危険すぎる

 モーテルに辿り着いたのは夕闇迫る頃だった。


 二人きり。まるで僕たち以外の人類は、その大半が絶滅してしまったかのように。

 フロントには数少ない生き残りの一人である頭頂部が薄くなった中年の男がいて、彼は新聞を広げ、大して面白くもなさそうにそれを眺めていた。朝からずっと読んでいるのだろう。朝刊には皺が寄ってひどく読みづらそうだった。ページを捲る度に、くしゃくしゃと渇いた音が響いた。


 来客に気づくと、彼は無言で顔を上げてこちらを見た。疲れ果てた目をしていたがそこに浮かぶ眼光だけがやけに鋭かった。

「二人?」僕に訊きながらも彼は傍らの彼女に粘着質な視線を向けて、露わになった太腿や胸の谷間を舐めるように眺めた。不躾な視線に僕は少なからず不快感を抱いたものの、それについて抗議することはしなかった。あるいは僕が勝手に彼の目つきを卑猥なものだと解釈しているだけのことで、だとしたら僕の方が彼女の外見に対して偏見の目を持っているということになる。


 僕は頷き、彼は何かに怯えるように入口の方を窺った。まるでそう遠くない将来に不都合な現実が待ち受けているというように。

 所定の料金を支払うと、彼はフロント奥の壁に掛けられた鍵を一つ取って差し出し「五〇八」と言った。そして何事もなかったように、再び朝刊の続きを読み始めた。


 エレベーターの扉が閉まると、リリーが腕を組んできた。そうすることが当然だというように、ごく自然で手慣れた動作だった。左腕に当たる柔らかな感触とは裏腹に僕は胸の奥に微かな痛みを感じた。それでも彼女の腕を振り払うことはしなかった。


 指定の部屋番号のプレートを見つけて中に入ると、リリーが突然抱きついてきた。

「やっと二人きりになれたわね」

 僕の耳元でそっと囁く。心地よい焦燥が背筋を這い上がるような感覚。だが快楽に身を委ねるのは、いささか尚早である気がした。

「とりあえず、ゆっくりしよう」

 僕はまるで清廉潔白な紳士にでもなったような言葉を吐いた。それに対して彼女は「そういうタイプなのね」と、よく分かるような分からないような返答をした。


 灯かりを点けて、室内を見回す。ベッドが二つとナイトテーブル、小さな冷蔵庫と簡素な化粧台、それがこの部屋にある全てだった。まさに寝るためだけの場所であり冷静さを失った男女が一夜を過ごすには丁度いいだけの調度だった。


 続いてバスルームに向かう。手前に便器があり、奥にシャワー、バスタブは無い。割れた洗面台には、なぜか数個の「レモン」が置かれていた。消臭のためだろうか。清潔とは言い難い浴室において、その果実だけが汚濁を免れていた。


 試しに蛇口をひねってみると、風邪をひきかねないくらいの時間が経ってようやくお湯に変わる。だが再び頻尿患者の如く唐突に水流が途切れる。僕は溜息をついた。やはりこのバスルームの中で唯一愛すべきものは、洗面台のレモンだけらしい。


「お客さんのお仕事は室内装飾人インテリアコーディネーターかしら?」

 浴室のドアからリリーがひょっこりと顔を覗かせ、皮肉っぽく訊ねてくる。

「いや、こういうところに来たの初めてだから」

 彼女の冗談に真顔で応じながら、僕は恥ずかしくなった。焦燥と緊張を隠すため、あえて婉曲的な行動を取る。まるで子供みたいだ。僕は彼女を連れて浴室を出た。


「さて、どうしようか?」

 仕切り直すように僕は訊ねる。リリーは二つ並べられたベッドの右側に腰掛けて、脚をぶらぶらさせている。上下に跳ねてスプリングの具合を確かめながら、暇そうにあくびをしている。彼女はあまり眠そうではなかった。僕としても眠気はぴくりとも感じていなかった。


「何か飲む?」

 喉が渇いていたわけではないけれど、ひとまず僕はそう提案してみることにした。舌先を濡らすことで、軽妙な台詞が出てくるのを期待して。

「でも、冷蔵庫には何も無いわよ?」

 僕が内見をしている間に、ちゃっかり冷蔵庫の中身を確認したらしい。僕としても予想はついていた。それはあくまでも外部から持ち込んだ飲食物を冷やすためだけに存在するのだろう。だが浴室を見た限り、その機能すらもまともに備わっているかは疑わしい。


「何か買ってくるよ」

 僕がそう言うと、突然リリーは吹き出した。

「ごめんなさい。まさか女の子をモーテルに誘っといて、次の選択肢が部屋から出ることだなんて思わなかったから。じゃあ『コカ・コーラ』をお願い」


 自らパシリを買って出た僕が部屋を出ようとした間際、後方から声を掛けられる。

「帰ってきたら、私は居ないかもしれないわよ?」

 振り返ると、またしてもリリーは悪戯っぽい蠱惑な表情を浮かべていた。

「それならそれで、仕方ないよ」

 僕は虚勢を張りつつそう答えた。だが実際のところ買い出しから戻ってきて彼女が居なかったら、一体どんな気持ちになるだろう。手狭であるとはいえ二人用の個室に二人分の食料を抱えて取残されたとしたら、堪らなく惨めな気分になるに違いない。


