第41話 求めている偶像と将来の夢

 吉川さんが満足するまで渋谷を堪能したので、千葉に帰還することになった。


 私は渋谷駅の路線図を見て、こくりとうなずいた。


「もう大丈夫、帰り道は間違えない。コツはつかんだから」


 複雑な経路を丸暗記するより、案内指標を読めるようにするのが正解だった。


 予習と復習完了、もはや都内の電車も怖くない。


 幽霊の吉川さんは、ぺこりとお辞儀した。


『本当なら、年長であるあたしが、電車の乗り換えをサポートできればよかったんだけどねぇ……へへっ、帰り道もサカミっちに頼ることになりそう』


「気にしないで。きっと今日の私が失敗をしたことは、長い人生で考えたら必要な経験値だったから」


『ありがとう。きっとサカミっちは、しっかりした大人になれるよ』


 吉川さんの予言どおり、しっかりした大人になれるように、私はこれからの人生を一生懸命生きようと思う。


 さて帰りの車内だが、乗り込む時間帯が絶妙だったらしく、混雑が緩和されていた。


 かつての課題だった電車の乗り換えにも成功して、すでに私たちは錦糸町駅まで到達していた。


 ここまでくれば、各駅停車だろうと快速だろうと千葉駅にたどりつける。


 千葉県民的に、安全地帯に入ったわけだ。


 シカコは、ぐーぐー眠っていた。


 彩音ちゃんも、こくこくと船をこいでいる。


 いくら運動の得意な二人でも、初の東京遠征となれば、疲れがたまったんだろう。


 逆に運動の苦手な真奈美ちゃんは、電車から見える風景が楽しいらしく、ドアの窓に張りついていた。


 ちょっと前まで、あれだけ電車を怖がっていたのに、いまでは地元と違う風景を眺めるのが楽しいようだ。


 私は、真奈美ちゃんの著しい成長に、太陽の輝きを感じた。


「柳先生、努力するって、すごいことですね。怖がりの真奈美ちゃんが、あんなにも堂々とふるまってる」


 柳先生は、真奈美ちゃんと私を、交互に見た。


「真奈美ちゃんの努力がすごかったからこそ、それを支えた世治会が眩しく見えるかも。もし学生時代のわたしが、世治会のお世話になってたら、もう少しだけまともな大人をやれてたのかなって」


 柳先生だけは、渋谷109で借りた服を、そのまま購入していた。


 気に入ったというよりも、三十代後半の女性が、平成ギャルのコスプレをしたまま帰りの電車に乗りたくなかったんだろう。


 たとえそうであっても、大人向けのおしゃれな服は、柳先生に似合っていた。


 けっして服に着られている感覚はなく、ちゃんと柳先生のダメージコントロール力と噛み合っている。


 ふーん、かっこいいじゃないの、柳先生の生き様も。


「今日の柳先生は、結構頼りがいになるところがありましたよ。となれば、世治会があってもなくても、柳先生の良いところは育ったんだと思います」


 私が称賛したら、柳先生はテヘっと舌を出した。


「今日は先生なりに、がんばったのよ。まぁ本当は、生徒にバシバシ頼られるほど、人生経験豊富なほうがいいのは確かなんだけどさ。でも、自分にやれる範囲はかぎられてるから、少しずつ前に進んでいこうかなって」


 柳先生は、自分のペースで成長していく人だ。ヘンなところはあるけれど、けっして歩みを止めるわけじゃない。


 きっとその成果が、失敗を前提にしたダメージコントロール力だ。


 教え子である私から見ても、とても良い長所だと思った。


 そこそこ前、私は真奈美ちゃんの怖がりを克服するために、声優イベントに出席した。


 あの日、私はこんな推測をした。


 私が誰かのファンになったことがないのは、求めている偶像と出会ったことがないからではないかと。


 どうやらあの推測は、正しかったらしい。


 ついに私は発見した、柳先生という自分の求めている偶像を。


 柳先生は、芸能人みたいな手の届かない存在ではなく、身近にいるヒーローだ。


 失敗を前提にしたダメージコントロール力は、私みたいなアドリブの弱い庶民にとって、憧れの生き様であった。


 柳先生のファンになったことは、おもわぬ恩恵をもたらした。


 大学進学後、どんな職業につきたいのか、具体的なイメージが固まったのだ。


 学校の先生である。それも母校の先生になりたい。


 柳先生の生き様を許容してくれる職場なら、私みたいな予習と復習で人生の困難を乗り切ってきたタイプでも適応できるはずだ。


 まだ将来のイメージが固まっただけで、実際に就職したわけでもないのに、なぜか脳裏には生徒を指導する自分の姿が浮かんでいた。


 それほどまでに母校の先生になりたいと思ったなら、いますぐ柳先生に自分の進路選択を伝えようかと思った。


 だが寸前で踏みとどまった。


 私は進路希望調査票の提出を保留にしている。わざわざ締め切りを先延ばしにしてまで。


 それなのに、その場のテンションに身をまかせて、口頭で進路選択を伝えるなんて失礼だろう。


 私がやるべきことは、しっかりと時間をかけて進路を検討したあと、進路希望調査票の形で意思表明することだ。


 やるべきことが決まったら、大人になることへの不安が和らいだ。


 きっと人間の心は、進んでいく目標と、その熱意のあるなしによって、大きく揺らぐんだろう。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る