。


「あの怪異だ」


 根岸は息を呑んだ。

 庭の端の生垣、その下から、鎌を握った青白い手首がぬっと現れたのだ。


 二つの手は砂利を掻きながら這いずり、やがてその間の地面にぞろりと長い黒髪が落ちる。

 顔の前後も分からない程に長く乱れた髪の奥から、耳まで裂けた口が微かに覗き、笑みの形に歪んだ。


 ――自分の命を奪った、あの怪異。


 恐らくだが、多摩地域無差別連続殺傷事件の犯人でもある。


「心配しなくても、家の中までは入って来れやせんよ。招き入れない限り」


 志津丸は最初から上がり込むのを許可されてた、とミケは付け加える。


「な……何なんですか、あれは?」

「正直、よく分からん。あんたと同じくただの幽霊の匂いしかしないが。異常に血を見たがってるのは確かだな」


 『ただの幽霊』とは妙な言い回しだが、幽霊がさほど危険な種族でない事は、怪異に関わる業界人にとって周知の事実である。


 幽霊の大半は、亡き人の思念ののこった場所に現れては消えるだけの、脆弱な存在に過ぎない。突然の出没やインパクトのある見た目のせいで事故を誘発したりはするものの、意図的に人間を死に追いやるケースは稀だ。


 ただ、超常の力を振るって不特定多数の人間を死傷させる幽霊を、特に『悪霊』『怨霊』と呼ぶ場合がある。

 東京でいうと、大手町や四谷には歴史に名を刻んだ大怨霊が祀られているが、特例中の特例だからこそ広く人々に恐れられたのだと言える。


「三ヶ月前に目ん玉えぐってやったから、それでしばらくは大人しくしてたが。しかし血を求める衝動に耐えられないのか、最近またこの近くに出没するようになった」


 ミケが語る間にも、怪異は砂利の上を這い寄ってくる。

 やがて彼女は、いびつな姿勢でその場に立ち上がった。

 壊れた人形のように首がかしいで、顔が露わになる。ミケに爪を立てられたらしい両眼の辺りには深い裂傷が走り、以前より更に凄惨な印象だった。


「が、近くをうろつく割に、警戒してるのかなかなか仕掛けてこない。だから誘い出す事にした。俺の血を撒き散らせば、結界越しにでも匂いに反応して、辛抱出来なくなると踏んだ」

「そのためもあって、さっきのお芝居……ですか」

「一石二鳥だろ? ……コスパ? タイパ? 何つうんだっけか、今時の若者は」


 普通の人間は、どんなパフォーマンスが得られようとも自分の腹に薙刀を刺させたりはしないのだが、この際それはもういい。


 今の問題は、この状況だ。

 連続事件の犯人があの怪異だとすれば、彼女の犯行によって死傷した人間は、根岸と滝沢を入れて五名――三ヶ月の間にもっと増えたかもしれない。

 そんな凶悪な怪異をわざわざ誘い出したとミケは言う。


 しかも彼は、郵便配達でも受け取りに出向くかのような調子で縁側からひょいと庭に降り立ち、二つの鎌を両手にぶら下げる怪異の方へ、平然と歩いていくのだ。


「悪霊化した幽霊……人としての形状が歪む程の憎悪……? なあ、あんたは一体何だってこんな事になってんだ」


 ミケが呼びかける。

 対する女は不気味に笑うばかりだったが、しばしの気まずい沈黙ののち、何を思ってか、口唇をぎこちなく動かした。


「あっ……、あ……たし、……きれい?」


 意味の通らない応答。

 そして直後、女が動いた。

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