GM

 エルドは空を翔けていた。

 どこまでもどこまでも。


 まずは一旦離脱して、状況を確認する必要がある。

 もしかしたら自分たちはHMDを被ったまま何らかの機器トラブルに巻き込まれているのかもしれない。

 開発者の趣味なのか、ゲーム内にも外部と同等のコンソールがある。そのコンソールで情報を集めることが出来れば現状把握が出来るかもしれない。

 エルドはそう考えていた。


 この世界における飛行可能な高度の上限は5千メートル。そこを過ぎると世界の境界線に突き当たることになる。

 境界を越えられるのはGM権限以上の保持者のみ。何処の空からであれ、境界を超えるとコンソールルームに行き当たることになる。

 ゲームサーバーの中なのだ。空がどこまでも続いているなどということは無い。


 ──無いはずだった。


 徐々に世界が暗くなってゆく。

 上昇とともに気温は下がってゆく、体感できるはずがないのに。

 HMDからの情報が無いため、エルドが正確な高度を知ることはできない。

 だが飛翔開始からの経過時間を考えれば既に設定された最高高度は超えているはずである。


 やがて黒い影はその飛翔を止めた。

 インバネスのケープがふわりと揺れる。

 自身の目に映る光景に思考が停止する。


 なぜ、見あげた空に満天の星が輝いているのか。

 地上で見た星とはまったく違う。

 暴力的なまでの光を放つ無数の星が。


 足元に目を向ければ青く光る大地が見える。


 上空3万メートル。

 星の丸さが確認できるほどの高空。


 ずっと下のほうに渡り鳥か何かの群れであろうか、幾つもの小さな白い点が飛んでゆくのが見えた。

 流れてゆく雲がベールのように地表を覆う。

 海は日の光を浴びでキラキラと輝く。


 例えばかつて成層圏を超えた宇宙飛行士は眼下に広がる光景を美しいと評した。

 彼も同じだった。


 ふと地平の彼方へ目を向ける。

 遥かな海の向こうにアストレアよりも遥かに巨大な別の大陸がある。


 足元のアストレアはオセアニア。オーストラリアほどの大きさだろか。

 対して海の向こうに見えるのはユーラシア大陸くらいの大きさか?

