レクイエム
「ひぐっ」
背後から聞こえたそのおかしな声に、カーライルは振り向いた。
危険がもうないことはわかっている。残された仕事はいつPOPするかわからないMOBに対する警戒のみ。
故にカーライルは階段付近に待機させたウォルター共に、行為に没頭している顧客の警護に徹していた。
とはいえ彼らはファイナルクエスト前までは、まったくの一般人。
所詮素人である。
顧客の行為をじっと監視するわけにもいかず、周囲にのみ注意を払い、肝心の警備対象からは目を離してしまった。
ここは初心者用のダンジョン。
先ほどまでの様に客に商品の吟味をさせているわけではない。
カーライルからしたら雑魚MOBなどいくら湧こうが蹴散らせばいいだけの話であり、問題となるのは階下から上がってくる別の冒険者だけである。
その点は階段付近に配置したウォルターが何とかするだろう。その為にカレルの死体を彼の傍に置いているのだ。
「ともに上がったメンバーが死にそうだ。助けてくれ」
とでも叫ばせればバカな冒険者たちは二人を塔から逃がすために出口へと向かうだろう。
このあたりを探索するような冒険者は初心者だ。
死体かどうかも正しく判断などできないし、まともな回復薬も持ち合わせてはいまい。
その間に顧客と商品を連れて転移をすればいい。
今、顧客の前に居るのは薬で弛緩した女性が二人。
カーライルからしたら、もう仕事は終わったも同然の筈だった。
そう。問題は無いはずだった。
ガリっと、カーライルの奥歯が鳴った。
目に映ったものは倒れ伏し、動かない中年男性。
その横には弛緩したままの青い髪の少女。
二人の背後には──
「誰だ。おまえ」
問いかけながら、カーライルはダガーを構える。
背筋に冷たいものが流れる。
黒い髪の女がそこに居た。
目を閉じたまま、ただそこに立っている。
服は身に着けていない。
かわりに長い髪が女に絡みつき、それがまるでドレスのように見えた。
カーライルは自身の背後に立つウォルターに指で指示を出す。
黒髪の女からはウォルターの姿は死角となって見えない筈だ。
その指示にウォルターは視線で頷くと、悟られぬようにゆっくりと身を低くした。
左手につけた指輪が小さく光る。
同時にその姿がすぅっと消えた。
カーライルは隙を見せないよう、ゆっくりと視線を動かす。
先ほどまで組み敷かれていた桃色の髪の少女の姿が見えない。
──どういうことだ?
カーライル目を離すことなく思考を巡らせた。
この黒髪がリディスと同一人物でないことは明らかである。
顔つきも、体つきもまったく違う。
リディスの身長は160前後。顔つきも大分幼かった。
だがこの黒髪の女の身長は180近い。
それにこの顔──
冷たい美しさだと、カーライルは思った。
これまで見た誰とも違う、まるで氷の様だと。
「誰だ。おまえ」
ふたたびカーライルは問いかけた。
答えることなくゆっくりと、黒髪の女が目を開ける。
同時に姿を消していたウォルターが背後から迫る。
カーライルの口元がニヤリと歪む。
身じろぎ一つせず、ただ立ち尽くすだけの相手である。
仮にどれほど実力差があったとしても、素肌で剣を受け止めることなど出来ようはずもない。
カレルの時と同じように。
だが──
「──っ!」
ウォルターの目が見開かれる。
彼の剣は黒髪の女に届くことなく静止した。
彼女の背に剣を突き立てる、まさにその直前で。
何が起きたのかとカーライルが片眉を寄せる。
自分の方を振り向きもしない女の背を前に、ウォルターの体はまるで金縛りにでもあったかのように動かない。
それでも首を振り、あらん限りの力で、目に見えない呪縛から逃れようとする。
その表情に明確な怯えがあった。
目が、カーライルに助けを求めている。
助けてくれと。その口が動いている。
その手が、右手に握られた剣がゆっくりと持ち上げられた。
緩慢に、じらすように自身の腹にその切っ先が添えられる。
首を左右に振る。
刃がゆっくりと腹にめり込んでゆく。
悲鳴も何もない。
やがて腹を突き抜け背から突き出した刃は、自身の手でえぐるように捩じられ、引き抜かれる。
喀血と同時に再び突き立てられた刃が、更に上に引き上げられてゆく。
