LOOSE GAME

 待ち合わせ場所はいつもの「ダイナー」だった。ファミリー客の立ち去った店内、四人席をたった一人で占領する彼女の姿を見つけた。


「珍しいね」

 僕は立ったままリリーに声を掛ける。彼女が待ち合わせ時間に遅れずに来たのは、僕の記憶の限りでは初めてのことだった。


 声のした方向を、リリーは一旦怪訝そうな目つきで睨む。それは彼女の癖だった。まずは警戒する。それから相手が誰なのか、敵なのか味方なのかを慎重に吟味する。視力が弱い彼女はその作業に多少の時間を要した。漸く警戒が解かれたのを確認して僕は対面の席に座った。


「本当に来たのね」

 あくまでも自分が呼んだわけじゃないというように、素っ気なくリリーは言った。

そうだ、僕は仕方なくやって来たわけじゃない。僕は望んでここへ来たのだ。


 リリーはホットココアを飲んでいた。彼女はコーヒーが飲めない。

「あんなに苦いものを飲んでる人の気が知れない」と、いつかそう言っていた。

「きっと皆、本当は好きじゃないのにムリして飲んでるのよ」

 彼女の方向から漂ってくる甘ったるい芳香は、僕を少しだけ幸福な気分にさせた。


 暇そうなウェイトレスがすぐにやってきて、僕はアイスコーヒーをオーダーした。注文を終えた後になって、夕食がまだだったことを思い出す。

「何か食べた?」僕はリリーに訊ねた。

「ううん、でもお腹空いてないの」彼女は首を振った。

「あなただけ食べてもいいわよ。私、待ってるから」


 僕はメニューを広げた。何かしら腹に入れておいた方がいいだろう。次にまともな食事にありつけるのは、いつになるか分からない。

 メニュー表には多種多様な料理が写真付きで載っている。ステーキ、ハンバーグ、カツ丼定食なんてのもある。その中でも一際、ハンバーガーが美味しそうに見えた。(果たしてレストランのハンバーガーとは如何なものだろう)


「やっぱりいい」

 散々目移りした挙句、僕はメニュー表を閉じた。

「遠慮しなくていいのよ、私は別に構わないから。だって夜は長いんだし」

 リリーが楽しそうに言う。

「いや、僕もそんなにお腹が空いてるわけじゃないんだ」

 干ばつ続きで、どうやら僕の腹の虫は新天地を求めて大移動してしまったらしい。

「そう、それならいいけど」


 アイスコーヒーが運ばれてきた。ストローを使わず一口だけ飲んで、僕たちの間に暫しの沈黙が流れた。夜は静かだった。


「さて、これからどうしよう?」

 ひとまず集合してはみたものの、今後の計画については何も決まっていなかった。

「とりあえず、車が必要ね」

 リリーにしては妥当な意見だった。

「でも、この時間に開いてるレンタカー屋なんてあるかな?」

 僕の真っ当な返答に彼女は吹き出した。

「車を借りたとして、一体誰が返しに来るのよ?」

 確かに彼女の言う通りだった。僕たちは街を出て行くのだ。車を返しに来ることはできない。


「盗めばいいのよ」

 ホットココアの温もりを両手で感じながら、リリーは当然のようにそう言った。

「こんな時間に徘徊してる奴らなんて、どうせロクなこと考えてないんだから」

「でも、車なんてそう簡単に盗めるかな?」

 ドラッグストアで化粧品を盗むのとは訳が違う。

「大丈夫よ。奴ら、どうやって女の子をホテルに連れ込むかしか頭にないんだから」

 吐き捨てるようにリリーは言う。「奴ら」に対して彼女はほんの僅かな同情すらも持ち合わせてはいないらしかった。


 眠気覚ましのカフェインを飲み干して、二行だけの伝票と一握りのコインを片手に僕は席を立つ。すっかり負けの込んだ、だらけ切ったゲームを再開するために――。


 獲物を求めて、僕たちは四番街を練り歩いた。


 昼間に降った雨のせいで夜風は湿り気を帯びている。部屋に一人で居たら寝苦しい夜だっただろう。湿度が全身に絡み付く。アスファルトに刻む足音さえも水底を踏むような感じだった。こんな夜でもネオンはギラギラと輝いている。


「繁華街で車を降りて、路上に立っている奴を狙うのよ。奴ら、終電にあぶれた女を狙っていて、まさか逆に自分の車が狙われるなんて夢にも思っていないだろうから。キーが差しっ放しになっているのを確認して」


 リリーは罪悪感もなく淡々と語る。まるで食材の簡単な調理法を検討するように。

――果たして、そう都合良くいくだろうか?