 高度を更にあげる。


 ああ、やはりそうだ。

 アストレアよりもずっと大きい。


 ふと、エルドは苦笑いを浮かべた。

 自身の関心が何時の間にか先ほどまで目の前で繰り広げられていたモンスターとプレイヤーの血みどろの争いでは無くなっている。

 なんと呑気な話なのか、と。


 エルドはほかの二人のGMの到着を待った。

 HMDが消失したことにより情報やや連絡手段のほどんどが失われたが彼ら3人は隣り合う席に座りながらHMDを被っていたのだ。

 何の意識もなく、すぐ隣に声をかけるように二人に話しかけ、残る二人もそれに答えた。


 やがて下方から高速で上昇してくるがふたつ。

 悪役であるエルドとは異なる白いケープを纏った二人のGMが、エルドのいる場所へまっすぐと向かってくる。


「真一さぁぁん、なんなんですか、これぇぇぇ!」


 半分泣きそうな顔で片方の──テミスがエルドに抱き着きながら叫んだ。


「これ、マジやばくないすか。あり得ないんすけど」


 もう一人の少女──ニースも眼下に広がる光景を見つめながら、不安げな表情でエルドに縋りついた。

 エルドは二人の疑問、質問に答えられない。

 当たり前だ。彼自身状況が掴めてはいないのだから。


 それでもエルドはテミスの頭を撫でると「大丈夫だよ、友里さん」と、声をかけた。


 ふと、視線を感じる。

 どこからだ、と、エルドは周りを見渡してみるも3人以外誰もいない。

 当たり前だ。ここは遥かな高空。誰がいるはずもない。

 ニースがエルドの様子をみて首を傾げた。


「どう──」

 しました? という言葉は、しかし続けることが出来なかった。


 急激な世界の暗転。

 エルドは息を呑み、縋りついていたテミスを強く抱きしめた。


 先ほどまで眼下に広がっていた光景も、満天の星空も消失し、気が付けば漆黒の闇の中に3人はいた。


 静寂。

 音もない。光もない。

 なのに3人の姿だけが闇の中に浮かび上がっている。

 3人は状況の変化に身を寄せ合った。


 ふと眼前に小さな光が現れた。

 まるで蛍のような小さな、小さな光。


 吸い込まれるようにエルドがその光に手を伸ばしてゆく。

 人差し指が光に触れる。


 同時に世界は反転した。


 黒から白へ。

 闇から光へ。


 反射的に3人は強く目を閉じた。


 流れ込む情報。耳朶に響く大音量のノイズ。何者かの意志。

 世界の成り立ち。自分がここにいる理由。


 自分ではない誰かの意識と記憶が自分の中に流れ込むのをエルドは感じた。

 自我がそれを拒絶する。

 自身が自身であるために。

 だが容赦なく流し込まれる情報は一切の拒絶を許さず彼らの脳を侵食し続けた。

 時間にしてほんの数秒。だがそれは永劫の時にも感じる程の長さだった。


 やがて再びの静寂。


 3人が再び目を開けた時、世界は元通りその美しい姿で眼下に広がっていた。


 ああ、と思った。

 そういうことなのか、と。





「──つまりね、その時わかったのさ。思い知らされた、のほうがいいのかな? 文字通り」


 エルドは変わらずにこやかにグラムに告げた。

 星の海で起きたことを。


「何がだ」


「僕と混ざり合ったその意志──神様はね、ゲームのデーターを利用して僕たちをこの世界で再現したんだそうだよ。転移じゃないのかよーって、ニースは騒いでたけど、他所よその世界の魂をここに持ってくることは出来ないらしくてね。だからデーターを利用して、この世界の魂で再現したんだってさ」


「再現?」


「データーくらい神様なら自分たちで作れよ、とも思ったけど前任の神様はどうにもセンスがなかったらしいね。云わばプレイヤーではあってもクリエイターじゃなかったってことかな」


「──ちょっとまて。再現ってなんだ? 転移じゃねぇって──」


 グラムはエルドの言葉を遮ると身を乗り出した。


「ああ、やっぱりそこか」


 エルドは両手を軽く合わせると小さく笑った。


「言った通りさ。僕たちとプレイヤーは別の存在だ。睦月がこの世界に来たわけじゃない。君は、君の魂も含めて正真正銘、ここで生まれた育った存在ってこと」


「おまえ、何を──」


 グラムは身を乗り出しかけ言葉を続けようとするが、それは続くエルドの言葉によって遮られた。


「信じられないのも無理はないし、無理に信じろとも言わないけどね。君がもってる睦月プレイヤーの記憶は君の物じゃない。君はただ睦月の物語を見ていて、それを自分のことだと思い込んでいただけ。その記憶にしてもいずれ忘れてしまう、いつか見た夢みたいな物なんだけど」


 グラムは言葉を失ったまま。

 エルドは彼のそんな表情を見ながら、まるで子供に言い聞かせる様に言葉を紡いでゆく。


「とにかくこの件に関してはこれ以上の説明は無いよ。例えば本気で自分をアニメの主人公と同一視してるような類の人間に、『お前は一視聴者に過ぎないよ』て言ったって認めないでしょ。それと同じさ」


「それを、納得しろっていうのか?」


「香ばしいのも結構だけどね。『疼くのかい? その右手』って、苦笑いしながら僕に言わせたい? それでホントに封印されし暗黒のなんちゃらを呼び出せるなら別だけど──って。ああ、この世界でならあり得るか」


