NPC
ズズっと踏みしめるたびに柔らかい地面が悲鳴をあげる。
腐葉土を多く含んだ地面は、歩を進めるたびに足が沈み込むので歩きにくいことこの上ない。
「かんじきでも持ってくりゃよかったか」
誰に語り掛けるでもなく、そんな言葉が口をついて出た。
見上げてみても太陽はうっそうとした木々に覆われ、その姿を見せることはない。
木漏れ日というには暗すぎる明かりの中、濃い灰色の外套の男──グラムはその森を進んでいた。
一人で、ではない。
後方には同色の外套を身にまとった赤髪の少女の姿があった。
グラムとは雰囲気がだいぶ異なる。
外套の下は鎧をまとっているのであろうグラムと違い、少女のほうは軽装なのか柔らかい雰囲気が見て取れる。
表情はどちらも明るくはない。
訪れた辺境の村でクエストを受け、このあたりでは有名だという森に入った。
気温もさることながら湿度が高い。おまけに──
「…臭いです…」
鈴のような声。
グラムの後ろを歩く少女がうんざりした顔で呟いた。
「マスター。なんでこんなクエスト受けたんですか?」
何度目の苦情だろうか。
グラムはうんざりした表情でポリポリと鼻の頭を掻いた。
「あー、単純に小銭稼ぎ、だな」
「マスター。プレイヤーですよね? 私の知る限り、プレイヤーは基本的にお金持ちです」
そりゃな。とグラムは思った。
ファイナルクエストに参加した連中は、そのほとんどが高レベルのプレイヤーだ。
必然的に貯蓄額も彼女たち
「とにかくここ、臭いです。腐葉土、と言えば聞こえはいいですが、要するに腐敗物です。更に生物の死体も多く存在しています。それ目当てにブンブン飛び回る虫が不快この上ありません。都会育ちの私には耐えられないです。このジメジメとした空気にも馴染むことは不可能です。というか嫌いです。清涼な大気の元で冷たい飲み物が飲みたいです。自分で作るから、かえっていいですか? マスター」
ジト目で苦情を訴える少女を前に、グラムは溜息をついた。
一年前。
あのファイナルクエストの最中に世界はその
少なくともあの時グラム──睦月は自室で椅子に座りHMDをかぶり、両手にコントローラーを握っていたはずだった。
だが、あの戦いの最中、気づけば自分の足で世界に立ち、デイスプレイ越しではなく直接自身の目で世界を見、その手に剣を握っていた。
切り付けた相手は血を流し臓物をまき散らし、更には温かさなどというものまで兼ね備えている。まるっきり現実のそれだ。
もっとも彼自身、臓物をまき散らした死体など現実で見たことなどあるはずもないが。
そもそも臭いも味覚も感触も、そんなものは実装されていない。
なにしろこのゲームは視覚、聴覚こそHMDに依存しているが、それ以外の感覚は現実の環境にそのままなのだから。
異常に気が付いたGM:エルドによるものなのか、はたまたイベントの終了時刻となったせいなのか、穴からのMOBたちの流出は停止したものの、状況が掴めないプレイヤー達の混乱は収まることがなく、残存するMOBの掃討が終了するまでの間に必要以上に多くのプレイヤーが命を落とすことになった。
ゲーム自体はとうに運営を終える時刻となっているにも関わらず強制ログアウトもない。
ましてやHMDが存在しないためログアウトのコマンドも使えない。
目の前に何のログも流れない。
チャットも使えない。
スキルリストも、装備リストも何もない。
目の前にあるのは景色だけ。
自分たちはなぜ今もここにいるのか。何時までここにいなくてはならないのか。
なぜこれほどまでに世界に現実感があるのか。
その場にいたすべてのプレイヤーが不安の中にいた。
異変はそれだけでは終わらない。
疲弊した体を引きずり町へ戻る彼らを、想像もしていなかった光景が待っていた。
──熱狂。
王都を守り切った勇者たちに向けて、沿道を埋め尽くす民衆の歓喜の声。
ある者は涙を流し、ある者は雄叫びをあげ。
ああ、この光景こそがクエストクリアによる真のエンディングであれば、と、思えるほどの光景。
参加していた有力クランの代表は城に招かれ定型文しか返さないはずの王に歓待を受ける。
街では「ありがとう!」と見知らぬ誰かに声をかけられた。
小さな子供たちが嬉しそうに自分たちの周りを走りまわり、大人たちは祝杯を上げる。
何処を見ても人、人、人。
この街にこれほどの人間がいただろうか?
これは全部NPCなのだろうか?
