113.あの時、私は死ぬはずだったんだ。

あの時、私は死ぬはずだったんだ。

雨の日、鬼沙と2人、車にもたれかかって、私は満身創痍で、意識が朦朧としていた。

何でそうなったのかは何故か覚えていないのだが、もう終わりだと思って目を瞑って、そっと目を開けると、私を護った黒い影と、生気の無い顔が、目の前に現れたんだ。


「あっ…ぐ…鬼…沙…」


目の前の黒い影、鬼沙はじっと私を見据えて動かない。

車のドアを凹ませて、それにもたれかかった私には、もう打つ手が無い。

不思議な時間だが、それは、私が死ぬまでの無駄な隙間時間でしかなかった。


「たす…て…き…さおに…ちゃん」

「なんだ。まだまだ、足りねぇなぁ…」


朦朧とする意識。

混ざり合う景色に、震える左手を伸ばす。

そこに重なる、鬼沙の不機嫌な声。


「沙月様ー!」


その空間に、遠くからか沙絵の声が混じった。

その声に、ビクッと体を跳ねさせる。

鬼沙の顔は、更に不機嫌さを増していた。


「おいおいおいおい…あそこまでやってやって、クソ。しくじるなやぁ。使えねぇ」


呆れたような鬼沙の声。


「雑魚のデパートだって言う、噂の手品も、そう封印されてりゃ使えねぇわなぁ」


そう言って振り上げた右腕、その手、真っ青に輝く呪符が握られていた。


「……!」


今度は逃げられない。

私は、黙ったまま、振り下ろされる右腕を眺めていた。


ずっと前は目を閉じていた光景。

きっと、あの時も、目を開けていれば、こんな光景が見えたはず。


刹那。


ただでさえ狭くなった私の視界の隅に影が重なる。

見開いた目、ピントが合わない程に近いその影の一部、真っ赤な靄が漂っていた。


「ハッ!テメェにゃ、もう用はねぇ!」


鬼沙の怒声。

目の前の影の主は、ニヤリと顔を歪めて、手にした呪符をパッと離す。

更に私の視界は影に覆われた。


大爆発。


ズシリと重たい感触が私を押しつぶす。

更にそこへもう一発、重たく尖った感触が私の腹部を貫いた。


「っぁあぁがぁあ!…」


車のドアにめり込み、一瞬のうちに意識が遠のく。

最早痛みなどは感じず、そこにあるのは永遠に感じられる苦しみだけ。


爆発音、車がひしゃげた金属の粘る音。

誰かの悲鳴に、私の悲鳴。

視界を奪われ、耳から入る情報だけが、私を絶望の深みに沈めていく。


「まだ、時期が悪いな」


少しの間の後、ようやく私の左手先がピクっと動いた。

遠のく意識の縁から戻って来た私。

徐々に周囲の喧騒が耳に届き、影に隠れた視界にも色が付きだす。


「あ…が…」


その影は、誰かの重たい体。

体を捩って、片腕を動かし、それをどかすと、その影は力なく私の太腿の上に崩れ落ちた。


「あ、あ、あ、ああ」


歪な姿勢で倒れてきた体。

私の足の上に仰向けになったその体、首の上にそっと目を向けた時。

私の視界は一瞬のうちに境界が消えた。


「っさ?…え?八沙?八沙!」


急激に意識を取り戻す。

頭は最早動いていない。

誰かの叫び声すら、私には聞こえない。


「八沙!ねぇ!ねぇってば!」


金切り声が上がる。

動かない体を、意地になってでも動かした。

ようやく動いた、血に染まった左手は、凍り付いた彼の胸を揺さぶる。


「ねぇ!目を覚まして!ねぇ!八沙!」


半狂乱になる私。

そんな私の腕を、誰かが掴みあげた。


「沙月様!」

「誰!離して!八沙が、八沙が!ねぇ!起きてって!」

「沙月様、私です!沙絵です!」

「煩い!八沙!八沙ァーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!」


精一杯叫ぶ私。


「沙月!戻ってこい!」


それをかき消す声が鼓膜を劈いた。


 ・

 ・

 ・


「!」


バッと飛び上がる。

嫌な汗が体を覆いつくしていた。

着ていた寝間着はずぶ濡れで、目を見開くと、空っぽの右目部分が鋭い痛みを放つ。


チュンチュンと、聞こえてくるのは鳥のさえずり。

見開いた左目越しに見える世界は朝の様に明るかった。


今いる場所は、普段私が眠っているベッドの上。

そこに、"今の私の利き手"である左手が見えて、その手が包帯に巻かれている事に気づいた所で、私の目からは涙が溢れだした。


「八沙が…八沙ぁ…ああ…!私のせいだ!…あああ!!」


顔を抑えてうずくまる。

どれだけ後悔を叫んでも、脳裏に浮かぶのは昨日の景色。


「おはようございます。沙月様」


1人泣き続けていると、部屋の扉が開かれ、憮然とした表情の沙絵がやって来る。

私のベッドの横まで、何も言わずに歩いて来ても、私は泣くことを止めない。


「沙月」


普段より数段低い声が、私をピタリと泣き止ませる。

嗚咽だけが止まらない中で、クシャクシャにした顔を沙絵の方に向けた。


「起きてください。泣いていても、状況は変わりません。私が傍にいますし、何より、泣くのはまだ、早いんですよ」

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