黒衣の少女

「魔法使い? あのひとが?」


 アルスが部屋付きのメイドであるレルムからその話を聞いたのは、莉々が城に来た、その翌日のこと。

 朝食後に自室に戻り、朝の修練に出かける直前のことである。


「ええ、なんでも侍女が裏の森に入っていく莉々様をみかけたとかで、後をついていったらしいんです。そしたらほら、森の湖があるじゃないでいですか、あそこで立ち止まっておっきな見たことの無い鳥をポンって出したらしいんです」


 レルムの言葉にアルスは首をひねり、昨日の夕食の席での会話を思い出した。


 外出先で何があったのか、すっかり打ち解けた様子の母と莉々の会話の中で、母が莉々に服を作ってもらったとか言っていた記憶がある。


『服飾ランクはグランドマスターだから、並の職人には負けませんよ?』


 そう、話していたはずだ。

 グランドマスターというものの意味は分からないが、彼女の着ているあの奇抜な衣装から考えても、きっと彼女は服飾デザイナーか何かに違いない。そう思っていたのだが。


「鳥? ていうか、手品師マジシャンってこと?」


「いや、あれです。ごめんなさい。鳥はこの際関係ないんですけど、そのあと手をこう、まっすぐに前に伸ばしてですね。聞いたことの無い言葉を呟いたらしいんですよ」


「で?」


 自分で見たわけでもないのに、身振り手振りを交えながら話すレルムの姿に苦笑いを浮かべながら、アルスは話を促す。

 こういうオカルトじみたうわさ話が好きなのは古今東西、一緒だなぁ。と、そんなことを考えながら。


「その直後ですよ。どかーん、っていうかざばーん。って感じで湖の水が真っ二つに割れたらしいんですね。すんごい、上の方まで水が跳ね上がって。で、これは一大事だって、侍女長さまに報告しに行こうとしたらしいんですね。そしたらなんと──」


 既にアルスの興味は話からは薄れているが、レルムの方は『ざばーん』のあたりで両手を上にあげながら絶賛熱弁中である。


 そろそろ訓練所に行く時間か、と壁に掛けられた時計にちらりと目を向ける。


『あとは訓練が終わってから聞くよ』と話を中断させようとしたアルスの言葉は、続くレルムの言葉によって打ち消された。


「すぐ後ろで、旦那様。──公爵様もそれを見てたらしいんです」


 アルスは目を見開き、レルムを凝視した。


「父が?」


 他愛もないうわさ話に父が登場するというのは想定外である。

 レルムがアルスのリアクションに満足げな笑みを浮かべた。


「はい。で、おもわずミーシャ、あぁ、見てた侍女ですけど。ミーシャが旦那様に『あたし何も見てません!』って言ったらしいんですね、こういう場合『黙っていなさい。このことを誰かに話したら、わかっているね。にっこり』てのがパターンじゃないですか」


