Do you love me?

「決行日」をリリーから電子メールで報せられたのは、当日の夕方のことであった。


 別に急だとは思わなかったし、かといって僕の予想が的中したわけでもなかった。来るべき時が訪れて、僕は応じるだけだった。待ち望んでいたわけではないけれど、待ち焦がれていなかったといえば嘘になるだろう。

 遅めの昼食を終えた僕は、いつもならば流し台にそのままにしてしまう食器たちを昨日の分までまとめてキレイに洗って戸棚に仕舞い込んだ。それから手持ち無沙汰になって部屋の掃除を始めた。ひたすら無心で手足を働かせていた僕の脳内に浮かんでいた言葉は一つ「立つ鳥跡を濁さず」。その言葉の美しさと潔さに心惹かれたものの今の自分の状況がそれに当てはまらないことは明白だった。


 僕は部屋をそのままにして出て行くのだ。今さら多少の汚れを清算したところで、いずれ誰かが処分しなければならない「粗大ゴミ」を残していくことに違いはない。

 そして僕が破棄するのは「モノ」だけでなく、これまで街の住人たちと築いてきた関係と歴史、それから暫定的な居場所である。手放してしまうには惜しい気もしたが全てを持っていくことできない。手荷物は少ないに越したことはないのだ。

 ふと部屋の隅に立て掛けられた寂しげな「友人」の姿が目に入ったが、やはり彼も連れていくことは出来ない。彼にもいずれ新たなパートナーが見つかることだろう。(あるいは安価な材木として売り出されるか、薪として暖炉にくべられる運命を辿るかもしれない)


――生活が落ち着いたなら、アコースティックギターを買おう。リリーと唄いながら日々を過ごすのも悪くない。適当なコード進行で、即興のメロディで、歌詞は全くのデタラメで。

 未来の予定について考えていると、これまで気づかぬふりをしていた将来の不安が浮かんでくる。麻酔が切れたみたいに、それらは痛みとなって僕の身を切り刻んだ。

 果たして、僕は上手くやれるだろうか。新たな環境に上手く適応できるだろうか。哺乳類が再び海を目指したように、まずは「呼吸法」を会得しなければならない。

 要は覚悟の問題だ。飛び込むのは簡単、だが踏ん切りがつかない。そのきっかけをリリーがくれた。彼女は僕の手を優しく掴んで、やや強引にひいた。もう一方の手で僕は鼻を摘まんで目を固く閉じて、これから海中深くに潜ろうとしている。あるいはその選択自体が大きな過ちであり、僕は海底生物の餌になってしまうかもしれない。


――僕が居なくなったら、悲しんでくれる人はいるだろうか?


 またしても矮小な気掛かりが、見透かしたように僕の心の内側を支配する。濁声のマスター、工場の同僚、最後にジョニィの顔が浮かんで「それはないな」と思った。

 誰か一人が欠けたところで、この街は、この世界は、休むことなく稼働し続ける。そしてすぐに代替となる誰かがやってきて跡形もなく穴を埋めて平らにしてしまう。


 今さらになって未練を感じているのだろうか。僕にそんな資格があるのだろうか。今からでも引返すことはできる。彼女との待ち合わせ場所に行かなければいい話だ。僕は彼女を永遠に失うことだろう。だが引き換えにそれ以外の全てを失わずに済む。彼女とそれ以外、どちらが僕にとってより重要であるのか天秤に掛けるまでもない。


――そろそろ行かなければ。


 吸掛けの煙草を灰皿に突立てる。これまでの暮らしに小さな墓標を建てるように。玄関の重い金属扉を開き、僕は夜の街へと飛び出した。

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