本当の自分たちは未だゲームの中にいて、単にエンディングムービーを見ているだけなのではないだろうか。
戸惑いの中で名もなき人達に手を引かれる。
酒を差し出され、料理をふるまわれ、楽師が陽気な音楽を奏で、娘たちが踊る。
宴が始まった。
祭りだ。
夜空に花火が上がり、街は眠ることなく明りに照らされ。
それは一週間続いた。
喧騒はプレイヤーから不安を奪い取り、人々の笑顔が彼らに平穏をもたらした。
目覚めたとき、あれほどあった不安は跡形もなく、というわけにはいかなかったかもしれないが、多くの者が状況を受け入れることに躊躇しなかった。
今は受け入れるしかないのだと。
いずれ状況は解決されるはずなのだからと。
とはいえやはり戸惑いが無かったわけではない。
そもそもゲームとしてプレイしていた頃にこれほどの人数のNPCなどいなかったはずだ。都市が都市として、国が国として成立出来るだけの人口など用意できる訳がないのだから。
更にNPC達が正しく自己というものを持っている事実が、プレイヤーたちを驚かせた。
名もない(はずだった)NPCと話をしてみれば小さなころの話や、ゲームでは設定すら存在しないはずの両親の話まで出てくる。
プレイヤー達の知りえないこれまでの世界の事柄を、歴史として知りえるレベルで彼らは知っていた。
ただひとつ、世界の変貌に関する事柄を除いて。
ここがゲームの中なのか否か。結局何もわからないまま一年が過ぎた。
ゲームの頃のように、自分たちより下の存在として
時にパートナーとして。あるいは師として。隣人として。
彼らは自分たちと等しく人間なのだから。
「あー、帰りたいなら帰ってもいいぞ。多分大したクエストじゃない。ヒーラー無しでも別に──」
「お断りします」
冷たい目でグラムを見ながら少女は即答した。
「私は元々サポート用にマスターに雇われた身です。下碑です、端女です。わかりますか? 雇用者であるマスターには非雇用者である私を守る義務があるのです。ええ、義務ですとも。マスター。だというのにマスターは私に単身で村に戻れとおっしゃる。酷いです。無茶苦茶です。パワハラです。私クラス的には純ヒーラーです。戦闘力皆無です。話に聞いた限りプレイヤーレベルでいったら一次職レベル40です。こんな推奨レベル70のフィールドダンジョン。確実に死にますよ? ええ、死にますとも」
つらつらとよどみなく答える少女の回答に、グラムは頭を抱えた。
彼女たちは元々プレイヤーの補助用に作られた専用NPCである。
リアの場合はグラムがソロでプレイを行う時のサポート用のヒーラーとして、グラム自身によってキャラメイク、育成が行われた。
装備もプレイヤー自身の所有物が利用される。
2PCというわけではないので直接操作による育成はできないが、パーティープレイによってある程度の方向性は決めることが可能だ。
ちなみに非課金のサーバントの場合は、スキル取得が不可能なため、ポーターとしての役目しか負うことができない。
その場合は主にアイテム売買の露店キャラとして利用されるのがほとんどだ。
とはいえそれも今は昔の話。
彼女たちもまた自我を持ち、自身の考えを持って行動している。
グラム的にはもっとかわいげのあるキャラであって欲しかった。という思いもあるが、創造者がグラムでは止むなしといったところだろうか。
「だれだ? 推奨レベルだの二次職だのお前に吹き込んだのは」
「レティシア姉さまです」
あいつか、と、グラムの頭の中に、自らの所属するクランのマスターであるエルフ女性の姿が浮かんだ。
「そもそも私は──」
尚も言葉を紡ぐ少女を横目に、レティシアへの苦情内容を考えていたグラムの勘が、何者かの接近を告げた。
「リア」
先ほどまでとはトーンの違うグラムの声に、リアと呼ばれた少女は動きを一瞬止め、どこから出したのか透明なクリスタルを先端にはめ込まれた、やたらと華美な杖を構えた。
見ればすでにグラムも抜刀している。
外観は日本刀に近い。
リアルでもそれなりの体躯を誇ったグラムの背丈は、ここでも190を超えている。
その体躯に合わせたように並みのサイズよりも長く、太い刀身は大太刀と呼ばれるものを連想させる。
リアが小さく詠唱を開始した。
ゲームとしての約束事から解放されたこの世界にあっても、魔法の行使には詠唱が必要だ。
──
「プロテクションだけでいい」
「はい」
同時にグラムの体が小さく光った。
「くるぞ」
