レッドローブ
力が抜けてゆく。
カレルは今にも崩れそうな膝に力をこめ、自身の腹から突き出た刃を右手で押さえた。
痛みにこらえながら後ろを見る。
動くたびに肉が裂け、傷が広がる。
まだ生きているということは急所を貫かれたわけではないのだろうが、この状況ではどのみち助からないだろう。それはカレルにもわかっている。なればこそ、事情もわからずに死ぬのは願い下げだった。
届いた視線の先に、見知った顔があった。
「…ウォルター」
「はい。カレル様」
白髪にモノクルの男がにこやかに笑う。
「何で…おまえ…」
「お役目が終わったからですよ。カレル様」
ウォルターの笑顔によどみは無い。
手にした刃を更に深く、捩じるように引き上げてゆく。
「あなたのおかげで実に安心して、お客様も商品を吟味することができました。感謝しております」
お客様とはなんだ? という質問をカレルは飲み込んだ。
無言のまま、ウォルターの視線が足元を示す。
視線の先に見たくないものがあった。
男だ。
見知らぬ男。中年の小太りな。
それがいつの間にかサイファに覆いかぶさっている。
男の下卑た息遣い。それに混じって聞こえる小さな嬌声。
聞きたくないと思った。
子供ではないのだ。何が起きているのかは理解できる。
「薬がよく効いているようですな。意識は混濁。体は弛緩。それでもほら、反応だけはしっかりと」
「やめ…ろ」
血を流しすぎたせいか、意識がもうろうとする。怒りがもはや形にならない。
その様子をウォルターは目を細め、愛おしいものでも見るように眺めた。
「彼女に恋心でも抱いていましたか? ならばその痴態を見ながら逝けるのです。幸せですな」
「──っ」
カレルの返答を待つことなく、ウォルターは一旦刃を引き抜くと再び突き立て、更に刃を引き上げた。
カレルの腹からずるりと何かが零れ落ちる。
急激に暗くなる視界と、抗えぬほどの眠気がカレルを襲う。
声も、思考も、何もかもが形にはならなかった。
ぷつり、と。全てが消える。
意識も。視界も。
「さようなら。カレル様」
ギリギリとリディスが奥歯を鳴らす。
目の前でカレルは殺され、サイファはどこから現れたのかもわからない男に汚されている。
抵抗しようにも背後で自分を羽交い絞めにする男の力は強く、抜け出すことができない。
魔法使いのリディスにとって、この距離は鬼門である。
攻撃力の高い魔法を撃つためには魔法の構成に意識を集中させる必要があるが、リディスクラスの人間が敵に密着された状態でそれを成すの難しい。
ならばと何度か電撃や麻痺などの至近距離用魔法を撃ってはいるが全て無効化されている。
詠唱が不要とはいえ、何の準備もなく打てるような魔法など、それなりに魔法抵抗のスキルを持つ者には無意味なのだ。
リディスはギロリ、と背後の赤いフードを睨みつけた。
「…あんた。誰」
目をそらすことなくリディスが問いかける。
隙あらば高位魔法の構成を行おうとするが、この男のスキルなのか、その度に頭の中にノイズが走る。
これが詠唱妨害の類なのかはわからない。
そもそも対人戦の経験などほとんどないリディスには、こんな形で魔法を妨害された経験もないのだ。
「商人さ」
おとこは口元をゆがめながらそう答えると、かぶっていたフードを脱いだ。
くすんだ金髪に浅黒い肌。
にこやかに。しかしどこか爬虫類の様な冷たい目がリディスを一瞥する。
反射的に身を固くする彼女を強引に振り向かせる両手を押さえつけ彼女の顔を覗き込んだ。
「はじめまして。お嬢ちゃん。おれはカーライル。見ての通りの悪者だよ」
おどけたような表情を浮かべ間近で笑う男の顔に嫌悪感を隠すことなく、リディスは顔を背けた。
目だけでカーライルと名乗った赤いローブを睨みつける。
「サイファを、どうする気? どうしてカレルを殺したの? ウォルターは一体何なの?」
男はリディスの疑問に頷き、ゆっくりと掴んでいた手を離した。
同時に高位魔法の準備に入ろうとするリディスの動きを人差し指で制止する。
笑顔を絶やすことなく。その指を左右にふると男は言葉を続けた。
「
「商品?」
「ああ。プレイヤーは美人揃いだからな。エルフなんかよりもずっと。だから常に好事家のニーズはあるんだよ」
横目でサイファに覆いかぶさる男を見ながら、赤いローブが嗤う。
いびつに。
「ずっと見てたんだぜ。
いつの間にか赤いローブの背後に立っていたウォルターが一礼をする。
その表情は初めて会った時と同じく、穏やかなものである。
「けだもの」
「ククク。そうはいってもお友達は喜んでるぜ? あんなに声を出して」
「サイファに、なにをしたの」
友達の、見たくもない痴態を見せられてリディスの声が震える。
それすらも楽しそうに赤いローブは笑った。
「薬をつかっただけだ。日本で捌いてたやつよりは大分強力なやつだがな」
「ニホン?」
「わからねぇのか?」
「何を言って──」
言いかけた言葉を赤いローブが手で制止した。
顎に手を当てしばらく考え込むような仕草をすると肩をすくめる。
「おめえの名前はなんだ?」
「名前って──」
「リディスとかいう名前を聞きてぇわけじゃねえ。本当の名前だ。
リディスは意味がわからず押し黙った。
赤いローブが背後のウォルターに目を向ける。
ウォルターがちいさく頭を振る。赤いローブはその動きに天を仰ぐと額に手を当てた。
「残念です。マスター。彼女には質問の意味が分かっていません。フリではなく、事実であると判断したします」
リディスには意味が分からない。
赤いローブが「そうか」と溜息まじりにつぶやく。
「なら用はない」
そう呟きながら額から手をはなすと、赤いローブがリディスを一瞥した。
先ほどまでとは違う、ひどく酷薄な目で。
思わず後ずさりするリディスの首に、ちくりとした痛みが走った。
「ホルダーじゃねぇなら、売り物にしかならねぇしな」
脚の力が抜ける。
意識が遠くなる。
赤いローブはぺたりと座り込んだリディスの前にしゃがみ込み、光を失った彼女の瞳を覗き込んだ。
「やっぱりなかなか居ねぇもんだな。この世界が元々ゲームだって理解してる人間は。片っ端から記憶無くしてやがる」
──この男は何を──。
わずかに残った思考は、そこでぷつりと途切れた。
赤いローブは肩をすくめ中年の方を振り返る。
「さて、お客様。こちらも初物ですよ。どうぞ味見をなさってください」
暗い闇が目の前にある。
また夢の中かとリディスは思った。
──違う。
ここには音がある。
聞きたくもない声が聞こえる。
嬌声だ。
誰の?