 睨むように問いかけるグラムに、エルドは笑いを含んだあきれ顔そう告げた。


 ──こいつ。


 グラムは小ばかにされた気がしてエルドに何かを言おうとするが、結局それを言葉にすることなく、ムスっとした顔で小さく舌打ちをすると座りこんだ。

 癪にさわる物言いに苦情を並べたところで意味は無い。

 何しろ帰還どころか、世界にいるすべての人間が自己を否定されているのだから。


「あんまり深く考える必要はないよ。さっきも言ったけど前の世界の記憶なんて、いずれこの世界の記憶と統合されて消えちゃうんだからさ。精々が一部の人間の手で、夢物語程度に残るくらいのものだよ」


 口元に手を当て考えこむように押し黙ったグラムに、エルドはわざとらしく「同情するよ」とでも言いたげな表情を浮かべるとその肩にそっと手を置いた。


「君の記憶だって、もうそれが日本の物かこっちの物か、わからなくなってきてるんじゃない?」


 グラムの片眉が、ピクリと動いた。


「直近のものはまだ色濃いからね。色褪せた古い、小さい頃の記憶とかから徐々に」


 グラムは答えない。

 覚えが無いわけではない。

 ふとした時、それはすでにあったのだから。


「ともあれこれで疑問のひとつは解決かな? 帰還は出来ない。それはあの世界への侵略だからね。だって──」


 エルドはグラムの反応をうかがうようにいったん言葉を止めると、その耳元でささやいた。


プレイヤー彼らのすべてを奪わない限り、君たちの望みが叶うことはないんだもの」


 グラムが反射的にエルドに強い視線を向けた。

 エルドは答えず黙って首を横に振ると、そっと微笑んだ。


 元の世界への帰還を望むものはいまだ多い。いずれ望郷の念は薄れていくのだとしても。

 いや、望郷ではない。そうだと思い込んでいるだけだ。

 グラム自身はどうだろうか?

 本気で帰還を望んでいるかと問われても首を縦に振ることはないだろう。日本にいる両親のことは気にかかるが、今更母が恋しい年齢でもない。

 睦月の恋人は日本に残してきたが、そのキャラクターレティシアは今もともにある。

 この世界に不都合も不満もない。


 ──だが、と、思う。


 この一年で多くの者たちと接してきた。


 両親を想い泣く子供たちがいた。


 恋人を想い星を見上げる者がいた。


 未だ幼い自分の子供を想う親がいた。


 彼らを前に自分に何が言えるだろう。

 それは他人の記憶だと、お前たちは偽物だと告げることが出来るだろうか?


 沈黙は数分続いた。

 遠くで虫の鳴く声と、ジリジリと燃える蝋燭の音が聞こえる。

 俯いたままのグラムを眺めながらエルド首を横に振り、頭を掻くと言葉をつづけた。


「話を戻そう」


「…ああ」


「ともあれ彼らなりの経緯の説明、というか記憶の継承の後、僕たちに能力も何も全部押し付けて消えちゃったんだよね。その前任の神様は」


「……何故だ?」

 

「飽きちゃったんだよ。この世界に付き合うのに」


 そう言いながらエルドは天を仰ぎ目を閉じた。


「この世界は停滞し、滅びの道を進むだけだった。何度も時を巻き戻し、何度もやり直し、手を尽くしても変わることなく、ね。だから神は外部からの刺激を求めた。目に付いたのは同じく終わりかけ、それもギラギラとした生命力に満ちたあのゲームの世界だ。そのデーターを利用し僕たちを創造。同時にそこを起点に時間を遡行させながらNPCたちも創造する。やがてこの世界は元々この世界にあった文明と接触し、これまでになかった道をすすむ」