「なんだ、そのパターンは」


「いいんです! で、そしたらですね。旦那様は『ああ、気にするな。大したことじゃない』って口止めもしないで屋敷に戻っちゃったらしいんですよ」


 ふむ。と、アルスは下あごに手を当て思案気な表情を浮かべた。

 父にも、莉々にも朝食の席で顔は合わせたが、特に話をすることもなく別れた。

 普段はもっとゆっくりしてから公務に出る父が、今日に限って食事もそこそこに席を立ったのが気になるといえば気になるが。


 いずれにせよ、そもそも魔法というのが眉唾物であるし、父の昨夜の行動というのも意味が分からない。


 だがまるっきり作り話ということもないだろう。

 侍女がここで父の名を出して嘘をつくはずもないのだ。それこそ懲罰ものなのだから。


 ふと、父と莉々の逢瀬の場だったのか? という妄想がアルスの頭に浮かんだ。同時にブンブンと頭を振りその妄想を打ち消す。

 それならば口止めをしないわけがない。というかそもそも魔法の話は何処へ行ったのか。


「何してるんですか? アルス様?」


「あ、いや。何でもない」


 顔を赤らめながら息を荒くするアルスにレルムは首を傾げ、それでもお構いなしに身を乗り出すと更にまくしたてた。


「とにかく、魔法使いですよ。魔法使い。莉々様って、すごい方なのではないのですか? ──はっ。だから旦那様も客人としてお屋敷に招いて、そしてその名目で監視をっ!」

「──まぁ、あとでその、湖の様子を見てくるよ。何か形跡が残ってるかもしれないし」


 アルスはひきつった笑顔を浮かべながら、興奮の度合いを強めていくレルムの両肩に手を添え、軽くポンポンと叩きながらなだめるようにそうこたえた。


 彼の回答にレルムの口角があがる。


「莉々様に直接聞いた方が速いのでは? とくに口止めもされてませんし。って、ああ。恥ずかしいんです?」

「うっさい」

「にやり」


 ほくそ笑むレルムから視線をそらし、頭をボリボリと掻きながら「ああ、もう」と呟くとアルスはドアに向かった。


 湖か。

 訓練は一時間ほど、それが終わったら見てくるか。


 そんなことを考えながら、後ろ手にドアを閉める。

 視界の片隅に映る、変わることのないレルムの笑顔に心の中で舌を出しながら。





 ざわざわと、そよ風に揺られ木々が音をたてる。

 降り注ぐ木漏れ日は、その形を万華鏡のように変えながら、森の小道を進む少年の貌に影を落とす。

 下草を、土を踏みしめる音は軽い。

 戦いのための行軍ではない。ただの散策だ。歩みに緊張感など欠片もない。

 幼い頃から何度も訪れた、アルスにとっては庭に等しい場所である。


 森、といっても鬱蒼とした自然の森ではない。

 王城の傍にあるこの森は、人の手によって作られた森である。

 広さは10平方キロメートルほど。東京ドーム200個強程度の大きさのこの森は、ブナやナラによく似た落葉広葉樹や樫の木によく似た常緑広葉樹によって構成され、四季によってその姿を大きく変える。


 城寄りの半分は領主によって管理される私有地扱いであるが、残るエリアは城下の者たちにも広く親しまれる公園として開放されている。


 何処からか聞こえる小鳥のさえずりに耳を傾け、木の実を頬張る小動物の姿に目を細めながらアルスは空を見上げた。

 木々に遮られ、その姿を見ることはできないが、太陽は間もなく一番高い場所に差し掛かるはずである。


 いくらかの空腹感を覚えながらアルスは再び歩き始めた。


 それなりに整地された小道を10分も歩くと、視界を遮るように立ち並んでいた木々は唐突に姿を消す。

 木漏れ日は直接降り注く陽光へと姿を変え、青い空と、宝石の様にキラキラと輝く湖面が訪れる者を迎える。

 この森を作った4代領主の名にちなみ、シストロ湖という名を与えられた一平方キロメートルに満たないこの小さな湖は、夏場には領主のプライベートビーチとして事あるごとに利用される場所であるが、今はまだ晩春、浜辺に用意されるはずのデッキもパラソルも、いまだその姿はなく、夏場とは異なる静寂に包まれていた。


