第3話 真夏の夢、君がため (3)

 八月の終わりのあの日。木曜日のことだ。


 根岸秋太郎は、上司である滝沢みなみと連れ立って小金井の『音戸邸』を訪ねた。


 音戸邸の家主たるよわい五百の大物怪異、通称『もがりの魔女』は、このところ一年以上にわたって眠りに就きっぱなしだった。


 この屋敷は彼女の張る強力な結界によってあらゆる災害から守られてきたが、術者が長期間眠っていては流石に結界も弱る。

 そこでこの機会に、通常の文化遺産と同じ耐震補強工事を施してはどうかと、主人の代理として家を守る使い魔に打診したのだ。


 幸い、使い魔のミケからは快い返答があったので、長らく音戸邸を担当してきた滝沢共々、根岸もこのプロジェクトに関わる運びとなった。


「じきに、ここは根岸くんに任せる予定だから」


 音戸邸へ続く木立の道を歩きながら、滝沢は言う。


「家主さんは以前から日中眠ってる事が多くて、私もほとんど対面出来てないけど、使い魔のミケさんは凄くいい人よ。慣れればモフらせてくれるし」

「『もがりの魔女』ですか……そんなに長い間眠ってて、身体は大丈夫なんですかね?」

「さあ、でも何しろ五百年も生きてる怪異だから。今までにも年単位で眠りに就く事はあったらしいんだけど」


 怪異の体調については流石に管轄外だ、と滝沢は苦笑して、うなじに浮いた汗を軽くぬぐった。


「ミケさんが心配ないって言うからには、こっちとしても、自分達の職務の範囲でサポートをするしかないね」

「そういう事でしたら、はい」

「なに根岸くん、緊張してる? 大丈夫だって」

「いや、自分がというより……その、滝沢先輩が心配で」

「私が?」


 滝沢は目をしばたたかせて根岸を振り向く。

 元々小柄で童顔気味の彼女がそんな表情をすると、いよいよ可愛らしく見えた。

 暑さからかヘアクリップで一纏ひとまとめにされている、ほんのりとダークブラウンに染められた豊かな髪が、目鼻立ちのはっきりした顔に似つかわしく映える。


「例の、無差別事件の捜査で陰陽庁に協力するんでしょう。そんな物騒な仕事、大丈夫なんですか?」

「やだな、危ない事はしないよ」


 と、滝沢はまた眉尻を下げて笑った。


 多摩地域無差別連続殺傷事件。


 ここ一ヶ月の間に三名の死傷者を出した、同一犯によると思われる事件である。


 発生現場は立川たちかわ市、東大和ひがしやまと市、小平こだいら市と広範囲に渡り、被害者も中学生から高齢者までと全くのランダムだが、凶器が鋭利な刃物という点は共通している。


 一週間前には七十代の男性が自宅の庭先で殺害され、ついに殺人事件として警視庁と陰陽庁による総力をあげての合同捜査となった。


 陰陽庁が出動したのは、目撃証言に異常な点が多く、怪異による犯行が疑われるためだ。


 一方で物理的な手掛かりとして、被害者の傷口付近にはいずれも鉄錆が付着していた。

 怪異の中には鋭い爪や牙を有するタイプもいるが、この錆は確かに本物の鉄が酸化したもので、つまり犯人は鉄の凶器を使っているという事になる。


 そういう訳で、特殊文化財センターにも協力要請の声がかかった。

 怪異の憑いた特殊文化財のうち『状態の悪い鉄器』が、最近新たに発見されたり、保管庫から紛失したような事例はなかったか――との調査依頼である。


 センターはこれに応じて、都内で保管されている古墳時代から近代に至るまでの鉄製品遺物を総ざらいする事になった。


「――だから当然、私が現場に出向いたり犯人を追っかけたりするんじゃないのよ。報告書をまとめたら後は役所の陰陽士おんみょうしさん達の仕事。ドラマや映画じゃあるまいし、私立怪異探偵みたいな真似は出来ないって」


 陰陽庁所属の公務員は、近代までの私的な生業なりわいも含む、まじない師としての『陰陽師おんみょうじ』と区別するため、『陰陽士おんみょうし』と表記される。


「それはそうですけど」

「ただ……ちょっと気にはなってんのよね」


 顎に手を添えて、滝沢は考え込んだ。


「特殊文化財といえば、怪異の力の影響でいたみに強いのが特徴のはずでしょ。今から訪ねるお宅もそうだし。錆びた凶器って……?」

「ほらぁそうやって先輩は、一度疑問に思うとどんどん突き進むから」

「何さ。学術調査員には必要よ、探究心は」

「危なくない範囲で発揮して下さいよ」


 仕事熱心なのと、管轄外の危険な事件に首を突っ込むのとでは話が違う。


「先輩に何かあったら……僕が困ります」

「はいはい分かってます。安全第一。万年人手不足だものねぇうちのセンター」


 そういう意味ばかりではない、と言い募りたくなるのを根岸は耐えた。それこそ、職務中には不適切な話題になりそうだ。

 しかしとなると、いつどんなタイミングで思いを口にすれば良いのだろうか? ……部下から上司への告白はセクハラになるのだったか? 困らせはするかもしれない。では隠し通しておくべきか。