言葉と同時に十メートルほど先にある木の影から、ゆらりと巨大な体躯が現れた。
手に蛮刀をぶら下げた青い肌のオーガ。背丈はグラムより頭ふたつ大きい。
武器を持っている以上、それなりの知性は持っているのだろうが、口から涎をたらし、下卑た笑みを浮かべるその姿に友好的な意思は感じられない。
もっとも向こうからしたらグラムたちも同様か。互いにすでに臨戦態勢なのだから。
「マスター!」
リアの声と接敵は同時だった。
一瞬で距離が詰まる。
振り上げられた蛮刀が、グラムに向かってその方向を変えるより早く、グラムの刃は横なぎにオーガの体を両断した。
まだだ。
両断されたオーガの後方にもう三匹。
二匹はいまのと同じオーガ。
最後尾にいる個体はそれらよりもさらに一回り大きく巨大なフレイルを構えていた。そして──
「──リア!」
「マスター、当たりです。ネームド個体、バンディーです」
ネームドモンスター。
種族名ではなく個体名をもつそれら特殊個体は、通常個体よりも強大な力をもつ。
外観上の差はほとんど無いものの、大抵は通常個体よりも大きかったり特殊な文様をもっていたりと様々である。
バンディーには特徴として額に文様が刻まれていた。
だが文様をもつモンスターがこの世界でただ一匹などということはない。
だからこそ個体名を知るために必要なスキルがあった。
鑑定スキル。
このゲームでは元々敵の名前も味方の名前も自動で表示されたりはしない。現実と同様に、アバターの頭上に名札がついていたりはしないのだ。
正しくそれを知るためには直接本人に聞くか、もしくは鑑定スキルを習得するしかないが、取得したところで相手の詳細情報が見えるようになるわけではない。
所詮は名前が解る程度の、初見でしか役にたたないスキルにである。
スキルの取得にはスキルポイントの消費が条件となるが、その程度のスキルにわざわざ貴重なスキルポイントを消費する必要性を戦闘系のプレイヤーが感じることはない。
ゆえにグラムも鑑定スキルを持っていなかった。
自身が持たなくても従者に持たせれば事足りるからだ。
リアの声が届いたとき、すでにグラムは二匹の獲物の前を通り過ぎていた。
追うようにふたつの首が胴から零れ落ちる。
仲間の死を前に激高したのか、奇声を上げながらフレイルを振りかぶったターゲット、バンディーの肩口からわき腹をグラムの大太刀一気に通り過ぎて行った。
音もない。
バンディーも何が起きたのか理解できなかったのだろう。
数秒の逡巡の後に、ゆっくりとずり落ちてゆく上半身を追うように、下半身が倒れ落ちた。
一瞥の後に大太刀に付いた血油を刃の一振りで払うと、グラムは静かに刀を鞘に納めた。
時間にしてわずか数分の邂逅に、リアが溜息をつく。
「ホントに、何のためにわざわざこんなクエストを受けたんです? 格を考えてもマスターが引き受けるようなクエストとは思えないですが?」
少し困ったような顔でグラムは鼻の頭を掻いた。
「俺もそう思うよ。だがそれが依頼さ」
言いながらオーガの亡骸の前に膝をついた。
一通り所持品や傷の状態を調べると胸部に刃渡り四十センチほどのナイフを突き立て抉る。
何か固い感触を確認すると、そこから血にまみれた塊を取り出した。
塊についた血を拭うグラムの表情が、怪訝なものに変わってゆく。
グラムの表情に気が付いたリアが横から彼の手元にあるそれを覗き込んだ。
「
「ああ、普通は六方晶だよな。
そういうと綺麗に血糊をふき取った
「マスター?」
「ああ、いや。何でもないさ」
「?」
なおも不思議そうに自分を見つめるリアの表情に気が付いたのか、グラムは小さく笑った。
「元々ここにはこんなクエスト無かったんだよ」
リアには言葉の意味が解らない。
「えと、それは一体どういう意味で──」
それに答えること無くグラムは手のひらを四体のオーガの死骸に向けた。
ほぼ同時に放たれた火球によって死骸が燃やされてゆく。
「相変わらず無詠唱とか卑怯です。私たちにはできないのに」
グラムは小さく笑うとそのまま踵を返し歩いてゆく。
いつものことなのか、ひとつため息をつくとリアもフードをかぶり直しグラムの後を追っていく。
思い出したようにうだるような暑さと湿度が戻ってくる。
──ああ、はやく帰りたい。
リアの頭の中に先ほどまでの疑問はすでになく、あるのはこんな場所に連れ出したグラムに対する苦情だけのようだった。
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