 半信半疑で彼女の犯行計画を聞きながら、僕は一つの大きな決断を迫られていた。これまで彼女の窃盗行為を間近で見てきたけれど、いざ自分がするとなると恐怖心に駆られた。日常と非日常、善行と非行との境界線はすぐ目の前にあった。


「あそこ、見て」

 唐突にリリーは前方を指さす。そこにはボンネットに寄り掛かったまま携帯端末を弄っている男がいた。頻りに前髪を気にしたり脚を組み替えたりと落ち着きがない。彼の視界は手元を捉えつつも、意識は道行く女性たちに向けられているらしかった。

「ほらね、言った通りでしょ」

 リリーはウィンクをした。彼女がいう「都合の良い人物」は本当に実在していた。


 今宵最も不幸な人物から目を逸らして、肝心の自動車の方へと目を向ける。車高を地面すれすれまで落とした改造車。ごく一部の国産車オーナーがそうであるように。およそ全てのロックンローラーがそうであるように。彼もまた異国の様式美に羨望を抱き、そこに女性をモノにする魅力が備わっているのだと信奉しているらしかった。


 やがて一人の長身の女性に照準を定めたらしく、彼の尻がボンネットから離れる。キーは差しっ放し。いよいよ決行のとき、僕の鼓動は鼓膜を揺らすほど激しくなる。

 大きく深呼吸を一つ。もう一つ。過呼吸症候群のように、己が息を吐いているのか吸っているのかも判らなくなる。そして僕が足を踏み出そうとした、その瞬間――。


「あれはダメね」

 突如として興味を無くしたようにリリーが呟く。僕は躓きそうになりながら後方を振り返る。

「あんな品の無い車はイヤ」

 彼女は身勝手な暴言を吐いて、僕の右手を引いた。あくまでも実例を挙げただけに過ぎないというように。


「どうせ盗むなら、もっとカッコイイのがいい」

 どうやら彼女のお気には召さなかったらしい。それにより彼は今宵一番の不幸者を免れ、散々に罵倒されるだけの第三者へと成り下がったのだった。


 漸くナンパが上手くいったらしい彼は、いかにも身軽そうな女を助手席に乗せて、自分も運転席に滑り込み、あまり遠方ではないであろう目的地へと車を発進させた。交差点を軽快に左折し、その姿はすぐに見えなくなる。それは本当にあっという間の出来事だった。僕は何だか置いてきぼりを食らったような気分だった。


 僕たちはまたひたすら歩いた。このまま徒歩で街を出た方が早いんじゃないか、と思えるほどの距離を。リスクを冒す必要はない。だがそれだと街を出て行き詰まる。僕たちの明るい未来のため、僕は後ろ暗い過去を持たなくてはならない。


「ねえ、あの車」

 いい加減足が棒になりかけた頃、またしても唐突にリリーは言う。僕は嬉々とした彼女の表情を眺め、それから指さす方向を見つめた。


 いかにも高級車らしい、ゴツゴツとしたボディ。太い十字架か、赤十字を思わせる金色に輝くエンブレム。低い車高は無理に下げたものではなく、スピードを重視した元からの造り。その証拠に運転席と助手席は広々としているのに対して、後部座席は外から見ても分かるほどに窮屈そうだった。


「あれに乗りましょう!」

 彼女は感嘆符と共に叫んだ。観覧車のゴンドラを決めるように簡単にそう言った。

だが無人の遊園地の場合とは異なり、人気のゴーカートには当然の如く先客がいた。


「ダメそうだね」

 僕は諦めを口にしながらリリーの返答を待った。向こう見ずな待望とは対照的に、後ろ向きな可能性に身を委ねながら――。


 だが僕の希望はあっけなくも崩れ去る。何を思ったか、彼はエンジンを掛けたまま左ハンドルの運転席から降りたのだった。やはりキーは差しっ放し。まるでリリーの悲願が天に通じたように。僕の楽観が裏目に出たかのように。あるいは誰の感情とも無関係に。彼は高級車から離れ、ナイトストアの眩いライトの中へと消えていった。


「今よ!」

 リリーから号令が掛けられて、僕は反射的に駆け出す。隣を見ると、彼女も同時にスタートを切っていた。走行車が途切れる合間を見計らって片側二車線を横断して、みるみる内に目標物が眼前に迫る。正常な呼吸法を忘却したように息切れしながら。

