見知らぬ、天井

 その夜、僕は脈絡のない夢を見た。そもそも夢というのはどれも脈絡のないものであるが、今夜のそれは特にそうだった。


 どこまでも広がる荒野に僕は立っていた。大地には草木の一本も生えてはおらず、ゴツゴツした岩と渇いた地表があるのみだった。そして砂埃舞う地平線の少し手前に巨大な人工物が屹立している。それは「ロケットの発射台」だった。

 宙に向けてそびえ立つ物体は、発射の瞬間を待ち侘びている。見守る研究者たち。その内一人が僕であり、隣にはリリーがいた。彼女は白いワンピースではなく白衣を身に纏っていて、僕も同じ格好だった。多くの夢がそうであるように、ここに至った経緯の説明や過程の記憶は一切なく、漠然と唐突に与えられた「ロケットの開発者」という職業が、二人の登場人物に与えられた設定だった。


 あるいは歴史歴瞬間ともいえる場面において、僕たちの他に見物客が居たとしても不思議ではない(むしろそれが当然だが)。色褪せた絵葉書の如くぼんやりした視界は発射台と背景の地平線だけを捉えていて、それ以外のものが映り込む余地はない。夢の中では全てが都合よく書き換えられ、省略されるのだ。


 やがて、どこからともなく「カウントダウン」が開始される。

 5、4、3…。その声は聞こえてくるのではなく、直接的に僕の脳に響いている。

 2,1…。0はなく、引き伸ばされた一瞬の間をおいてロケットは轟音を立てて、噴煙をまき散らし大気を振動させて、徐々にその巨体を地上から浮かび上がらせる。

 僕とリリーが揃って同じ角度で見上げると、機体はすでに遥か上空に存在していて燃料室から勢いよく噴き出す炎が流星のように尾を引いた。その眩い光は残像として瞼の裏に焼き付き、微かな熱を持った。


 次の瞬間、僕たちはロケットの内部にいた。機体は大気圏をようやく抜け出して、惑星の周回軌道に入ったところだ。船内は無重力に満たされている。目覚まし時計、歯ブラシ、ハイヒール。地上から持ち込んだ日用品が重力の束縛から解き放たれて、本来の機動性を取り戻したように中空を浮遊している。

 僕はリリーに近づこうと必死でもがく。だが一向にその距離が縮まることはない。それでも懸命に手を掻いて、バタ足をして、推進力を得ようとする。円型の窓の外に青と緑の惑星が見えた。


 めくるめく視点は切り替わる。ロケットの側面には、異国の言葉が黒く太い文字で書かれている。翻訳の意味は『あなたを愛してる』。宇宙船に付けられた名称なのかあるいは広大な宇宙に捧げられるメッセージなのだろうか。


 宇宙服。それもいつの間に着替えたのか分からない。僕とリリーは船外活動中で、それは各国が固唾を呑んで見守る最重要任務であるはずなのに、僕にとって何よりも重要なのは「彼女の手を離さない」ということだった。


 やがて、ロケットが僕たちから遠ざかる。無音の宇宙に放り出されて、だが孤独は感じなかった。これから二人きり、長い航海へと旅立つのだ。彼女の手を掴んだまま無数の星々の中へと埋没し、銀河の中心にあるという「ブラックホール」を目指す。



 目を覚ますと『見知らぬ、天井』があった。


 いや、少なくとも就寝前に一度は見ている。ただ見慣れないというだけのことで、そのせいで自分がどこにいるのか一瞬解らなかった。心地よい浮遊感のようなものが全身を包んでいる。


 ベッドから身を起こし、カーペットに足を着けてみる。当然のように重力がある。どうやら夢の続きではないらしい。微かな抵抗の感触は僕を少なからず安堵させた。それでも相変わらず奇妙な感覚は残っている。


