テミス
目を開ける。
そこに広がるのは闇。
城郭から見えた景色はそこにはない。
ふと、隣に目を向ける。
そこにあるのは変わらぬ闇だ。
青い髪の少女は居ない。
ああ、夢だったのか。
塔子はそう思った。
膝をついたままの姿勢で、
頭を垂れたままで。
視界の端に白い足が見えた。
顔を上げる。
ああ、きれいだなあ、と塔子は思う。
目の前の白い影。
銀の髪。薄い紫の瞳。白い肌。
小柄な、可愛らしい。
抱きしめたら折れてしまいそうな程に華奢な、美しく、はかない影が。
白い少女が囁く。
「あなたは迷い込んだのね。この世界に」
答えることなく、塔子は白い少女を見た。
「あなたは誰?」
問いかける声にリディスの面影はない。
あれは詩織の声なのだ。
「テミス。GMの──いいえ。終わりを告げる者の一人」
テミス。
そう名乗る少女の言葉の意味が分からず、塔子は首を傾げた。
「ここにリディスは居ない。だけどあなたはその子をこの地に連れてきてしまった」
静かに言葉を紡ぐテミスの姿を、塔子はただ無言で見つめていた。
「あなたたちプレイヤーはすべて、
塔子にはテミスの言葉の意味がわからない。
元より深くこの世界に関わっていた訳ではないし、そもそも塔子の記憶は、ファイナルクエストの、あの瞬間から止まったままなのだ。
「だけど、あなたはそれを拒絶した」
「拒絶?」
「そう、あなたは──」
テミスはこくりと頷き、ゆっくりと人差し指で塔子を指し示す。
「あなたはこの地で詩織の声を聴いた」
口元にを当てる、リディスの声。それは詩織のもの。
「詩織が生きたもう一つの世界を知った」
町の喧噪。たわいもない会話。見知らぬ人々。大切な友達。
「詩織の
ずきり、と、胸が痛んだ。
「リディスは、詩織は居たのよ。この場所に」
抑揚もなく、テミスの言葉は続く。
塔子はわずかにかぶりを振ると彼女から視線を反らし、両手で顔を塞いだ。
「ちがう…」と、塔子は呟いた。
リディスの心は、詩織は居ないのだ。
確かにリディスの声を聴いた瞬間に、塔子は詩織を感じはした。
詩織の声で話す詩織の分身。
だがそれは塔子であり、詩織ではない。
以後の記憶が欠落していようと、それは塔子であって詩織ではない。
「居ないわ。詩織は。
「違うわ。アレは詩織。あなたがこの世界で生み出したもう一つの──」
テミスの言葉に、塔子は思わず目を見開いた。
「別の、人格?」
震える声でテミスの言葉をつなぐ。
ああ、そういうことか。と塔子は思った。
わかっていたことだ。
この一年、自分を失い詩織として生きていた。
自分でもそう言っていたではないか。『あれは私だ』と。
矛盾していることはわかっている。今更、なんでショックを受ける必要がある?
何のことは無い。ただ再確認しただけの話ではないか。
他に説明のしようなどない。結局のところもう自分は壊れているのだ。
二重人格。
ファイナルクエストから今日までの記憶がないのもあたりまえ。
自分はもうとうに壊れていて、今日まで別の人格が主導権を握っていた。
自分で作り上げた願望。偽物の詩織。
ただ、それだけのことだ。
そう思いながら、知らず口元が歪む。壊れた、笑いの形に。
ならいっそ、あのまま消えてしまえばよかったと。
そうすれば──
「──いいえ」
そんな塔子の様子を横目に、テミスは言いかけた言葉そう区切ると小さく首を横に振った。
「それは死者の魂というものなのかもしれない。わたしはオカルトなんて信じないけど、この世界でなら、あるいは」
そういうとテミスは塔子の左手を見つめた。
いつか誰かが握りしめた、その手を。
「世界変異の狭間で、あなたは詩織の存在を強くイメージした。ここはあの子の居場所だと。同時にあなた自身は世界に存在することを拒絶した。──もっとも、この世界だけじゃないけどね、あなたが拒絶したのは」
最後の方は呟きに近く、塔子の耳に届くことは無い。
聞き取れなかったその言葉に、塔子は首をかしげた。
「でも、
塔子の目が、テミスを見た。
汚された。
その言葉に、意図せず眉間にしわが寄る。
「詩織がそうであったように。リディスもまた」
テミスは目を反らすことなく、塔子を見つめる。
「繰り返し、大切なものを奪われて──」
穏やかな表情に変わりはなく、淡々足した口調にも変化はない。
「繰り返し、それに抗うことを許されず」
なのに、なぜだろうかと塔子は思った。
「繰り返し、貴方は亡骸を抱きしめ続ける」
なぜこの人はこんな話を私にするのだろうかと。
「ねぇ、貴方は何を望むの?」
なぜこれほどまでにこの人は怒っているのだろうかと。
「聞かせて。あの日、最後に貴方は、何を望んだの?」
塔子は答えない。
彼女の望みなど一つしかない。それが叶うはずもない。
そのうえでそれを言葉にしたら、自身が壊れてしまう気がした。
いや。もう、壊れているのか。
「力をあげる。貴女に」
テミスはゆっくりとした動きで、ひざまずいた塔子に視線の高さをあわせた。
「人の世で、それを成すことはできないけれど、この世界でならそれは叶うかもしれない」
そっと、両の手で塔子の頬に触れ、薄い紫の瞳が黒い瞳を見た。
「対価はただ一つ。母であり続けること」
「…母?」
テミスは頷き、小さな微笑みを浮かべた。
「母になれなかったわたしが貴女に臨むのはそれだけ」
そういうと、テミスは瞼を伏せ、ゆっくりと立ち上がる。
何故だろうか。
なぜかふと、テミスが泣いているように塔子には思えた。
「さぁ。望みを教えて」
何を望む。
塔子は口を開きかけ、戸惑う。
やがて跪いたまま、目の前の白い少女を見上げ両の手を差し出した。
それはまるでどこかで見た宗教画のように。
「私は…」
「この世界の、慈母たるあなたに──」
足元の霧が、流れてゆく。
「──死と、再生の力を」
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