リディスは朦朧とする意識の中で目を開けた。
目の前に脂ぎった男の顔があった。
前後に揺れている。
そっか。と、リディスは思った。
自分は犯されているのだと。
拒絶しようにも手足は動くことなく、体が勝手に反応している。
目を固く閉じる。
口から出るのは艶めかしい声だけで、拒絶の言葉を吐き出すこともできない。
サイファも同じように意識だけが別に居て、体は自由にならないのだろうなと無意味に納得した。
聞いたことのない誰かの声と、赤いローブの声が聞こえる。
「すごいね。この。この薬は。こんな娘がこんなに──」
「でしょう? この薬は一度でこれだけの効果を発揮します。強い中毒性を持っていますので、一度使えばもう逃げることはできませんよ」
気持ちがわるい。
「ふっ。不死者にも効果はあるものなの。かね?」。
「ええ、そうです。プレイヤーですからね、一度死ねば肉体は再生可能でしょう。もっとも、この状態です。大抵は一度目で。抗っても二度、三度と繰り返せば自我など壊れます」
頭の中に怒りがこみ上げる。
「プレイヤーは肉体よりも精神が優位に立った存在です。その心が壊れてしまえば死んでも治りませんからね。正しく
「おっ。おおっ」
絶望が満ちてゆく。
殺してやる。と、頭の中で叫ぶ。
やめて。と頭の中で懇願する。
硬く瞼を閉じる。
自分の喘ぎと、男の荒い息遣い。
浴びせかけられる汚らしい言葉が頭の中でグルグルと回る。
死にたい。
死ねない。
死んでも変わらないのなら、抜け出せないというのなら──。
気が付けば、また音のない世界に居る。
真っ暗な中で。
誰もいない世界で。
見回してみても、いつもの少女は何処にもいない。
天を仰ぎ、流れない涙に頬を濡らす。
ふと、視線を感じてリディスは背後を見た。
視線の先。
誰もいないはずの世界に、それは居た。
白いインバネスが揺らめく。
真っすぐに伸びた長い銀髪が、まるで陶磁器のような白い肌にかかっている。
薄い紫の瞳が、涙に濡れているように見えた。
──ああ、あたしは死んだんだ。
何故かそう思った。
この世界において、
まつわろぬ魂であるプレイヤーは孤独なままに、
それは
少なくともそれは今の、彼女を含めた大多数のプレイヤーの共通認識である。
なのに、何故かリディスはそう思った。
この白い少女は天使で、死んだ自分を迎えに来たのだと。
ゆっくりと、少女が自分に向かって歩みを進める。
まだ10メートルくらいはある。
全てを諦めたせいだろうか。妙に心が落ちついている。
「あなたが、そうなの?」
耳元で声が聞こえた。
いつの間にか、真横に少女の顔があった。
少女の声にイメージとのズレは無い。
可憐な、優し気な。穏やかな声だ。
「あたしが、なに?」
少女の問いかけに答える。
何故だろうか。自分の声が自分のものでは無いような気がした。
自分の声は、こんなにも大人びた声だっただろうかと。
「あなたは、誰?」
伏し目がちに少女が問いかける。
「あたしはリディス。リディス・ファーン」
「違うよ」
少女の目がリディスを見た。
悲し気に。
「その人は最初から居ない。だってあの日。その人はログインしていないもの」
「何の、話?」
ログインという言葉にリディスは眉を寄せた。
いまの彼女には理解できない。
「──ずっと探していた。
ゆっくりと、少女の手がリディスの髪へと伸び、まるで絡めとるかのように細い指で遊ばせた。
リディスの視線がその指を追う。
彼女に指に絡まる髪の色は──
「あなたの髪は黒いわ。瞳も同じ」
指が瞼をなぞるように進み、やがて額にその指が触れる。
──冷たい。
指先からその感触が広がってゆく。
自身の髪の色に対する疑問は形にならなかった。
感覚が麻痺してゆく。リディスは目を閉じ、その冷たさに身をゆだねた。。
「桃色の髪の少女は、もういない筈なの。だって──」
少女が、リディスの瞳を覗き込む。
その黒い瞳を。
「──その娘はもう、亡くなっているのだから」
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