ジプシー・サンディー

 ジプシーたちは日曜の朝に街へやってきた。


 乗ってきた馬車を停めて広場に陣取り、一息つく暇もなくテントの設営を始める。まずは比較的小さなテントを傘でも広げるみたいに簡単に立ててみせると、いよいよメインテントの設営に取り掛かる。幾重にも折り畳まれた幌、骨組みとなる金属棒、その他諸々の部品が続々と荷馬車から降ろされる。それらを非効率的なようでいて、実に無駄のない合理的な動きで組み立てていく。


 彼らは黙々と作業をこなしている――わけではなかった。二人一組になって支柱を運んでいる最中も、トンカチで杭を打つ合間も、彼らの談笑が止むことはなかった。中には昼間から酒瓶を煽っている者も、しゃがみ込んで煙草を吸っている者もいた。そこに統率性と呼ぶべきものは微塵も見当たらず、実働と休息とのメリハリもなく、あるいは思い思いの遊楽に興じているようにも見える彼らは、それでも集団としてはテキパキと仕事を進め、夕方には立派な「サーカス場」が広場に出現した。



 夜空を煌々と照らすエレクトロライト。メインテント入口には長蛇の列ができて、その周囲を取り囲むように屋台が立ち並んでいる。軽食や飲み物なんかが相場よりもずっと高い値段で売られていたが、それに対して文句を言う者は一人もいなかった。


 会場の至る所ではサーカス団に属していない大道芸人たちが各々の技を披露して、小銭を稼いでいる。どこか異国の聞き馴染みのない、だけど同時にどこか懐かしくもある陽気な音楽は途切れることなく(曲が終わるとまた同じメロディが流れ始める)会場を満たしている。


 ふと、僕たちの方に一人の大道芸人が近づいてきた。ピエロのような赤鼻を付けた彼は手に持った三つの玉を眼前に示すと、それらを頭上に投げて器用に回し始める。

 等間隔で回転するサークルの中に一つ、また一つとボールを加えていき、最後には自分の鼻を取ってボール代わりにした。

 五つの玉と鼻を見事にキャッチしたのを見届けて、僕は彼の腰にぶら下がった籠に紙幣を一枚入れてやる。赤鼻を付けてピエロに戻った男は腕を前にして一礼すると、次なる客(カモ)を求めて去っていく。


 その間、リリーはぴくりとも笑わず退屈そうにしていた。ボール・ジャグリングがお気に召さないというわけではなさそうだった。金を払わない代わりに彼女は芸人に向けて精一杯の拍手(それを彼が有益だと感じるかは分からないが)を送っていた。

 それでも彼女はどこか浮かない顔をしている。心ここに在らずというか、無表情なスカイブルーの瞳に映る羨望は前方の巨大テントのみに向けられているようだった。


 舞台上の非日常と場外の日常、果たしてそこにどんな違いがあるというのだろう。

 それらは演出の違いによるものなのだろうか。それとも単に彼女自身の準備不足の問題なのだろうか。あるいは男の愛撫にリリーを夢中にさせるだけの技量が備わっていなかっただけの話なのかもしれない。

 だがこれから始まるショータイムについてもそれは同様だろう。客の側に楽しむという気持ちがなければ、いかなる演目もただ眼前を通過するだけの不思議で無意味な不可思議で無価値な事象に過ぎないのである。


――彼女はサーカスに何を求めているのだろう?


 客席は舞台を取り囲むように後方にいくにつれて高く見下ろす格好になっている。僕たちは最前列の席に座り、ポップコーンを摘みながらショーが始まるのを待った。

 本番が始まるまでの間、客を飽きさせないように一人のピエロ(先程の大道芸人のように赤い鼻を付けただけの偽者ではなく、白塗りのメイクを施し、衣装まで揃えた正真正銘のピエロ)が滑稽な動作でステージに現れ、本編の演目を暗示させるような危なげな様子で客を煽っていた。やがて、彼らが退場すると同時に場内が暗くなる。


 珍妙な音楽と共に最初にステージに登場したのは、やはり二人組のピエロだった。

 前座を務めていた太っちょのピエロと相方のひょろ長のピエロ。ボールとバット、あるいは「1」と「0」のような解りやすい組み合わせだった。

 彼らはサーカス団に属する者ならば当然に心得ているとばかりに、パントマイムや綱渡り(これはあっけなく失敗した)などの妙技を軽々と披露すると、追いかけっこするみたいにステージから掃けていった。そして、ここからがいよいよ本番だった。


 一輪車に乗った曲芸師。動物使い。火の輪くぐり。人間ピラミッド。バトン使い。奇術師。綱渡り。再び登場したピエロはロープで首を吊って、不気味に笑っていた。


 空中ブランコが始まった時、僕はふとリリーの横顔を窺った。彼女は泣いていた。

「大丈夫?」と僕は反射的に訊こうとした。だが次の瞬間、白描の表情がきらきらと晴れ渡っているのを見て、その涙が豪雨によるものではなく俄雨なのだと気づいた。


 キャット・フードをぶち撒けたようなキャビン。アティチュード無きエチュード。イミテーションの如き無意味なハイ・テンション。スチュワード不在のスペード。


――彼女がサーカスに求めていたのは「限りない自由」だったのだ。


 全ての演目は大盛況の内に終了した。万雷の拍手の後、僕たちはゆっくりと席から立ち上がる。決して報われることのない無垢な魂を骸の肉体から引き剥がすように。


 退場する観客の列に並んでテントを出て、帰り掛けに通り沿いの屋台を冷やかす。素人向けのマジックのタネ、様々な動物のカチューシャ、ロリポップ・キャンディ、使い捨てのサイリウムなどが、上演前よりも大幅に値下げされて叩き売られていた。


「ぜひ、今日という日の記念に!」

 売り子たちは異口同音に、いかにも女性たちが好き好みそうな宣伝文句で男性客の財布の紐を緩ませようと躍起になっている。

 間もなく終幕を迎える非日常へのアンコール。だが現実から切り離された空想に、何の価値があるというのだろう。それでも一人の踊り子がふいに僕の目に留まった。


〈ハート型の台座の上で悩ましげにアラベスクするバレリーナ(オルゴール付き)〉


 どう考えても日常生活には不必要な代物だったが、リリーと腕を組んでいる鼓動に後押しされてつい買ってしまった。男は山積みされた箱を一つ取って、僕に手渡す。


 そうして不合理な記念品は、久しく新参者を迎え入れることのなかった僕の部屋に場違いな剽軽者として加えられたのだった。

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