ぼとぼとと、腹の内容物が地に落ちる。
カーライルが眉間に皺を寄せる。
「カレルは、こうやって殺された」
少女らしさのない、大人の女の声。
やはりリディスとは違う。
女はゆっくりとウォルターに目を向け、優しく微笑みかけた。
「まだ死ねないの。もっと苦しんで」
ウォルターの耳元でそう囁くと、女はゆっくりとカーライルに向き直る。
カーライルが険しい表情を浮かべた。
黒髪の女の瞳。
その色に。
「灰色、いや、銀か? そんな鏡みてぇな色の瞳。聞いたことがねぇな。課金でもそんなの色は無かった筈だ」
黒髪の女は答えない。
ちっ。と、舌打ちをするとカーライルがローブの中に右手を入れる。
「まいったな。お前、新規のエリアボスか何かか? 。リディスとかいう女。あいつはレイドのフラグだったのかよ」
黒髪の女はカーライルの問いかけに微笑で答えた。
背筋に怖気が走る。
彼女の目に、明らかな憎悪を感じて。
「あなたも死ぬの。今日。ここで」
「はっ。出来んのか? たかだかこんな、初心者エリアのボスごときが」
そう言いながら、しかしカーライルは舌を巻いていた。
レッドローブは犯罪者集団である。PKにも手を染める。
相手の確認。わずかな情報の不足すらも補うため、鑑定のスキルも取得しているものも多い。
カーライルもその例にもれないが、彼の目には何も映らなかった。
名前も。性別も。クラスも。
鑑定は成長するスキルではない。
相手が最高位の存在であっても、名前などの基本情報は手に入る。
それが何もわからない。
それが何を意味するのか。
──試すか。
そっと懐から出した手をだらりと下げる。
その指が、わずかに動く。
同時に小さな光が黒髪の女性に向けて走った。
視認できるような速度ではない。光は音もたてず黒髪の女性の肩に突き刺さり、消滅した。
カーライルがにやりと笑う。
結晶化した麻薬の針。
サイファも、リディスも、この光に撃ち抜かれ自身を崩壊させた。
だが、女の態度に変化はない。
──効かねぇ、か。
両の手にダガーを持ちなおす。
仕掛けようと身を低くしたカーライルの動きが止まった。
女が見ている。
おそらくは針が刺さったであろうその場所を。
指でそっと撫でる。
ゆっくりと、カーライルに目を向けた。
「何人…」
抑揚のない言葉。
そこに込められたものにカーライルが無意識に後ずさる。
殺気。
溢れるほどの。
「何人壊したの?」
女が言葉を続ける。
本能が逃げろと叫ぶ。
あれは初心者用のボスなどではないと。
女の脚が、一歩前に出た。
カーライルの口から「ひっ」という小さく声が漏れる。
覚えがある。この感覚。
日本で薬を売っていた時に一度ヤクザに拉致された。
拳銃を突き付けられ金を要求された。
断ると脚を撃たれた。
『じゃぁ死ね』
そう言って笑った男の顔。
ああ、怖い。
それよりも、もっと──。
「さぁな。忘れたよ。10や20じゃ効かねぇ。稼がせてもらったぜ」
恐怖を押し殺し笑って見せた。黒髪の女にむかって。
脚がガクガクと震える。
失禁しそうになるのを必死にこらえた。
目の前の相手は上位のボスなのだろう。
塔の上層。狭い空間に出現するということは大規模レイドではない。
剣神のように、パーティー単位で相手をするレイドか。
カーライルはそう思った。
今回は無理だろうが借りは返す。
何度死のうが自分はプレイヤーである。
蘇生して、それからすぐに──。
「そう…」
女の呟きカーライルの思考が止まる。
息をのむ。喉が渇く。
いつの間に手が届きそうな、その距離にある女の目がカーライルの瞳を覗き込んだ。
嗤った。
冷たい目で。
憎悪に満ちた目で。
いつの間にかカーライルの股間から湯気が上がっている。
恐怖だ。
意味のわからない恐怖。
カーライルはそれに支配され、それでもその目は、鏡のような女の瞳から離すことはできず──。
やがて目の前のつややかな唇が動いた。
小さな、吐息のような声が告げる。
「じゃぁ──死ね」
──瞬間。
世界にノイズが走った。
反射的に目を閉じ、ふたたび瞼を開ける。
目の前に広がるのは闇。