 ゆっくりとグラムの方に向き直るとエルドはおどけたように肩をすくめ、笑った。


「進歩に必要なのは改革か、戦争か。前に進むのに血が必要なのは何処も一緒だね。まぁ、いずれにせよ神様なりのケジメって奴だったんじゃないのかな」


「他人に丸投げしてケツ捲っといて、ケジメもクソもねぇだろうが」


「あははは。まったくだね」


 軽く笑うエルドを前にグラムはひとつ舌打ちをすると、伏し目がちに苦々しい表情を浮かべた。


 その横顔に目を向けたエルドの顔から笑みが消え、僅かに眉を寄せる。

 何かを見定めるように。


 やがて、うつ向いたままのグラムの口が動いた。

 聞き取れるかどうかも分からないほどに小さな声で呟く。


「まるで他人事ひとごと、だな」と。


 それきり押し黙ったまま、グラムは思う。

 自身もまたその渦中にある身であるはずなのに、なぜこうもエルドは淡々と言葉を紡げるのか。

 まるでひとつ残らず大したことではないといわんばかりに。

 GMだからというわけではない。ゲームの中ではないのだ。ならば今の彼はなぜ──


 そう思ったとき、何かがグラムの中ですとん、と落ちた。

 ああ、そういうことか、と。


 気づけばいつの間にか心臓が早打ちをしている。

 ゆっくりと。整えるように息を吐く。


「ひとつ聞きたい」


 グラムの言葉にエルドが無言で応じる。

 一つ息を吸い込むと、静かにグラムは問いかけた。


「何故日本の記憶を残した。ゲームのデーターだけで良かったんじゃねぇのか?」


「かもしれないね」


 グラムの言葉にエルドは呆れたような顔をすると小さく溜息をついた。

 。とでも言いたげに。


「だったら──」


「それも『今思えば』の話さ。今更それを言っても仕方ない。残念だけど僕たちが記憶をもったままこの世界で再構成された事実を変えることだけは出来ないんだからさ」


「なぜだ」


「仮に僕があの日を変えようとしてもあそこがすべての起点である以上、それを変えることだけは出来ないんだよ。それにね、これはあの段階では必要なことだったんだよ」


「必要? お前たちは偽もんだって、後から突き付けるのがか?」


「違うさ」


「何が違う」


「神様が欲しがったのはあの世界の人間の業の深さ、貪欲さだったからだよ」


 冷たくそう告げるエルドの目がまっすぐにグラムを見た。

 見返すグラムの左手が、無意識に置いたままの太刀を探す。


「この世界で純粋に生まれ育った人間に、君たちみたいな力を与えたってなにも変わらない。言ったでしょ? 何度もやり直したって」


 一呼吸あけ。ゆっくりとグラムの目を覗き込んだその眼が、笑っているように見えた。


「善良すぎるんだよ。この世界の人間は」


「──けっ」


 吐き捨てながらグラムは太刀を手に腰を上げた。


「要するにそっちの都合で好き勝手に俺たちをこき使いてぇってことだろ」


「あははは。その通りだね」


 エルドの返答が癪に障る。

 小さく舌打ちをするとグラムはエルドの顔を見た。