 数分後、僕はオールナイトストアの袋を提げて、モーテルの部屋をノックした。

「はーい」と声がして、すぐにドアが開かれる。どうやらリリーの予感と僕の懸念は外れたらしかった。

「ルームサービス、ご苦労様。お代はキスでまけてくれるかしら?」

 そのジョークには取り合わず、僕はビニール袋から取り出したコークを手渡す。

「ありがとう」

 彼女はベッドから腰を浮かせてそれを受け取り、再び行儀よく座り直す。それから僕は戦利品を一つ一つ順番に披露した。


 暇を埋める『トランプ』、小腹を満たす『チョコレート』、『スケッチブック』はやや迷った末に結局買わなかった。笑顔を描きたいが、僕には絵心が全くないのだ。

 人類が進化の過程で様々な野性的本能を失ってしまったように。


 夜は始まったばかりで、僕たちの前には手つかずの膨大な時間が横たわっていた。

 僕はケースから取り出した新品のトランプを対戦相手のいないディーラーさながら無意味にシャッフルしたり、無軌道にピッチングしたりしている。

 リリーは封を開けたアーモンドチョコを一つずつ摘まんで口に放り込み、ピルでも服用するみたいに炭酸飲料で飲み下す。彼女の周囲から漂ってくる甘ったるい香りは僕を少しばかり不安定な気持ちにさせた。


「なにか怒ってる?」

 空き缶に微かに残る涼感を両手で確かめながら、リリーが怪訝そうに訊いてくる。

「そんなことないよ」

 僕は本心から答えつつも、同時に嫌な予感がした。暫しの無言が彼女にそのような印象を与えてしまったのだろうか。

「でも、さっきから全然つれないじゃない。こんな美女とこれから一夜を共にしようっていうのに」

 缶の表面についた水滴を指先で弄びながら、あくまでも不服そうにリリーは言う。僕は無価値なベットをやめて、彼女と向かい合うようにベッドに座り直した。


「戸惑ってるだけだよ。なんだか現実じゃないような気がして」

 リリーは小首を傾げた。だがその返答は、まさしく僕の心境を如実に表していた。未だ自分の置かれた僥倖ともいえる状況が、この夜が現実だと実感できないでいた。

「『現実』ね」

 何気なく放った僕の言葉が、どうやら彼女には引っ掛かったらしい。機嫌を損ねたようにも見えたし、語るべき会話の糸口を見つけたようにも見えた。


「あなたには『夢』ってある?」

 儚い祈りにも似たその言葉が、まだ甘美な響きを漂わせていた頃をふと思い出す。繰り返される日々に摩滅され、今や宝石のような希少性しか見出すことはできない。たまにこっそりと取り出して個人的に眺める分には美しいが、それは鉱物の如き限りない輝きを放つものではなく、都合よく調整された贋物のような人工物に過ぎない。


「そうだね」

 わずかばかり思考を巡らせたのち、僕は密かに胸に秘めたる拙い願望を語り出す。

「今の仕事を辞めて、音楽で食っていく。今より生活が苦しくなったって構わない」口に出した途端に恥ずかしくなる。そして案の定、即刻リリーから突っ込まれる。

「それはただの『目標』じゃない。夢ってのはもっと突拍子もないことじゃないと」

 彼女は駄目出しする。その実現性ではなく、そもそもの定義について異を唱える。

 そんな指摘をされたのは初めてだった。大体いつも夢について語るときは現実的であるか否かが話題の中心となる。だが彼女の口調には僕を強制的に納得させるだけのある種独特な雰囲気が備わっていた。僕は半ばやけっぱちになりながらも言い放つ。


「僕は君を連れて、この街を抜け出す。大草原に小さな家を建てて、二人で暮らす。僕は狩りに出て、君は作物を育てて、鶏と牛を飼って、その日に獲れた物を食べて、夕食の後には二人で唄って過ごす」

 計画と呼ぶにはあまりにも馬鹿げた妄想を、だけど僕は真剣に語ってみた。舞台に「大草原」を選んだのは、夢見心地に眺めた映像越しの光景と重なったからだった。彼女の呆れる顔がよぎった。だがそうはならなかった。


「素敵!」

 リリーは感嘆符を幾つも重ねて叫んだ。僕は自分の口から飛び出た無責任な発言が信じられなかった。僕は「狩り」なんてやったことがないし、彼女が「農耕」を好むとも思えなかった。殆ど唯一ともいえる実現性は、歌を唄うときの伴奏のみだった。

「それでそれで? もっと続きを聞かせて」

 リリーは愉快そうに笑い、僕たちは同じベッドに入った。ベッドの隙間に横たわる深い溝は地殻を突き破り、地球の核まで続いているようで『危険すぎる』気がした。



 先に力尽きたリリーは穏やかな寝息を立てている。規則的な呼吸音には何かしらの入眠作用があるかのように。あるいは深層心理を呼覚ます催眠効果があるみたいに。彼女を起こさないよう気をつけながら僕はベッドから這い出して、一人窓辺に立つ。

 夜の帳を下ろした街。遠くの方に工場の灯かりが見える。今宵も街は休むことなく稼働し続けている。僕たちは二人きりだけど、決して孤独ではない。夜中に目覚めた赤子が母親を見つけて泣き止むように、僕は確かな安心感を抱いた。


 ふと夜空を甲高い音が切り裂く。定時を報せるものではなく、もっと緊迫した音。消防車のサイレンだろうか。否応なしに非日常を想起させる単調な短調曲はけれど、僕たちの日常に対しては不干渉だった。


 暫くして眠りの細い糸をようやく手繰り寄せた僕は窓辺を離れる。逡巡したのち、無人のベッドに潜り込む。夜鐘は絶え間なく平常を乱し続けている。果たしてそれは夜窓から聴こえるものなのか、耳の奥で奏でられる夜想曲なのか判別できなかった。


 それでも残響はやがて僕を現実に係留することを諦め、僕は浅い眠りについた。

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