「大丈夫?」

 彼女の声を随分と久しぶりに聞いた気がした。さっきまで夢の中で会っていたのに最後に話したのはいつだろう。真空中では振動を伝える媒介が存在しないのである。


「うなされてたみたいだけど」

 リリーは心配そうにしながらも、僕の返答を待たずドライヤーのスイッチを入れて髪を乾かし始める。部屋中がゴウゴウという温風の音響で満たされた。

 僕が何かを言うたびにリリーはドライヤーの電源を切る。彼女が何かを言うたびにその声は雑音によって掻き消される。まるで感度の悪い電波通信みたいだった。


「不思議な夢を見たんだ」

 その内容について僕が語りたがっているのを悟ったらしく再び電源がオフになる。

「どんな夢?」

 リリーはヘアブラシを鏡台に放り出して、こちらを振り返る。セットされていないボサボサの髪。眠たそうな双眸の奥に興味を示す彩色がはっきりと浮かんでいる。


 何かを暗示するにしてはあまりにも漠然とした夢の話を、僕は静かに語り始める。幼い記憶を取り戻すように。偏頭痛を思い出すように。

 巧く要領を得ずに順序もちぐはぐな僕の話を、それでもリリーは真剣に耳を傾けてスネアドラムのような相槌を打ちながら、一つ一つ咀嚼するみたいに聞いてくれる。だが僕が全てを語り終えても尚、彼女はそこに何の考察も述べることはなかった。


 間延びした沈黙。低い性能の割に大仰な空調の音が、さらに誇張されて聴こえる。

 明るい室内、窓外の暗闇、まるで正しい時間の流れから取り残されたかのように。ほんのちょっとした不注意により昨日と今日の隙間に落っこちてしまったみたいに。


「そろそろ行かなくっちゃ」

 ナイトテーブルに置き去りにされた時間を一瞥して、リリーは億劫そうに言う。

 背中の大きく開いた白いドレス。肩越しに見える鏡面には、彼女の華奢な上半身と豊穣な胸元が映り込んでいる。


「この後、予約が入ってるの」

 フレアミニの裾を整えながらリリーは立ち上がる。

「こんな時間に?」

 僕も同じように二つの針で示された時刻を窺う。三時八分だった。

「ナイトクラブを経営してる人で、ちょうど今仕事が終ったところらしいの。ねぇ、ファスナーを上げてもらえない?」

 そう言って、小翼羽のように無防備な肩甲骨を晒した。


 僕はベッドから起き出して、リリーの後方に立つ。純粋無垢な処女性と、すっかり男の手垢にまみれた早熟性を内包した背中だった。そこには男性の欲望を駆り立てる二対のホクロがあった。名残惜しさを抱きながらも僕はファスナーを上げてやった。


「ありがとう」

 僕の目を正面から見てリリーは言う。さらに言葉だけでは足りないと思ったのか、僕の頬に簡単な口づけをくれる。彼女なりの、ささやかなお礼のつもりらしかった。


「朝までゆっくり眠ってていいから」

 鏡台に広げた化粧品をポーチに詰め込みながら、義務的に彼女は言った。

「それとも、こんなところに一人きりで泊まるのは嫌?」

 再びこちらを見て、やや申し訳なさそうに訊いた。

「何なら、今から別の女の子を呼んだっていいわよ?」

 試すように冗談っぽく、あるいは取り残される僕を本気で憐れむように笑った。

「いや、遠慮しておくよ」

 皮肉や意地悪な口調もここまで来ると、ある種の社交辞令である。苦笑しながら、僕は彼女の提案を固辞した。


「この埋め合わせは、いつか必ずするから」

 その言葉は約束というより契約のような機械的な響きを含んでいた。

「気にしなくていいよ。送って行こうか?」

 その気もないのに僕はとりあえずそう言ってみた。

「ううん、大丈夫」

 リリーは想定通りの返答をした。送るにしても僕は車を持っていないのだ。

「じゃあ、せめてフロントまで」

 僕は素早く服を着た。部屋を出て、二人並んで廊下を歩く。エレベーターに乗って一階に降りる。受付には誰も居なかった。彼は記事の全てを読み終えたのだろうか。


「ここまででいい」

 まるでそこが国境線であるかのように、自動ドアの手前でリリーは立ち止まる。

「見送りありがとう。ゆっくり休んでね」

 どこに隠し持っていたのか、この夜最高級の微笑を僕にくれる。

「うん、せっかくだからそうさせてもらうよ」

 僕は強がりながらもそう言った。数歩進んだところで、もう一度彼女は振り返り、

「モーテルまで来て何もしなかったのは、あなたが初めてよ」

 健闘者たる僕に臆病者の勲章を与えたのだった。


 夜中の四番街に彼女は消えて行った。


 部屋に一人で引き返した僕は、ルームサービスでウィスキーのダブルを注文した。酒の力でも借りなければ巧く寝付けそうになかった。疲労を感じているはずなのに、目はやけに冴えていた。


