魔法

「あはは。なに、船にもたれて湖面を見ながらたそがれてるとか思っちゃった? まぁ、このナリで釣りってのもアレだけどさぁ」


 ケラケラと笑いながら莉々はそのまま砂浜に腰を下ろすと、真横に立つアルスに向けて小首をかしげ、ふんわりとした笑顔で座る様に促した。


 アルスは視線を莉々から反らしたまま、しぶしぶといった様子で腰を下ろすと天を仰ぐ。先のやりとりでいくらか緊張はほぐれたとはいえ、莉々の美貌はアルスにとって凶器に等しい。極力莉々の顔を正面から見ることは避けたいのだ。

 といっても、気になるものは気になるのだろう。ちらりちらりと莉々の顔を盗み見てはいるのだが。


「いや、別にいいんですけどね。勝手にイメージ膨らませてたのはこっちなわけですし。もちろん釣りが趣味なのも悪いことじゃないですよ? そういう方も沢山おられますしね。て言うか何なんですか。昨日とは雰囲気全然違うじゃないですか」


「そう? 服は一緒だけど?」


 そう言いながら自身の姿を見なおす莉々を前に、アルスは溜息をついた。

 莉々が変わったわけではない。アルスの見方が変わっただけだ。

 今まで見たどんな美人ですら色を失うほどの美貌。見たことの無い服装。さらに醸し出されるミステリアスな──と、勝手に思い込んでいただけの──雰囲気。


 自分では想像したこともない。だがおそらくは理想像に近いその姿に、アニマとしての彼女を見ていただけなのだろう。


 現実はそうはいかない。

 莉々はアルスの頭から飛び出した理想像ではないのだ。莉々からすれば迷惑この上ない話である。


「まぁ、気持ちはわかんなくもないけどね。あたしが元居た場所じゃ、あたしくらいのルックスなんか珍しかないけど、この国じゃレアだもんねぇ」


 そう呟くと、莉々はアルスに流し目を送った。不意をつかれ思わず交錯した視線にアルスの顔が朱に染まる。


 小さな声で「くそぅ」と呟くアルスに、莉々は下卑た笑顔を浮かべると「ケケケ」と笑った。


「ホントですよ。黙ってたら話かけるのも戸惑うレベルなのに、話してみれば想像以上にフランクで。ああ、だから母様ともすぐに打ち解けて、って、おしりを掻かないでください。その顔でっ!」


 ん? という顔をして動きを止めた莉々の姿に、アルスは今日何度目かの溜息をついた。

 お尻を少し上げてポリポリと掻く美女の姿など誰が見たいだろうか?