ふと、舗道向こうの「ラストチャンス」という看板が目に入った。(何の店だろう、店名にしてはあまり縁起が良いとはいえない)僕は天啓を得たような気分になった。


 その先はまさに一瞬の出来事だった。先に辿り着いた僕は運転席側に乗り込んだ。キーを回すと控えめなセルの後、重低音が腹の底に響いた。咄嗟にアクセルを踏むと前方に急発進した。もう少しで哀れな通行人を轢いてしまうところだった。

 冷静にギアをバックに入れて車体を後進させて、それから再びギアを切り替えて、リリーのすぐ横に車を付けた。僕はペーパードライバーだった。


「お待たせ」

 窓を開けずに口の動きだけで言うと、リリーは愉快そうに反対側から乗り込んだ。より重大な法を犯しておきながらも交通ルールだけは遵守するようにシートベルトをきちんと締めて、しっかりと冷静沈着な様子でシートのリクライニングを調節する。

 ナイトストアから出てきた男は、自分の車に自動運転機能オートパイロットが搭載されていたことに驚いた様子だった。


 僕はアクセルを強く踏んだ。タイミング良く前方の信号は青。バックミラー越しに車を奪われた男が追いかけてくるのが見えた。だが彼の走力が自身の自動車の性能に追い付くことは決してなかった。


 盗んだ車は酷く運転しづらかった。倫理的な意味ではなく、その操作性について。エンジンの性能が高いせいか、少しアクセルを踏んだだけですぐに加速してしまう。

 サーキットや平原の一本道ならば心地良いだろうが、生憎僕たちが走っているのは深夜とはいえそれなりに通行量の多い一般道路である。そこに加えての左ハンドル。だがそれに関していえば、僕がペーパードライバーであることがむしろ功を奏した。国産車での運転経験が皆無である分、変に感覚を狂わされるということがないのだ。これはこういうものなのだと思えばいい。コツとしては常に自分が車道の左端にいるというイメージ。


「ねえ、お腹空かない?」

 運転に必死な僕とは対照的に、リリーは呑気そうに空腹を訴える。

「ドライブスルーでも寄っていく?」

 ちょうど前方に『M』の看板が見えて、ウィンカーを出して右折する。

「今どれくらい持ってる?」

 僕はATMで下してきた全財産を答えた。彼女はにっこり笑って、自分の所持金と合わせて買えるだけのチーズロワイヤルとコーラのLサイズを注文した。

 二十分ばかり待たされて商品を受け取る。馬鹿げたオーダーにも嫌な顔一つせず、そこにはきちんと『スマイル』が付け足されていた。


 僕は再び自動車を走らせながら、ハンドル片手にハンバーガーにかぶりついた。

 車内がスパイスの香りで満たされている。やはり彼女は計画性と呼べるものを全く持ち合わせていないらしい。バックミラーに映る大量の紙包を見ながら僕は思った。

——こんな事なら「相棒」も連れてきてやれば良かった。

 少なくとも後部座席を高カロリー食で埋め尽くすよりは合理的というものだろう。


「ハンバーガーを盗むって計画は思いつかなかったの?」

 合成肉に齧りつきながら、僕は皮肉交じりにそう訊いてみた。

「何言ってるの? 食事にはきちんとした対価を支払わなくてはいけないの。それがどんなにジャンクなものであってもね」

 リリーは当たり前のように答えた。その辺りが彼女の考える最低限のモラルであるらしかった。僕としても彼女に同意だった。いくらなんでも『パン屋襲撃』するのは現実的ではなかった。


 僕はもうそれ以上、余計なことは何も考えないようにした。するとたちまち視界が開けて、見通しが良くなった。あらゆる問題が「オールクリア」である気がした。

 現在時刻は午前一時。夜明けまでまだ四時間以上もある。何と幸福なことだろう。僕たちは夜の内に街を抜け出し、そして誰よりも自由になるのだ。


「空を飛んでるみたい」

 興奮気味にリリーが言う。「空飛ぶ車」近未来の乗り物が実用化されるのはいつになるだろう。だがいざ実装されたとしたら恐らく退屈なものになるだろう。浮遊感を喜ぶのも束の間で、重力による束縛をより如実に感じることになるだろう。


 ますます高揚した僕の感情は、アクセルを必要以上に強く踏ませる。前方の車両に追い付く度に忙しなく車線変更する。ウィンカーなんてその存在も知らないように。後続車両からけたたましくクラクションを鳴らされようともそれに構うことはない。赤信号も平気で通過する。その間もブレーキを一度も踏むことなく、車はぐんぐんと加速していく。そして幾度目かの交差点に進入した際、右折してくる車を避けようと大きくハンドルを切ったのだった。

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