カレンダーガール

 自動車は猛スピードで歩道に乗り上げ、電柱に突っ込んでようやく停止した。


 鳴り響くクラクション。それはまるで緊急車両のサイレンのように混沌を掻き立て興奮を高めると共に、自分自身が傍観者であるかのような静観をもたらすのだった。

 次に何をすべきかそんな単純明快な解答さえ曖昧にし、優先順位をぐちゃぐちゃに並び替える。ふいに僕は「歯磨きしたい」と思った。まずは口内にこびりついた脂を洗い落とすところから始める。シャワーを浴びて、髭を剃って、石鹸で体を擦って、さっぱりとした服に着替えて、それから全てを考えればいいと思った。


 僕は助手席のリリーの様子を窺う。彼女が怪我をしていないかが気掛かりだった。フロントバンパーは大きく拉げて形を変えている。エアバックで上半身はかろうじて保護されているものの、形の良い脚が潰れてしまっているかもしれない。

 リリーは目を開けていた。束の間の眠りから覚めたみたいに。茫洋とした眼差しで前方を見つめていた。その瞳には何が映っているのだろう。マッターホルンみたいになったボンネットか、それとも――。


「『ヴェルチ』が飲みたいわ。レモンのスペシャルなヤツ」

 彼女の意識はまだ完全には覚醒していないらしい。ヴェルチにレモン味はない。

「やっぱり『コカ・コーラ』じゃなくて、オレンジジュースにしておけば良かった」

 彼女の認識は少しずつ現実味を帯びてきているらしい。

「そしたら、炭酸でお腹が膨れずに済んだだろうから」

 後悔を口にする。舟を漕ぐことなく、航海から戻って来たらしい。

「ついでにフライドポテトも買えば良かった」

 実に合理的な見解であった。だがそれも彼女から発せられた言葉なのだとすると、あくまで豪快な響きを拭えなかった。


 僕は華奢なリリーの両肩を掴んで強引に引き寄せて、何の脈絡もなくキスをした。それが今取るべき最良の選択である気がした。瞼の裏に柔らかな灯かりを感じながら暫くそのまま過ごしていた。

 ゆっくりと彼女から唇を離した僕はギアをリバースに入れて、車をバックさせる。

 二度目の衝突音。抗議のクラクションを鳴らす気の毒な後方車両には目もくれず、すっかり不格好になってしまった高級車で、僕たちは交差点を抜け出したのだった。


 やがて高速道路の入口が見えてくる。ETCレーンに突入して、バーを突き破る。

「どこにも行けない」と思っていた環状線が今夜こそ僕たちを新しい場所へと連れて行ってくれる。あらゆる感情論を勘定に入れることなく逃避行は間もなく完了する。


 土曜夜の都市高速は空いていた。長距離輸送トラックが追い越し車線を我が物顔で飛ばしていく。僕がバックミラーに気を取られていると、ふいにオレンジのライトがリリーの横顔を黄昏に染める。だが当人はまるで不感症に罹ってしまったみたいに、外光と刻一刻と移り変わる状況に対する圧倒的不干渉を貫いている。路上を見つめる無表情に僕は感傷的な懐旧の情を抱きつつも、短いトンネルを抜け出したのだった。


 延々と続くはずの環状線に、だが「行き止まり」があった。


 数台のパトカーが横向きになって道路を封鎖していた。それが何を意味するのか、さすがの僕でも解った。〈非日常の終着点〉車両から降りて後方に立つ彼らは無言でそれを示唆していた。


――無駄な抵抗は止めなさい!

 幾人かの血気盛んな警官が叫ぶ。パクパクとした口の動きだけで警告を読み取る。

――停まりなさい! おいっ、止まれ!

 繰り返される命令に従順になるべきか僕は逡巡する。「もういいんじゃないか?」「出来るだけのことはやった」理性に程近い部分がそう告げる。度重なる交通違反。その発端となった車両窃盗。仮にここで暴走を中断したとして重い刑罰は免れない。