 見知った顔だ。GMになる前からこの顔だった。

 だが、プレイヤーの、真一はどんな顔だっただろうか。

 あの男はこんな人間だっただろうか。

 今の状況で。

 世界が大きく混乱し、多くの人間に助けを請われながらそれらを軽く受け流し、悠然と構え、飄々と笑い、そして──


「なんでそんなに楽しそうなんだ。お前」


 エルドの笑みが止んだ。


 ──こんな顔が出来る人間だっただろうか。


「楽しそう?」


「ああ。まるで──」


 言葉を待つエルドの片眉が上がった。


「まるで?」


「まるでおもちゃを手に入れた子供みてぇだぜ?」


 グラムの言葉に、エルドは一瞬驚いたような顔をすると思案気にこめかみに手を当てた。


 しだいに口元が歪んでゆく。

 笑いの形に。


 ──くっくっく……。


 押し殺すように。

 だがやがてそれは声をあげての明確な笑いに変わった。

 ゲラゲラと嗤うエルドに対し、グラムがジリっと距離をとる。


「──ああ、そうだね。その通りだよ、グラム」


 腹を抱え、目頭をおさえ、涙を流し。

 嗤いながらエルドは告げる。

 友人の口からなど、聞きたくもない言葉を。


「僕は楽しくてたまらない。僕たちの掌の上で踊る君たち、もがいて転げまわる君たちを見るのはね」


 グラムの奥歯がギリっと鳴った。

 本能が叫ぶ。こいつは──


「だって、これ以上面白いゲーム、あるわけないじゃない」


 ──別の存在だと。


「ふざけるな!」


 エルドの言葉と同時にグラムは太刀を抜いた。頭に昇った血を抑えることも無く、反射的に。

 白刃が座ったままのエルドに迫り、その目前で停止する。

 止めたのではない。止まったのだ。


 エルドが、冷たい目を向ける。

 さっきまでとは違う、自分たちとは異なる世界の住人の目を。


「物騒だなぁ。僕はね、君とやりあうためにここに来たんじゃないんだよ? 第一、神様僕たちからしたら、それこそ君たちはストラテジーの駒のようなものなんだからさ、プレイヤーをどうこう出来るわけないでじゃない」


 両手にいくら力を込めても白刃は動かない。

 エルドの首。その手前1cmほどで静止したままだ。

 つう、とグラムの額から汗が流れ落ちる。


 エルドは指先で軽く白刃を退けるとゆらり、と立ち上がった。


「ていうかさ、君は何にそんなに憤っているのさ」


 冷たく笑うエルドを前に、グラムは思う。

 剣神の時、喋り方を指摘した際にエルドはこう言った。


 と。


 ならば今のエルドは、ファイナルクエストの時の、魔王としての存在なのではないのか。


「僕が君たちの為に力を行使しないから?」


「あ?」


「君たちに都合のいい状況を作り上げないから?」


「違う」


「それとも君の中の偽善者が騒ぐのかい? 泣いてる子供たちや恋人を想う誰かの為に」


「だまれ」


「じゃぁなんだい? 僕は君たちのママじゃないんだ。元がGMだったってだけでいちいち君たちのオシメを換えてまわる義務はないはずだよ。そもそも僕たちだって被害者なんだからさ」