「根岸くん? どしたの?」


 さっさと歩みを進めかけた滝沢が、またも不思議そうに根岸を振り向く。


「ああいえっ」


 慌てて首と手を振った根岸は、シャツの襟を正し、分厚い両開きの扉の前に滝沢と並んで立つ。古めかしい玄関扉の右脇に、真新しいインターホンが備え付けられているのが何ともおかしく思えた。


 インターホンを押すと、間を置かずに応答があった。


「はい。どちらさん」

「東京都特殊文化財センターの滝沢です。えー、耐震補強工事の件で伺いました」

「ああ、トクブンさん」


 滝沢の挨拶に、スピーカーの向こうの相手は慣れた様子で、根岸達の所属する組織の略称を口にした。


「鍵開いてっから、適当に上がってよ」


 そんな言葉が返ってきて、滝沢は根岸に肩を竦めてみせる。

 建物まるごと文化遺産で、屋内にも貴重な家具や美術品が多いというのに、不用心だ。そう言いたいのだろう。

 ともあれ、彼女は扉に手をかけた。


 ――さあっ。


 背後に湧いた、ささやかで奇妙な物音に気づいたのは根岸だけだった。

 何とはなしに、彼は音の方を見遣る。


 視界に飛び込んできたのは黒い髪だった。


 腰を屈め、半ば這いつくばるような姿勢の女が一人、そこにいた。

 顔を覆い隠す長い乱れ髪が地面に擦れ、それが微かに耳障りな音を立てたのだ。


 元はベージュかクリーム色に近かったらしいロングコートを着込んでいるが、そのコートのあちこちにどす黒い液体の痕跡が散っている。

 両手に握るのは錆びた鎌。これも刃から柄にいたるまでべっとりと、黒ずんだ何かで汚れていた。


 女が顔を上げた。


 赤黒く淀んだ白目、焦点の合わないまま散大しきった瞳孔。

 にぃーっと笑みの形に歪められた口は、耳のきわまで裂けている。


「怪異っ……」


 思考より先にそう叫んで、根岸はスペル・トークンを取り出していた。


 危険性が高いと判断出来る怪異に遭遇したら、目を合わさずに相手の挙動だけを追い、同時に、まずは自分の身を守るための結界を。マニュアルどおりの行動だ。


 ただ一点、教わったマニュアルと反する動きは、滝沢を後ろ手に庇って一歩前に出た事だった。


 何も考えられなかった。コートの女は両手の鎌を振り上げ、一瞬にして根岸の鼻先まで迫る。方術の発動などとても間に合わない。


 トークンを掲げた手首がざっくりと切りつけられる感触。

 思わず腕を引っ込めたところで、胸元に錆びた刃先が、深々と突き立った。


 自分の血で世界が赤く染まるのを呆然と眺めながら、鉄の冷たさと焼けるような熱を、根岸は同時に感じる。何かの砕ける硬質な音がしたが、胸ポケットのスマートフォンが壊れたのだろうか。


(スマホ、仕事用のレンタル品なのに)


 と、ようやく頭に浮かんだ感想は随分と呑気なものだった。


「いやああああああっ! 根岸くん、根岸くんっ!」


 すぐ耳元で滝沢の悲痛な声が上がる。

 仰向けに倒れかけた根岸を、滝沢が掻き抱くようにして支えた。ずり落ちかけていた眼鏡が外れ、地面に転がる。


 駄目だ、と根岸はろくに動かない首を振った。

 危険な怪異がまだすぐそばにいるのに。早くこの場を離れないと。散々マニュアルに従えと説教してきたのは彼女ではないか。


「先……輩、逃げてくだ……」


 絞り出された声は掠れていて、彼女に届いたかどうかも分からない。視界も暗くなりつつある。


 根岸を無理矢理抱え、引きずって逃げようとした滝沢が、鎌で肩を切りつけられて転倒した。

 ああ、と涙混じりの吐息が聞こえる。


 真新しい返り血にまみれ、満面の笑みを浮かべたコートの女が、滝沢目がけて更に鎌を振りかぶる。


 そこに――女の顔面に、弾丸のごとき速度で何かがぶつかった。


「ギャアッ!?」


 女が獣の吠えるような悲鳴を上げる。

 猫だ。

 尾が二本ある三毛猫が怪異の顔に噛みつき、異様に長く鋭い爪を立てている。


 ぱっと火花のように血飛沫が散った。顔を押さえてもがき苦しむ女から飛び退いた猫が、身を捩って地面に四肢を着ける。

 両耳を倒し毛を逆立て、フーッと威嚇音を吐いた猫は、続けてその口から、人間の言葉を紡いだ。


「ひとん家の玄関先で、何やらかしてくれんだ、おい」


 これはインターホンの向こうから聞こえた声だ、と根岸は気づく。


 それが彼の思考出来た最後の事柄となった。


 熱さも冷たさも苦痛も、もう感じ取る事は出来ない。辺りは静かな暗闇に包まれていた。

 眠りに就く時にも似た安らぎと、それとは矛盾する寂寥せきりょうと死への恐怖。しかしその感情も急速に薄れていく。


 最早言語の形ではまとまらなくなった頭の片隅で、根岸は最後の一瞬まで、滝沢の身を案じていた。

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