 およそ十分後にホテルマンのような格好をした、だが紳士とは程遠い品の無い男がロックグラスを銀トレイに載せて運んできた。彼は二度、ドンドンとドアを叩いた。あまり控えめとはいえない種類のノックだった。借金の取り立てにでも来たように、「開けて貰わなければ困る、お前にはその義務がある」というような切迫した打音。そうした余裕を感じさせない態度も、彼がホテルマンらしくない要因の一つだった。

 だが無理もないだろう。こんな安モーテルにそこまで要求する方が間違っている。むしろルームサービスがあるだけでも僥倖だった。


 グラスを受け取り、引き換えに代金を手渡す。やはり借金取りみたいだと思った。膨大な負債の中から法外な利子分だけを支払う。

 僕が紙幣を取り出す間、彼が部屋の奥をこっそり窺ったのを僕は見逃さなかった。ベッドの上に裸の女でもいて、あわよくばその裸体を拝見できないかというような、自販機の釣銭口を漁って誰かが取り忘れた小銭でもあれば「儲けもの」というような下賤な視線だった。

 だが生憎、彼の期待には応えられそうになかった。ここに女性の姿はない。彼女は僕一人を残して部屋を出て行ったのだ。落胆を顔に出すこともなく、彼は頷くように首を上下して(会釈のつもりらしい)、バタンとドアを閉めた。


 僕は鏡台の椅子に座った。ついさきほどまでリリーが身支度を整えていた鏡台だ。その場でウィスキーを煽り、二口で飲み干す。カランと氷の音。独特の香りと苦味が口一杯に広がる。熱い液体が喉を焼き、食道を通り過ぎ、胃に落ちるのが分かった。


 灯かりを消してベッドに入る。だが眠気は訪れなかった。動悸が激しくなり、頭がぼんやりとするものの、覚醒した意識は容易に僕を眠りへと誘ってはくれなかった。

 何度も寝返りを打ちながら、彼女と交わした言葉一つ一つ、彼女の表情一つ一つを間違い探しでもするみたいに僕は慎重に吟味していた。


 結局、朝まで眠りはその心地よい忘却を齎してはくれなかった。六時を過ぎた頃、ふいに意識が遠退く感覚があり、僕は二時間ほど眠った。

 再び目を覚ますと、酔いの余韻が脳内を支配していた。わずかに吐き気を感じたが耐えられないほどではなく、洗面所で洗いざらい吐き出すこともなく、暫くベッドで横になっていることにした。


 一時間ばかり天井を眺めていると徐々に平衡感覚を取り戻し、途端に景色が退屈に感じられる。僕はベッドから起き上がって服を着た。特に荷物もなかったし、室内を散らかしたわけでもなかったからそのまま部屋を出た。無人のフロントに鍵を返して僕はモーテルを後にした。


 屋外に出ると太陽はすでに頭上に昇っていて、新鮮な陽射しが街を浄化していく。その中で僕だけが古い肉体と真新しい後悔を引きずったままだった。

 早く家に帰ってシャワーを浴びたかった。歯を磨いて、髭を剃って、体を擦って、汗を、酒を、こびりついた穢れの全てを洗い流してしまいたかった。


 午前中の三番街は閑散としていた。


 全ての店が扉を固く閉ざし、灯かりを消して、ひっそりとした眠りについていた。まるで新種のウィルスによる疫病が大流行し、まるごと封鎖された街並みのように。通行人の姿もほとんどなく、誰かが捨てていった吸い殻と残していった吐瀉物だけが昨夜の爪痕をくっきりと刻み付けていた。


