第三章

プロローグ

 その日、世界の片隅で戦いがあった。

 国の城壁を守り、迫りくる無数の魔物を相手に勇者たちは戦い、血を流し。

 だが結末は誰もが望むものではなく──


 それは世界の片隅でのこと。

 世界のすべてで戦いがあったわけではない。





 例えばそこは見渡す限りの碧。

 大陸の東端、桜州の沖合い20キロメートル。


 空には雲の一つもなく、風は穏やかにそよぐ。

 最後の日にしては、あまりにも穏やかな海。


 波にゆられ、一隻の小舟が進む。

 船上には人影が一つ。

 黒いローブに黒いウィザードハット。

 それは舟の中ほどにちょこんと座り、竿の先端から垂れる糸を眺めていた。


 降り注ぐ初夏の日差しが、黒い影に更に濃い影を落とす。

 季節外れなその姿は、しかし季節が演出だけのものであるがゆえに、影に汗の一つも要求することも無い。


 影は目の前に表示された時計に目を向ける。

 時刻は夜の10時50分。

 間もなくエレミヤで最後の戦いが始まるはずである。


 人影は立ち上がり、帽子を脱ぐと、それを胸にあてた。

 静かに黒い太陽に黙礼をする。


 少女の顔がそこにあった。

 瞳の色は海と同じ碧。

 肩で切りそろえられた浅い金髪が風に揺れる。

 プレイヤーの例にもれず、美しいと言える顔立ちがそこにあった。

 ただし、眠そうな、やる気のない顔である。

 もっとも本人的には儚げで、憂いを秘めた、がコンセプトで作り上げた顔であったのだが。


 やがて帽子を被りなおすと,どこかだるそうに少女は首を巡らせた。


 はるか遠くに白く霞むアストレアの大地が三白眼に映る。


 一つため息をつくと、脇に置いたままの釣り竿を手に、再びに水面に意識を集中させた。


 今の彼女にとって、そこは遠い彼の地と等しく戦場に等しい。

 目の前で荒ぶる魔物を打ち倒すわけではない。

 敵は目に見えぬ水の底。はるか遠くに居る。

 彼女にとっての弓は竿。

 放たれる矢は細い糸。

 まだ見ぬ強敵釣果に思いをはせ、獲物矢につらぬかれる餌に食いつくその瞬間を──


「ていうか、酷くない?いきなり通話きるとかさー」


「しつこいんだもん」


 少女は何処からか聞こえた声に返答をする。


「いや、だからぁ。そう言わず最後くらいやろうよー」


「めんどくさい」


「いいじゃん。アタシだって久方ぶりに本気モードで──」


 食い下がる声の主は見えない。

 少女は水面に目を向けたままその声にこたえる。


「あたしだって本気だもん。でるよ、きっと最後くらい。レジェンド級の大物が!」


「いや、でねぇって」


 声は二人分。

 人影は一人分。


「つか今なにしてんのさ」


「スクショとってた。最後の。ちょっとかっこいい感じで」


 通常、音声会話は至近距離の相手にしか行えない仕様であるが、サードパーティーのチャットを利用しての音声会話は可能である。

 これによって遠距離の相手との会話を行いながらゲームを進行するものも居るにはいるが、やはり少数派といえる。


 理由はラグの発生。


 開発側がサードパーティーのソフトウエアの使用を良しとせず、あえて別ソフトの起動を確認するとそれが発生するようにしたのではないかとも言われているが、真偽のほどはわからないままである。


「ああ、もう駄目だ。エルド出た。始まっちゃう」


「がんばれ、遠い海の上から君たちの健闘を祈っているよ」


 そういうと、誰が見ているわけでもないが少女は胸で十字を切った。


「間に合う間に合う。今からでもアンタなら。飛べば間に合うから!」


「君は君の戦場を行け。あたしにはあたしの戦いが待ってる。以上」


 言葉と同時に画面横の通話アイコンをクリックする。

 それきりもう一人の声は聞こえなくなった。


 少女はちらりと黒い太陽に目を向けた。

 ここからでは何の変化も見えないが、おそらくはあの太陽から無数のMOBが零れ落ち始めているはずである。


「今更、戦ってもねぇ」


 呟きながら、わずかに感じた引きに合わせ、リールを巻きあげてゆく。


「ちっ」


 舌打ちと共に引き上げられたのは、全長20センチほどのカサゴに似た魚である。


「大物。来ないなぁ」


 少女は独り言ちると再び竿を振る。

 ゲーム終了まであと一時間。

「海にもラスボスはいる筈だ」と、ここ数年はこればかりしてきた。

 報われないと、本当は理解しながらも。





 ふと、少女は目を開いた。

 いつの間にか眠っていたらしい。


 ひとつ伸びをしながら、何気なく太陽を見た。

 いつもと同じように。


 違和感はない。

 太陽とはああいうものだ。

 直視などできるはずのない、眩しいもの。


 視線を腕で隠し、光を遮り、そこで少女は初めて気が付いた。


 何故眩しいのか。と。


 ──暑い。


 そう思いながら、額から流れる汗をぬぐう。

 ぬぐいながら自身がHMDを被っていないことに気がつき、自身の手を見つめた。

 視界には当たり前の景色しか存在しない。

 ステータス表示も、会話のログも、スキルの一覧も何もない。


 首を巡らせ、遠くに見えていたアストレア大陸の影を探す。

 それがどこにもないことを確認すると、少女はストレージから地図を取り出した。

 地図には大陸と、その周辺の海域が記載されている。

 その地図上に、自分の居る位置は常に表示されるようになっているはずだった。

 ──が。


「ここには居ない、わけね」


 そう呟き、再び眩しい太陽を見上げる。


「あー、なんでこんなに落ち着いてるかね。あたし」


 潮の匂いを含んだ風が鼻孔をくすぐる。


 ──異世界転生? いやいやいや。勘弁してください。


 口元に手を当て考え込む少女の前。舳先に見たことのない海鳥が停まった。

 ひとしきりキョロキョロとすると猫のような鳴き声を上げ、再びはばたく。


 深くため息をつき。指でローブの襟元を引っ張る。

 汗ばむささやかな胸元に目を向け、頭をポリポリと掻くと黒いローブを脱ぎ、ストレージポーチにしまい込んだ。

 ローブの下に着ていたのはゴシック調のミニドレスである。


「釣り船で遭難する、ゴスロリ衣装の美少女」


 顔を覆うように項垂うなだれると、指の隙間から変わらぬ海を見た。

 再び海鳥がニャーと鳴く。


「あたしは何処のジョン万次郎よ」

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