黒豹

 桜州国。陵皇山。

 その麓にある小さな洞。


 氷に覆われた小さな氷穴。

 何人もの冒険者が、栄誉を求めて散った場所。


 かつてこの洞の主であったもの。

 剣神と呼ばれたもの。

 すべての剣士の頂点と謳われた老人の姿は、もはやここにはない。


 その洞窟の中ほどにある20畳ほどの空間。いつか一人の年老いた剣士が杯を舐めていたその場所に、一人の男が座っていた。


 黒い髪に。浅黒い肌。

 無言で座るその姿は、身に纏った黒い作務衣と色濃く落ちた影のせいで影法師の様にも見える。


 天蓋からはいくつものつららの様な鍾乳石がぶら下がり、その下にはまるでそれを受け止めるかのように石筍が並ぶ。

 何処からか吹き込む冷たい風が、洞内をぐるりと取り囲むように置かれた、何本もの淡い蝋燭の炎をゆらゆらと揺らし、そのたび壁を覆う流華石に含まれた方解石の結晶が鈍く光りを放つ。


 男の浅い呼吸音。ジリジリという、かすかな蠟燭の燃える音。

 時折鍾乳石から零れ落ちるピチャリ、という雫の音。

 それらがいびつなリズムを刻むその場所で、男はひとり、禅を組む。


 脚は結跏趺坐。手は法界定印ほっかいじょういん

 半眼に開かれた視線の先に男が見ている物は何であるか。


 いや、そもそも何も見てなどいないのだろう。

 ただ、景色を網膜に映しているだけで、それを認識してなどいないのだから。


 傍らには普通のものより明らかに長い一振りの日本刀──剣神を打倒したものにのみ与えられる武装。大太刀が置かれている。


 銘は無い。


 ただ事情を知るものはこの太刀を神より下賜された剣の一振り──神剣であるとし、日本神話になぞらえ羽々斬はばきりと呼んだ。

 もっとも所有者自身はこれをただかたなとのみ呼んでいるが。


 どれほどの時間ここで禅を組んでいるのか、男にもわからない。

 さもありなん。

 外界から隔離された洞内に、時の目安となる景色の移ろいなどありはしないのだから。


 一時間か、二時間か。

 いや、もしかしたらまだ数分しか経過していないのかもしれない。

 もっとも、経過した時間に意味などないのだが。


 男がかつての本拠地を離れ、この洞に籠るようになってから半年ほどの時間が過ぎた。

 最初の頃はただひたすらに剣を手に、剣神の、偽神の影を追いかけた。

 やがてそれは己への問いに変わり、剣を振る手は印へと変わる。


 もはや何かの答えを求めて禅を組んでいるわけではない。

 ましてや悟りを求めているわけでもない。


 男はただ禅を組む。

 静かに、己を研ぎ澄ます為に。


 あの日、この世界が何であるのか。その道理を知らされた。

 人ならざる者。それでもかつては人であったものに。


 ──それを知ったうえで、自分に何ができるのか。


 そう自分に問いかける。


 自分にできることなど何もない。

 所詮は神の手の上で踊るだけの、盤上の駒である。

 抗う術など、初めからあるはずもないのだ。


 ──では自分は何をすべきなのか?


 世界の真実を知る者の責務を果たす。

 何をする? 知らしめること? 何を? 真実を?

 意味がない。

 大多数の者が、元の世界の事なぞ覚えてはいないのだ。

 男と情報を共有した者たちでさえ、この半年でその殆どが過去を失った。

 いくら声高に叫んだところで、この世界が世界となる以前の記憶を残していない者からすれば、それは妄言としか映らないだろう。

 大多数の者にとって、今この世界こそが真実なのだから。


 ──できることなど何もない。なすべきことも何もない。


 自分が何をしようが意味は無いのだ。

 世界は世界としてここにある。


 それでも。と、禅を組み始めたばかりの頃は答えを求めた。


 ではあの男が自分に何を求めているのは何なのか。と、自分に問いかける。


 答えなど、わかるはずもない。

 わかりたくもない。

 そもそも人ならざる者の望みなど。人に解せるはずもないのだ。

 ならば流れに身を任せるしかないのだろう。


 いま男の中にあるのはただ自身を研ぎ澄ますこと。

 結局、男に出来るのははそれしかなかったのだから。





 ふと、男の手が動いた。

 意識して見なければわからないほどゆっくりと。緩慢に。


 刹那。


 男を照らす蝋燭の炎。

 その一本が、ひときわ激しく揺れ、同時に打ち合う金属の音が響いた。


「おーおー、グラムちゃん。技術うであげたなぁ。剣神ぶっ倒したのは伊達じゃないってかなぁ?」


 頓狂な女の声が響く。


 グラム。


 そう呼ばれた男と同じ、黒い影がそこに居た。

 何時の間に抜いたのか。後方に向け、横に薙いだグラムの大太刀を、二本のダガーで受け止めた姿勢で。


 一見、等しく黒い髪と黒い瞳。

 だが決定的に異なる部位がある。


 漆黒の肌。


 グラムよりもさらに明確に、は正しく黒い影と言えた。


 結跏趺坐を崩し、片膝を立てたグラムとの距離は半歩ほどもない。

 ゆっくりと女は剣を引き、戦う意思がないことを示すように両の手を上に挙げた。

 その表情に若干の笑みがある。


 歳は20代前半か中盤か。どちらかというとミドルティーンあたりのキャラメイクを行うものの多いプレイヤー陣の中では、少数ない部類に入る。


 身に着けているのは薄手の、面積の小さな黒いボディーアーマー一式。

 そこから伸びた手足はすらりと長く、一見してモデルの様な、だが同時にネコ科の野獣の様なしなやかな印象を抱かせる。


 女は二本のダガーを腰に収め、前下がりに揃えられたショートボブをかき上げると、未だ剣を下げたままの仏頂面に、「久しぶりだね」と、声をかけるとプレイヤーの例にもれぬ美貌をグラムに向けながら、白い歯を見せた。


 グラムは苦虫を噛みつぶしたような表情で「ちっ」と舌打ちをすると剣を収める。

 知らぬ顔ではない。ゲームであった頃、何度もやりあったことのある相手である。


「剣神ぬっ殺した当人が剣神の洞で瞑想とかさ、何の因果だい?」


 女は、腰に両の手を当て、どこか嘲笑するように口の端をあげるとグラムに問いかけた。


 答えは無い。


 グラムからすれば、この洞は丁度良かったのだ。

 ひとり、柄にもない考え事に没頭するのにも。

 剣神が、偽神GMがここで何を考えていたのか、その影を追うのにも。


 剣神の死は一般に周知されているわけではない。その剣神の洞に、わざわざ死にに来る物好きなどそうは居ないのだから。


じじいに問いかけたところで、答えなんか帰ってきやしないのにさ」


 呟く女の横顔に、グラムは再び舌打ちをすると額に手をあて天を仰ぐとしぶしぶといった体で立ち上がった。

 女にむけて無言で奥の座敷を顎でしゃくると、のっそりと歩き始める。


 ひとり残された女はわずかに肩をすくめ、「相変わらず不愛想」と呟くと、頭の後ろで手を組みながら、グラムの後を追った。


 女は名をサラ・フィエルという。

 かつて剣神を打ち倒した経験を持つ3人のうちの一人。


 黒豹。


 それが彼女のあざ名である。

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