 傍にある木の陰に隠れ、ぐるりと周囲を見回す。

 今朝のレルムの話からすれば、侍女や父はこのあたりから莉々の姿を見たのだろうが、今いる場所から見た限りでは湖畔に変わった様子は無い。

 それではと浜辺に近づき、あちこち見て回るが何の形跡もない。


 アルスはしばし考え込むように腕を組むと、やがて苦笑いを浮かべた。

 何のことはは無い。自分は揶揄われたのだ。


 湖面が二つに割れるなど、常識的に考えてあるはずがない。

 レルムが父の名を出したのにどんな意図があるのかはわからないが、その名を勝手に使うことは無いはずである。つまりは父も一枚かんでいるのだろう。


 だが何のために。


 と、視線を湖の中ほどに移した時、それが目に入った。


 さっきまでは湖畔の樹の陰に隠れていたのか、小さなボートと、それに乗る黒い人影が。


 遠目にその顔を判断することはできないが、それでも漆黒の衣装を平時に着ているものなどそうは居ない。

 アルスの脳裏に昨日見た、少女の顔が浮かんだ。


 無意識にふらりと足が一歩前に出た。

 アルスの靴が、水に触れる。


 だいぶ離れた距離に居る相手である。船上の少女がアルスの、その靴がたてた水音──気配に気が付いたわけではないだろうが、それでもゆっくりと頭をアルスの立つ岸辺に向けた。


 遠目にも、彼女が微笑んだようにアルスには思えた。

 反射的に硬直したアルスにむけて、少女はゆっくりと左右に手を振ると、少年のいる浜辺に舳先を向ける。


 オールを手に舟を漕ぐわけでもなく、エンジンの類が動いている様子もない。

 無音で進むその船に、だが違和感さえ感じることなくアルスは自分の方に向かってくる船上の少女に手を振り返すと、ふと我にかえった。


 周りには誰も居ない。

 二人きりだ。


 急に早打ちを始めた胸を押さえ、笑顔を作る。

 出来るなら逃げだしたい。でも逃げ出したくない。

 矛盾と不純がぐるぐると思春期の少年の頭の中で踊り狂う。


 やがて音もたてず、小さな船はそのまま停止することなく砂浜へと上がった。

 湖上に、岸辺に浮かんでいるわけではない。滑るようにアルスのすぐで傍まで上がったのだ。


 さっきまでの葛藤はどこへやら。その光景を前にアルスは頬を染めたまま、ぼうっとした表情で立ち尽くしていた。


 少年の視線に気が付いたのか、少女は嫣然と微笑むと何事もなかったように船を降り、何事か小さな声で呟いた。

 同時に目の前にあった小さな船は消滅する。

 文字通り、跡形もなく。


『あのひと、魔法使いですよ』


 そう言ったレルムの言葉が脳裏をかすめる。


 自分は白昼夢でもみているのだろうか。


 少女の笑顔に魂を抜かれたままの少年は、現実感の無いその光景に我に返ることもできないまま、ただ立ち尽くし、やがて近づいてくる少女の顔を正面から見ることもできずに俯いた。


 少女の素足が目に入る。

 その白さに見てはいけないものを見てしまったかのような罪悪感を覚え、アルスは耳まで赤く染めながら視線を横に反らした。。


「アルス君、だっけ。なにしてるのかなー。こんなところで」


「え、いや。散歩です。り、莉々さんは何、してたんですか?」


 返事をしながら、我ながら情けない、とアルスは思った。


 アルスは領主の嫡男である。

 将来の公爵であり、王位の継承権をも所持している。当然のように幼い頃から多くの女性からのアプローチを受け、それに対する対応を学び、その扱いにも慣れているつもりだった。


 ──それがまるっきり──


 顔の造形。それだけでここまで圧倒されるものなのかと思う。

 反らした視線を僅かにずらし、視界の隅に彼女の顔を置く。特に何か表情を作っているわけではない、自然な貌がそこにある。


「あたし? あたしは、これよ。これ」


 そういうと莉々は手に提げていたものを胸の高さに持ち上げた。


 黒く、長い棒とバケツの様な入れ物。

 莉々に誘われ覗き込んでみれば、中にはオクティエ(トラウトによく似た魚)が4匹。


「えと……これは?」


「いやー。まいったまいった。なっかなかルアーが決まんなくてさぁ」


 腰に手を当てのけぞる様にしながら竿で肩を叩き、どこかで聞いたおっさんの様なしゃべり口で満面の笑みを浮かべる莉々を前に、アルスは自身の頬から赤みがきえてゆくのを感じた。


「──て、釣りかよっ!」

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