 路上にいる数少ない登場人物はモップと箒と塵取りを手にした清掃員たちだった。彼らは商売女やバーテンが眠りにつく頃に目覚めて、入れ替わりで街にやってくる。そして派手で煌びやかな、だが中身のない空虚な痕跡を消し去ってしまうのである。


 彼らとすれ違う際、僕が敬意を込めて会釈をすると、それも仕事の内であるというように丁寧なお辞儀を返してくれた。それをもって「あのホテルマンとは大違いだ」などと言うつもりは毛頭ない。要は僕の方に誠意が不足していただけのことだろう。快い接客を受けるためにはこちらも相応の誠意を示さなければならず、そこにおいてサービス料の有無は関係ないのである。


 二番街の駅で電車を降りる。


 駅前の喫茶店に入って、ホットコーヒーとベーコンエッグとトーストを注文する。トーストは好物だったが、卵はそれほどでもなかった。ただ「朝食らしいものを」と思っただけだ。そうすることで境目のないまま続く「長い一日」にどこかで区切りを付けたかった。


 熱さだけが取り柄のような苦いコーヒーをすすりながら、周囲に視線を巡らせる。平日の中途半端な時間帯の店内は空いていた。それでもいくつかの席は埋まっていて新聞を広げる者、ノート型端末を操作する者、クロスワード・パズルに取り組む者と時間の過ごし方は様々であったが、全ての登場人物が黒いスーツを着ていた。

 まるで火葬場の待合所のようだと思った。見知らぬ親族が狭い個室に閉じ込められ遺骨になるまでの時間を共有しているような、どこか居たたまれない雰囲気だった。

 僕は何となく場違いな気がして、早々に店を出ることにした。トーストもベーコンエッグも半分以上残してしまった。やはり元々食欲なんてなかったのだ。


 駅から団地の方向へ歩いていると作業服の集団とすれ違う。これから昼勤に向かう工場労働者たちだ。目が合うと多くの者は目を逸らし、数人が睨みつけるような目で僕を見た。非番である僕を羨むように、あるいは群れに加われぬ者を憐れむように。僕も同じ立場であったなら、似たような恨みの視線を彼らに向けていたことだろう。


 長い道程の末、労働者アパートに辿り着き、階段を上り三階の自室のドアを開く。重い音を立てて金属扉が閉まると、ようやく僕は「一人きり」になる。

 だがやはり完全な孤独とはいかず、そこら中にある無機物たちは所有者である僕の付属物として存在していて。脱ぎ散らかした服、飲みかけの缶、空中を舞う埃さえもそうした日常のあれこれが昨日のまま時間を停めたみたいだった。


 さしあたって僕のすべきことは室内の換気をすることだった。窓を全て開け放って空気を入替え、部屋の中を少し片づけた。寝不足を引きずったままの体はすぐにでもベッドに飛びこむことを求めていたが、覚醒した脳は淡々と雑務をこなしていった。

 およそ今思いつくだけの雑用を終えると、シャワーを浴びて念願のベッドに入る。眠りはすぐに訪れ、僕はたっぷり十時間ほど眠った。


 目を覚ますと部屋の中は真っ暗だった。時を刻むデジタル数字だけが光っている。六時三十七分。果たしてそれが午前なのか午後なのか、しばらくの間判らなかった。

 今日はどんな一日で昨日は何があったのか。順番に思い出そうとしてみたけれど、消しゴムを掛けたみたいに微かな筆圧の痕跡しか浮かんでこなかった。

 前後不覚のまま室内を見回し、カーテンの隙間から差し込む光がないことに気づきようやく僕は長い一日の延長線上にいることを知った。


 わずかな期待を抱きつつ端末を確認すると、リリーから電子メールが届いていた。受信時刻は午前九時過ぎ。僕は八時間以上もその返信をしていなかったことになる。


「サーカスに行きたい」


 それが彼女の本文の全てだった。情報不足のネットニュースにタイトルのように。実現不可能な野党の公約のように。もし仮に僕がその時間にまだ起きていたとして、その「シュプレヒコール」にどう応えたものだろう。覚束ない指先で「行こう!」と一言だけ返し、再び僕は深い眠りについた。

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