 グラムの目を覗き込むようにしながらエルドが呟く。


「ふざけろ。今のてめぇは加害者だろうが!」


 後方に飛びのき、再び太刀を振りかざそうとするグラムの額にエルドがゆっくりと人差し指を伸ばす。

 酷く緩慢なその動きに、しかしグラムは反応が出来なかった。まさに蛇に睨まれたカエルのように。


「そうだね。今の僕たちは加害者さ」


 エルドの指先がグラムの額に触れた。

 冷たい。氷を当てられたような感触。その冷気に全身を包まれたような錯覚を覚える。


「そう。君たちをもてあそぶ、ね」


 ──魔王。


 その言葉がグラムの脳裏をかすめた。


 もしもエルドが魔王であるのなら、ファイナルクエストと同様、再び世界を終わらせようとするのかもしれない。

 グラムは自分に問いかける。


 もしもそうだとしたら、自分にアレが倒せるのか? と」


 クスリ。とエルドが笑う。

 破顔ではない。まるで蛇が獲物を前にしたかのようにぬめり、と。


「ならグラム。ゲームをしようか」


「ゲーム?」


「僕と君が戦う。僕が勝ったら世界を滅ぼそう」


 エルドの言葉にグラムは眉を顰めた。

 エルドは悪戯を成功させた子供のような、そんな表情でグラムを見ている。

 心を、読まれているのだ。


「君が勝ったら、そうだな。僕は今後この世界に直接干渉しない。更に君が望む通り出来うる限り君たちに便宜を図ろう。神様としてね。どうかな?」


「おまえ──」


「まぁ僕からしたら本来勝負なんて必要のないものだから、その分の対価はもちろんもらうけどね」


「対価って、なんだ」


「何だろうねぇ」


 そういうとエルドは自分の姿を見返すと、優しい笑顔をグラムに向けた。


「ともあれエルド神様のままじゃ勝負にならないよね」


 同時にエルドの姿が霞むようにブレた。それに合わせるように周囲に殺気がまき散らされる。

 反射的に後方に飛びのくと、グラムは太刀を構えた。

 つうと冷汗が頬を伝う。

 エルドとは異なる、見知った顔がそこにあった。


「剣客同士、勝負はフェアにいこうや。なぁ」


 どこか間延びしたような声に肩までの白髪。

 左手に鞘に納めた刀を持ち、先ほどまでの作務衣とは異なる、黒い着流しをまとった老人の姿。


 グラムはひとつ深呼吸をすると、すぐ傍で眠るリヤに目を向けた。


「安心しろ、そいつのモデルは愛菜レティシアだろう? さすがにそいつをどうこうする気はねぇよ」


 そう言うと何とも穏やかな顔で剣神は笑った。その目以外は。


 グラムは答えることなく太刀の柄を握りなおす。

 距離にしてほんの5メートル。

 一歩踏み出せば互いの斬撃が届くその位置で、二人は対峙したまま動きを止めた。


 グラムは正眼に抜き身を構え、剣神はだらりと両手を下げ左手に持った刀は鞘に納めたまま、


 5分、10分。


 それはまるで時が止まったかのように。


 じりじりと音を立て、蝋燭の炎が揺れる。

 互いに頭の中で何度も刃をあわせる。


 互いに身じろぎをすることもなく。

 聞こえていたはずの虫の鳴き声も今は無い。


 やがて剣神の足がじりっと動いた。

 グラムが一瞬そこに意識を向ける。


 ゆっくりと息を吐くと剣神は言葉を紡いだ。


「お互いこれが最後の戦いだ。エルドにはまた会う機会もあるかもしれねぇが、剣神おれとはこれが今生の別れよ」


「どういう意味だ」


「この戦いな、死んでも蘇生は出来ねぇぜ? 死ぬイコールアカウントバンって奴だ。剣神も、おめぇも」


「へぇ」


「お互いリスクは背負わねぇと勝負事は面白くねぇ」


「そっちは剣神あんたがいなくなるだけでエルドは無傷だけどな」


「フェアな話だろう?」


「ああ。不公平フェアな話だ」


 言葉とともにグラムが腰を沈めた。

 ネコ科の獣が、今まさに獲物に飛び掛からんとするように。


「くくっ。おめぇはやっぱりビビらねぇんだなぁ?」


「戦わなきゃ滅ぼすんだろ? 今死ぬか後で死ぬかだけの差じゃねぇか。ただ──」


 グラムが足の指に力を籠める。


「──それだけだ」


 同時に剣神とグラムの姿が掻き消える。


 縮地。


 瞬きの間もなく間合いは失われ、剣神の斬撃はグラムの真上からまっすぐに振り下ろされる。


 グラムの視界が赤く歪む。

 その左目に一本の赤い線が引かれる。

 だが。


 刀を振り下ろした姿勢のまま剣神が笑った。

 グラムは剣神の右横に立っている。胴薙ぎの姿勢のままで。


「勝負は一瞬。だよなぁ」


 グラムのほうを見やることもなくそう呟くと剣神は喀血した。


「鍔迫り合いだ何だ、互いに何合も打ち合うほど緩かぁねぇ」


 膝から崩れ落ちる。まるで糸の切れた操り人形のように。


「いい弟子をもった」


 倒れしなの剣神のその言葉はグラムの耳には届かない。


 そのままうつ伏せに倒れたその老人は満足げな表情を浮かべ、二度と起き上がることはなかった。

 広がってゆく血だまりを横目にグラムもまた体をふらつかせ、左目を抑え座り込んだ。


「エルド。これで満足か?」


 動かぬ剣神に問いかけるわけでもなくそう呟くと、緊張の糸が途切れたせいか、グラムは意識が遠くなるのを感じた。


 静寂の中、思い出しように秋の虫たちが鳴き始める。

 薄れゆく意識の中で、それはまるで鎮魂の歌のように聞こえた。

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