五番街のリリーへ
五番街は古い町だった。
建物はどれもせいぜい二階建てか三階建てで、外壁は潮風によって色褪せている。だけど古惚けた印象は少しもなく、路地や街角は不思議な懐かしさを漂わせている。五番街は港町だった。
かつては漁師町として栄え、慎ましい生活を営む漁師と家族、豊かな暮らしを送る猫たちの活気に満ち溢れていた。
やがて海洋汚染が深刻なものとなり、漁獲量が減少の一途を辿ることになろうとも漁港は貿易港として再び復活を遂げて、長距離航海の船員と彼らの帰航を待ち侘びる愛人たちの賛歌に包まれていた。
日が暮れると町中に明かりが灯り始め、孤独な「ヤモメ」たちを導く灯台となる。小洒落たブロンズ看板を提げた酒場からは水夫の喧騒が響き、石畳を叩く足音さえも幸福の晩鐘となり、それらが優しく夜空に染み渡っていくような――。
私は五番街で生まれ育った。
だがそれも幼少のほんの一時期を過したというだけの話だ。「育ち」を問われたら私は迷わず六番街だと答えるだろうし、「生まれ」についても果たして元々五番街で生を受けたのか、私が生まれた後で両親が引っ越してきたのか判然としない。
私はごく平凡な両親の下に生まれた。わずかに平凡でないところがあるとするなら父は少しばかり酒にのめり込みやすい軟弱者で、母はそんな父に物申すことの出来ぬ卑怯者であったことくらいだろうか。
父は悪い人ではなかった。私によく漁の話をしてくれた。中でも私のお気に入りは定置網に掛かった奇怪な深海魚の話だった。私がそれを喜ぶと、父は何度も同じ話を聞かせてくれた。だが酔うと人が変わったように暴力的になった。
「酒は人の本性を暴く」というけれど私はそうは思わない。素面の父と泥酔した父、そのどちらも私にとってかけがえのない父なのである。
ある日、私が学校から帰宅すると家に母の姿はなかった。そして二度と帰ってくることはなかった。風の噂で聞いた話によると、どうやら若い男と駆落ちしたらしい。
私は母を失ったことより、母が自分を連れて行ってくれなかったことが悲しかった。数少ない私の写真さえも母が持っていくことはなかった。
妻に逃げられた父は、より深く酒に入り浸るようになった。ろくに仕事にも行かず昼間からウィスキーを煽り、酔いが醒めるとまた浴びるように飲んだ。まるで素面でいることを怖れるように。愚かな己を痛めつけるように。
父が私に手を上げることはなくなった。どれだけアルコールが回ろうとも呂律こそ回っていないものの、素面同様の穏やかで厳格な父だった。だけど私にとってそれはもう父ではなかった。二面性のどちらか一方が損なわれたとき(仮にそれが良い方の人格であったとしても)、もはや赤の他人に成り果てるのだった。
母が出て行ったとき、私は同時に父も失ったのである。私は住み慣れたというにはまだ日の浅い家を後にした。
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