アルス

 ゆっくりと手を伸ばす。

 前へ。

 少し離れた場所。視界の端に座る少女が足を組み替えるその動作に、思わず目が向きそうになるのを堪え、半眼のまま青い瞳を、意識を前方の壁に向ける。


 下腹部に、ありもしない力の塊をと強制的にでイメージする。


 イメージ。

 それが全てだ。


 鍛錬を始める前、少女はそう少年に告げた。

 ゆるりと。どろりと。

 下腹部に重さを作り上げる。

 それはやがて本当にある様な錯覚を少年にもたらした。


「そう。そのままその塊を練り上げて。自分の血の中に溶けこませて」


 少女の声に再び心が揺れる。

 必死にそれを抑え込み、声のとおりに塊を血肉に溶け込ませる。

 やがてそれは血管を通り、少年の体を循環してゆく。


 伸ばした指先にピリピリとした感覚が走る。


「指先にマッチの火をイメージして。できる?」


 イメージ。火。


 少年の額に汗が滲む。


「無理かな? うーん、じゃぁ、復唱して」


 少女の方に目を向けることなく無言でうなずく。

 今、視界に何かを映したらその瞬間にこのイメージは消滅する。

 それほどに少年のイメージは危うく、脆い。


「火の聖霊、イグニスの片鱗。火の子らよ。わが声を聞き、その力の片鱗をわが前に示したまえ」


「火の聖霊、イグニスの片鱗。火の子らよ。わが声を聞き、その力の片鱗をわが前に示したまえ」


 少女に続き、復唱する。

 同時にそれまで下腹部に残っていた力の塊が激しく脈動を始めた。


「われは聖霊の祭壇にひざまずき、奇跡を願い、祈るもの。その父と子に奇跡を願い、祈るもの」

「われは聖霊の祭壇にひざまずき、奇跡を願い、祈るもの。その父と子に奇跡を願い、祈るもの」


 脈動がじわり、と一点に集まりはじめ、すでに血肉と溶けあい、指先へ繋がっていた力と融合してゆく。


「祭壇に捧ぐは生命の灯。我が欠片。対価をもって奇跡を示したまえ」

「祭壇に捧ぐは生命の灯。我が欠片。対価をもって奇跡を示したまえ」


 ──熱い。


着火フリント

着火フリント


 パンと音が鳴る。

「──っつ!」


 同時走った指先の痛みに、少年は思わずしゃがみ込むとその指を押さえた。

 それだけだ。

 少年の指先から火が出ることは無い。ましてや炎の弾丸が飛び出すこともない。


「まぁ、こんなもんかな? 練習したら中級くらいまでならいけそうだけど、やっぱNPC一般人レベルよねぇ」


 少女の声に少年は振り向くと、すぐそばに置かれたガーデンチェアに座る声の主に目を向けた。


 まだ慣れないせいだろう。彼女を目にするたびに少年はその頬を赤く染める。

 美人は3日も見れば慣れると誰かが言っていたが、本当に慣れる日など来るのだろうかと少年は思った。


 黒いミニドレスを纏った浅い金髪の少女がそこに座っていた。


 頬杖をつき、優し気な、だがどこか眠そう目で。

 少年──アルスを見つめながら。





 初めてその少女と会ったのはほんの数日前の事である。


 夕刻、父からの呼び出しを受け執務室に向かい、重厚な扉に手をかけた。

 扉を開ければいつものように大ぶりな机の前に座る父の姿がある。

 そのすぐそばに母と、見知らぬ少女の姿があった。


莉々りり・クレイブン。永遠の17歳です」


 少女はそう名乗り、微笑みを浮かべるとスカートの裾を軽く持ち上げ、膝を曲げた。


 アルスは口を半開きにしたまま動かない。


 彼自身も少女の横に立つ母譲りの、比較的整った顔立ちをしてはいる。

 カルマート一の美人。そう呼ばれた母の子だ。

 武人の様にいかつい風貌の父と違い、少年期特有の、その中性的な印象もあって、まるで少女のようにも見える。