せいぜいお涙頂戴の減刑が精一杯だろう。ゆえに本能に最も近い部分がこう告げる。「このまま突っ切れ!」と――。


 僕はアクセルを踏み続けた。悲鳴にも似た怒声を上げつつ警官たちが道を空ける。だが車両までは道を譲ってくれなかった。


 三度目の衝撃。だがすでに再起不能となったボンネットにとっては無問題だった。それでも障害物を突破するのは不可能だった。

 パトカーに突っ込んで、そのまま停車する。警官たちは仰け反りながら停止する。真っ赤なパトランプだけが己に課せられた使命を全うするかの如く回り続けていた。


 ようやく硬直から解かれた彼らが車に駆け寄ってくる。我先にと箱乗りするようにドアを開けようとする。だがドアにはロックが掛かっている。僕は指示を仰ぐようにリリーを見た。だが彼女は何の天啓も与えてはくれず、落としたコンタクトレンズを探すみたいに俯いていた。ダークブルーの瞳からは、そこに抱く感情を何一つとして読み取ることは出来なかった。


 リリーの協力を諦めて、窓の外を窺う。何やら工具のようなものを持った者たちが駆け出すのが見えた。僕は焦燥の中で静寂を感じていた。ドアが開けられるまでにはまだほんの少しの猶予があるだろう。それまでに僕たちは互いの供述について口裏を合わせておかなければならない。しばらく会えなくなるだろうから――。


 だが僕の余裕を嘲笑うようにガラスが破壊される。警官はバールを手にしていた。割れた窓から数本の腕が伸びてくる。ゾンビ映画のラストシーンのようだと思った。


 本能的な亡者たちの群れは、だけど理性的にドアロックを解錠する。そこから先はもうあっという間だった。運転席のドアが開かれて僕は車外へと引きずり出される。アスファルトに押し倒されて両腕を拘束される。降り注ぐ罵声に耳がキーンとした。


 ざらついた地面に強く押し付けられた左頬がヒリヒリと痛み、傷口が熱を帯びる。尚も僕は必死の抵抗を試みたものの、それも手錠が掛けられるまでの間だけだった。


 ひんやりとした金属の感触は、強制的に僕を冷静にさせた。不自由な体勢のままで眼球だけ動かして車内を窺う。だが低い位置からではリリーの肢体を視認することは叶わなかった。


 突如、バタンとドアを閉める音が聴こえた。低い車高越しに、白い足首が見えた。それは紛れもないリリーの脚だった。だが不可思議だったのは、彼女がハイヒールを履かずに裸足であることだった。


 まるで全てが幻術に掛けられたかのようだった。拘束する両腕の力が緩められて、僕は身を起こす。僕の行動を咎める者は誰もいなかった。棒立ちになった警官たちは無防備な少女を傍観しているらしかった。僕も彼らに倣って呆然と前方を見つめた。


 リリーは立ち止まることなく颯爽と歩いていく。目的地に降り立ったかのように。だが彼女の目指す場所はここではない、もっと先のはずだ。


 リリーが後方を振り返ることはなかった。共犯者の僕を気に留める素振りもなく、自分は頭のおかしなタクシー運転手に無理矢理連れて来られただけだというように。

白紙のカレンダーを捲るみたいに白いワンピースを翻してスレンダーな太腿を晒す。


 あまりにも堂々とした彼女の立ち振る舞いに警官たちは取り押さえることも忘れ、野次馬根性を丸出しにしたアクション映画のエキストラのように立ち尽くしていた。


 やがて一人の勇敢な警官が己の職務を思い出して、リリーの行く手に立ち塞がる。そして社交ダンスでも始めるみたいに彼女の細い腕を掴もうとした、その瞬間――。


 リリーは何の躊躇もなく、手に持っていた何かを彼の左胸に突き立てたのだった。


 鈍い光を放つそれを僕は最初「小型のナイフ」だと思った。だがよくよく見ると、それはガラスの破片だった。地面に飛散した残骸をいつの間にか拾っていたらしい。

雨の路傍に一度は放り出した名の無い野良猫を、再び腕にそっと抱き上げるように。


 不幸な警官は己の身に何が起きたのかも分からず、じっとリリーを見つめていた。そして彼女が破片から手を離すのと同時に、スローモーションで地面に倒れ込んだ。だが彼女はそれに一切構うことなく歩き去り、公園のジャングルジムに登るみたいにパトカーのバリケードを乗り越える。その時初めて、リリーはこちらを振り返った。


――ありがとう。


 その声は僕の耳に届かなかったが、唇の形だけで「感謝の五文字」を読み取った。あるいはそれすら僕の願望であり、それは「別れの五文字」だったのかもしれない。リリーは再び前方に向き直り、パトカーの上から降りて徒歩で環状線を進んでいく。


 それが僕の目にした、彼女の最後の姿だった。

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