それは何処までも深く、だが、まるで切り取られた様に自分の姿だけが浮かび上がっている。
状況など理解できるはずもなく呆然と闇を見つめ、やがてカーライルは思い出したようにキョロキョロと周囲に目を向けた。
この景色自体には覚えがある。
深い闇、足元に流れる白い霧。
ゲームをやっていれば当然のように、なんどもなんども訪れる場所。
──
攻撃された覚えはない。
女の呟きがあった。直後に世界は暗転し──
「おれは、死んだのか?」
誰もいない世界でカーライルは呟いた。
拍子抜けではある。
ウォルターがそうであったように、それなりに拷問じみた行為の後に殺されるのだろうと思っていた。
「ぬるいな」
カーライルは口端に笑みを浮かべた。
「まぁ、こんなもんか」
呟きながら蘇生をイメージする。
場所は、ああ。元の場所はダメだ。
あの女ボスが居る、業腹だが装備は諦めよう。
赤の神殿で蘇生を──
目をとじる。
次に目を開ければそこには神殿があるはずだ。
何度も経験していることだ。
ゲーム時代は表示されるダイアログをクリックしてそれを行っていたが、今は違う。何から何までイメージが全てだ。
そう思いながら一連の動作を行う。
だが。
「どうなってる」
カーライルは闇の中で問いかける。
蘇生が成らない。
何度試しても目の前の光景に変化はない。
「おい」
誰もいない中空に声をかける。
「おい。不具合だぞ、GM。聞いてんだろうが。──おいっ!」
返事などあるはずがない。
それを承知でカーライルは呼びかけた。
ログアウトができない。
それは確かに問題だ。異常事態であることにかわりはない。
だが、少なくとも孤独ではなかった。
「返事しろ。おい、GMコールだ。おいっ!」
呼びかけながら、眼球が目まぐるしく動く。
上へ、下へ、右へ、左へ。
映るものは闇だ。どこまでも果てのない闇。
ここにあるのは冷たい闇だけ。他には何もない。
──このまま、おれはここに居るのか? ずっと? 一人で?
恐怖がカーライルの心を支配する。
人は、闇に対する耐性を備えてはいない。
人は孤独に対する耐性を備えてはいない。
それは人を破壊するのに十分なものだ。
声を荒げ、闇の中で呼びかける。
何度も、何度も。
こたえのないまま呼びかけ続け、何時しか疲れ果て、カーライルは膝をついた。
「何なんだよ、これ」
項垂れ、独り呟く。
「何なんだよ、これっ!」
「何なんでしょうねぇ、これ」
怒声に、笑いを含んだ、女の声が返ってきた。
いつの間にか目の前に、白いインバネスコートを着た少女が座っていた。
赤い髪に薄い紫の瞳。
少女は右手を上げ「よっ」とカーライルに挨拶をすると頬杖をついた。
その目に嘲笑の色を浮かべ、口端をきゅうっと吊り上げて。
目の前に現れた少女に見覚えがあった。
GMだ。確か最終イベントでガイド役をしていた二人の内の片割れ。
名前は確か──。
「…ニース」
「お。ちゃんと覚えてくれてるんすね。やー、プレイヤーと話すのも久しぶりですよー。変な感じっすねー」
少女は屈託なく笑う。
目に、感情の色は見えないが。
「どういう風の吹き回しだ。世間様がログアウトできなくて騒いでた時は、いくらコールしても出てこなかったのによ」
「にひひ。それはまぁ、興味本位? そんな感じ、って感じ~?」
「あ?」
先ほどまでの怯えは何処へ行ったのか、彼女の返答にイラつきを隠せずにカーライルは眉間に皺を寄せた。
ゆっくりと立ち上がり、膝をはたきながら「このクソガキが」と呟くとポケットに手を突っ込み、まるで威嚇するかの様に座ったままのニースを睨みつける。
「どうでもいい、蘇生ができねぇ。どうなってる? すぐに蘇生させろ」
「出来るわけないっしょ? だってお兄さん、死んでるし」
語気を荒げるカーライルに、ニースは笑顔のまま、手をひらひらと動かしながらそう答えた。
「そんな事はわかってる。だから蘇生を──」
「だーかーらー。死んでるんすよ。お兄さん。正真正銘ね。生き返るわけないっしょ? リアル世界でそんなことありましたー?」
ニースはいかにも『面倒くさい』と言わんばかりに頭を掻きながら立ち上がると、小さく伸びをした。
カーライルが口を開けたまま、大きく目を見開く。