 少なくとアルスは見たくないと思った。

 ただし、短いスカートからわずかに見えた黒い下着にこれ以上ないほどにその顔を赤く染めながらではあるが。


 その様子にクスリと笑うと莉々は乱れたスカートの裾を整え、それこそ楚々とした表情でアルスを見た。

 頬を染めたままのアルスの動きが止まる。


 やはり卑怯だとおもう。


 散々ガッカリさせておいて、こういう表情をされてはどうしたらいいのかわからない。

 さっきまでのはもしかしたら自分の緊張をほぐすためにわざとやっていたのではないのか? と、そう勘繰りたくもなる。


「で、アルス君。あたしに何か用があって、ここに来たんじゃないのかな?」


 にこやかに問いかけられ、アルスは言葉に詰まった。

 よもや「貴方は魔法使いですか?」と聞くわけにもいかない。


「察しはつくけどね。お父さんに頼まれた?」


「なん──」


「昨日、見てるのはわかってたんだけどね。まぁ脅し半分、承認欲求半分でちょっとだけね。今朝も特になーんにも言わないからどうするのかなって思ってたんだけど?」


 どうすべきか。と、アルスは自問する。


 莉々の言葉にそのまま流されるのがベターなのかもしれないが、アルスの頭の中にある常識がそれを拒絶した。

 まだ決定的な証拠を、アルスは見ていないのだ。


「何の話か分かりませんが、どうしてそう思うんですか?」


「あたしが船をしまっても。そんなに驚かなかったでしょ? この国のエロい、違う、えらい人たちはそれ見て大騒ぎしてたのにね」


 それは驚かなかったんじゃなくて、貴方に見惚れてたからなんですが、ともいえずアルスは押し黙った。

 いずれにしても、言われてみれば船が消滅したあの光景は、手品と呼ぶには無理がありすぎる。


「あれが、魔法の一端ですか?」

「ぶっぶーっ!」

「──はぁっ?」


 両手をクロスさせて×の文字を描き、嘲笑するように笑う莉々に、おもわずアルスは声を荒げた。


「だってあなたさっき──」


 言いかけ、目の前の光景にアルスは硬直した。

 莉々はにこやかに少年を見ている。


 ぶるっと震え、自身の体の肩を抱く。

 晩春の湖はいくらか涼しいかもしれないが、そんなレベルではない。


 莉々の背後の砂浜は氷に閉ざされていた。

 のみならずアルスの背後も、湖も。まるで強烈な寒波に見舞われたかのように凍り付いている。

 唯一、自分たちの周囲数メートルの範囲のみが、変わらず今が冬ではないことを証明していた。


「これが──」


 アルスの反応に満足したのか、莉々は立ち上がると膝についた砂をはたき立ち上がる。


「そう。これが魔法」


 アルスは言葉を失った。


 陽の光を浴びてキラキラと光る凍土を背景に立つ、漆黒の衣装に身を包んだ(黙っていれば)人形のように美しい少女。

 二人の居る僅かな空間の外はどれほどの冷気で支配されているのか、結晶化した空気中の水蒸気が、まるで彼女を引き立てるアクセサリーの様に輝いている。


 ──氷の妖精──


 アルスの脳裏にそんな言葉が浮かんだ。


 少年の反応に満足したのか、莉々は空を見上げると左の手を天に向けて伸ばした。

 つられてアルスも空を見上げる。


 空の色は変わらない。周囲がいくら冬化粧をしていようが、そこに冬の様な深い色はない。

 夏を控え空に浮かぶ入道雲が、この冬の景色に、なんとそぐわない事かと、アルスは思った。


 その眼に、上空で旋回する黒い影が映る。


「鳥?」


 アルスの呟く声に呼応するかのように、やがて上空から一羽の見たことの無い、大きな鳥が舞い降りた。

 この世界には居る筈の無い鳥。異なる世界に住まうアルスの知らない鳥。


 黒いフクロウ。


 莉々が鷹匠の様に肘を曲げ、その手を突き出すのに合わせ、ばさりばさりと大きな羽音をたててその鳥は少女の腕に止まった。

 慣れた手つきで「クルル」と小さく鳴くその鳥の喉元を優しくくすぐると、足管に巻き付けられていた何枚かの紙片を取り出す。


「ご苦労様」と、莉々が優しげな声でフクロウに囁くと、黒い影は羽を広げ、再び空に飛び立っていった。

 上空で数度旋回し、やがて遠い空に向けれ大きく羽ばたくと、影は徐々に小さくなり、やがて視界から消えてゆく。


「昼間に出すのは久しぶりだけど、相変わらずのウルトラマン方式かぁ」


 とアルスには理解の出来ない言葉を呟くと、莉々は何事かが書かれたその紙片に目を向けた。

 一枚目で眉を顰め、二枚目で深いため息をつく。

 肩をすくめ天を仰ぐ。やれやれといわんばかりに首を振り、額に手を当てるとがっくりと項垂れた。


「時間は、あんまし無いってことか」


 呟きそのまま押し黙る。

 項垂れたまま、莉々の視線は湖面を。いや、更にはるか遠くを見据えているようにアルスには思えた。


 やがて顔をあげアルスに向き直ると頬に右手を添え、値踏みをするかのように少年を見つめた。


「なに?」と、呟きながらアルスの脚が一歩下がる。

 それが本能的な恐怖と呼ぶものかどうかはわからないが、その瞬間の彼は赤面することもなく、むしろ背筋に冷たいものを感じた。


 やがて莉々はにんまりと笑うと獲物を追い詰めるように一歩前に出ると、アルスの両肩に手を添えポンと叩いた。

 青くなっていた少年の顔が再び赤く染まり、その耳元に顔を近づけ少女は呟いた。


「じゃぁ、始めようか」


「何を──」


「まずは実験。はたしてそれを再現できるか否か。]


 にんまりとした莉々の笑顔その言葉に、アルスは不穏なものを感じた。

 無意識に、更に一歩後ずさる。

 先ほど氷の妖精、と評価したばかりの相手である。人外とも思えるその美貌と相まって、「実験って、何する気だよ? おい」と、少年が不穏なものを感じるのは致し方の無いことなのかもしれない。


「じ、実験って、何ですか?」


「文字どおり、実験。あたしたちにとって魔法は身近なものだけど、あなたたちにとっては馴染みのないものでしょ?」


 微妙に怯えの色を浮かべるアルスに、莉々はしなをつくるように小首をかしげると嫣然と微笑んだ。


「別に怖いことするわけじゃないのよ。ただあなた達にもそれが可能なのか、ちょっと調べさせてほしいってだけで」


 有無を言わさず、莉々はアルスの目前に自身の右手を差し出す。

 アルスにはその行為の意味が分からず、無言のまま、困惑の眼差しを莉々に向けた。


「こんな感じで」


 差し出した右手の親指と中指をこすり合わせる。

 パチン。と、いう音が響くと同時に小さな明かりがそこに灯った。


「──火?」


 目の前で起きた小さな奇跡に、アルスの口から小さな声が漏れる。


 少女の指の上で、ゆらゆらと揺れる炎。

 目の前にある、まるで出来の悪い手品の様なその光景。


 だがそれがトリックの類ではないのだということを、アルス自身の周りの景色が物語っていた、



 果たしてこの日、彼らの理ことわりはもろくも崩壊することになる。

 目の前に立つ、かつてアストレアにおいて破壊神と呼ばれた、ひとりの少女の手によって。

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