 だが莉々の、それとは異なる別次元の美しさに、少年はまるで魂を抜かれたように立ち尽くし、母の咳払いで我に返るその瞬間まで、目の前の少女を呆然と見つめていた。


 レースやフリルで飾られた黒い、華美なミニドレスを着込んだ少女。

 肩で切りそろえられた浅い金髪に白い肌。暗い赤で染められた唇。濃い目のシャドゥで彩られた瞼の向こうの蒼い三白眼。


 あまり見かけない、奇妙な風貌ではある。

 だがそれが少女の美しさや可憐さを損なっているようには思えなかった。


 莉々はゆったりとした足取りでアルスに近づき、前かがみになると少年の頭を撫でた。

 莉々の身長は160センチ程だろうか。この世界の17歳女性としては小さい部類に入る。

 一方、11歳のアルスの身長はこの世界の平均値に近い150センチほど。

 頭一つ程の身長差もない。

 普通に考えれば、わざわざ前かがみになる必要もないし、既に思春期に入りかけた少年からすれば、小さい子供でもないのに頭を撫でられるというのも望ましい事ではない。

 そう思いその手を跳ねよけようと頭では思うも、アルスの体は硬直したまま動くことは無かった。

 前かがみになった莉々の胸元と唇に、目が吸い込まれそうになるのを必死でこらえるので精いっぱいである。


 少年の様子に莉々はかすかかな笑みを浮かべると、その瞳を覗き込んだ。

 同時に彼女から漂う芳香に、アルスは顔を赤らめうつむき、そして──。





「恋、ですね? アルス様」


 部屋付きのメイドにそう声を掛けられようやく我に返ったのは、外出するからと、父が莉々と母と伴い執務室を後にした、その数分後の事である。


「……びっくりした」


「ですよねぇ。あんな綺麗なお姫様。わたしも見たことがありません」


 少年の口からこぼれた感想に、部屋付きのメイドであるレルムは微笑を浮かべるとアルスと共にドアを見つめた。


 クラルからの説明によれば、彼女は異国の人間であるらしかった。

 異国というのがどこを指すのか、アルスに詳しい説明は無かったが父からその点の説明がなかった以上、聞くべきではないのだろう。

 どのみち何処の生まれだろうが王国の人間に変わりはないのだ。気にする必要もない。

 気にする必要もない、が。


「……うん」


 意図せず漏れた返答に、レルムがにやりと笑う。


「いやですわ。アルス様。わたしというものがありながら他のお姫様に心移りなんて。って、聞いてます?」


「……うん」


 何かしら面白い返しがあることを期待して投げかけた軽口ではあったが、いつもなら帰ってくるはずのリアクションも、今日は望めそうにない。


 ──初恋の相手は自分だと思っていたのになぁ。


 そんなことを思いながら、それでも少年が異性を強く意識する初めての光景に、レルムは微笑みを浮かべた。

 姉というのは、こんな気分なのだろうな。と、どこかで思いながら、こちらに目を向けることのない幼い主に小さくお辞儀カーテシーをすると、レルムはお茶の用意をするために席を外した。


 彼女の気持ちなど知る由もなく、アルスは一つ溜息をつく。


 まだ、心臓が早打ちしている。

 彼女に撫でられた父譲りの栗色の髪に触れ、何処かまだ彼女の匂いが残っている気がして目を閉じた。

 同時にさっき見た少女の唇が浮かび上がる。


「ぃぇぐっ」


 思わず口から洩れたおかしな声に、あわてて両手で口を塞ぐと、アルスは悶絶しながら膝をついた。

 はぁはぁと息を荒くしながら、最後の父の言葉を思い出す。

 自然と頬がほころび、そんな自分に再び悶絶する。


「これから莉々嬢はこの城で共に暮らすことになる。アルスよ。仲良くしてやってくれ」

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