頭の中で彼女の言葉を反芻する。
死などプレイヤーとは無縁なはずであると。なのにこの女は何を言っているのかと。
考えもしなかった可能性に足の力が抜けそうになる。
「死?」
「そっ。死んじゃってるのに生き返るとか、まず無理っしょ?」
カーライルの表情に明らかな動揺があった。
ふらり、と一歩前に出る。だが足が何かに絡まったかのようにうまく動かない。
よろけながら、それでもカーライルはもう一歩前に出た。
「いや、死んだって蘇生は出来るはずだろうが。いままでだって──」
「ぶっぶー」
「だって、ここは
詰め寄り、ニースの肩をつかもうとする。が、掴みかけた瞬間、彼女の姿は目の前からか掻き消えた。
空をつかんだその手が泳ぐ。
反射的にカーライルは周囲に目を向け、消えたニースの姿を探した。
「おにいさん、まだゲーム気分とか。理解力が足りないなー。まぁ、グラムちゃんたちもあの話、公表してないから、しかないのかもしんないけど」
背後から届く声に振り向く。
「どっちにしてもそれはね、プレイヤーだったらの話」
後ろ手に、小首をかしげたニースが立っている。
「あの子にはね、死に対する権限が与えられてるんすよ。ゲームの頃でいうなら
「何を…言って…」
つうっと、額から汗が落ちる。
喉が渇く。呼吸が苦しい。
「つかね、ここ。そもそも
少女の、赤い唇が吊り上がる。
「──地獄だよ?」
「──っ!」
同時に何者かに脚を掴まれる。
ずぶずぶと足元の深い闇に飲み込まれる。
幾つもの白い手がカーライルを闇に引きずり込もうと掴みかかる。
「あははは。おめでとう。おにいさん。あんたね、この世界で初めてリアルに死んだ最初の
その手に口を塞がれ、声を発することもできずカーライルの体が沈んでゆく。
もがいてももがいても彼を押さえつける手は力を緩めることは無く、逆にその数を増していった。
悲鳴を上げることも逃げることも許されず、それでもカーライルは辛うじて動く左手を伸ばした。
あるはずのない、助けを求めて。
「見たかったんだー。アンタみたいなクソがどんな目に合うのか」
ニースは笑う。さっきまでの少女らしさなど微塵もない。
残忍な、加虐主義者の様な顔で。
「絶望的な顔をするのはまだ早いっすよ? だって、ここはまだ入り口だもの」
ニースの凄惨な笑みが、何本もの腕越しにカーライルの目に入る。
毛穴から生えた誰かの小さな手がぐるぐると目の前で踊る。
無数の手に腹を引き裂かれ中身を裏返しにされながら、臓物を口の中に捩じりこまれる。
ケタケタと笑う、蟲に半ばまで喰われた誰かの顔がその視界を塞いだ。
「どんな地獄かな~? 元々この世界にあったやつ、それにアストレアのとあの子の思い描く地獄の混成だからね~。なかなかしんどそうで、ニースさんたらワクワクしちゃう」
一瞬、白い手が口から離れた。
「かふっ」
胸に詰まった空気を吐き出す音。
それと同時にカーライルの姿はとぷん、と、闇の中に沈んだ。
ふたたび、世界は静寂に包まれる。
ニースは男の沈んだ闇を見つめ、静かに目を伏せた。
「まっ、八つ当たり的なとこがあるのも確かで、災難かもしんないけどね。あの子はあんたと加害者どもを重ねてるからさ」
呟くその口元に、もはや笑みは無い。
「それでも罪は罪だ。永劫に狂うことなく苦しめばいいと思うよ。これから行くその地獄で。あの子が創った、その世界で」
最後にもう一度、男の消えた場所を一瞥すると、ニースは背を向け歩き始める。
その足が、ふと止まった。
思案気にこめかみに指先をあてる。
「あの子、か。ああ、そうか。名前、あの子の名前。何だっけ?」
視線が宙に向かう。何もない虚空に。
「テミスが言ってた。この世界に元々あった死と再生の女神の名前だって。──前の世界にあった曲とかと同じ名前で、たしか──」
──偶然にしてはできすぎてるな。
そう思いながらニースは呟いた。
テミスから聞かされたその名を。
この世界の慈母たるもの。
死と再生をつかさどるもの。
その名は。
「──レクイエム」
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