■■■■■■■■へ
走馬燈を見ているかのようだった。真夜中の遊園地。色褪せたメリーゴーランド。赤茶けた白馬に跨るリリーは無邪気に手を振っている。あどけない少女みたいに。
まるで終わりのない幻覚を見ているようだった。グルグルと意識が遠退いていく。回転木馬は永遠に止まらない。自然と涙が溢れてきて、彼女の姿が、世界が滲む。
――僕たちはどこにも行けない。
「遊園地なんて、いつぶりかしら」
閉鎖されたチケット売り場を素通りして、入場ゲートの手前に張られたチェーンを乗り越える。僕たちは交代でモギリの役をこなして、不可視の入場券を確認し合う。
ここから先は「夢の国」のはずなのだが、そこにある遊具たちはどれも錆び付いて酷くくたびれていた。初孫の遊び相手を進んで買って出るも、老体に鞭打つ過酷さに嫌気が差した祖父のように。子供の成長につれ飽きられ忘れ去られた玩具のように。老朽化した遊具の佇まいは、僕に一抹の寂寥と哀愁を抱かせるのだった。
無人の広場中央の噴水(水は涸れ割れたコンクリートが剥き出しになっている)で僕たちを出迎えてくれたのは、このテーマパークのメインキャラクターであるらしい鳥の人形。翼を左右に広げ、特徴的な嘴をぶら下げたそれは『ペリカン』だろうか。だが塗装の剥がれた外見と周囲の暗さも相まって、その姿はどこか「不吉な怪鳥」を思わせた。傍らのペンキ塗りのベニヤ板には、彼についての紹介文が書かれていた。
「■▪■くん(名前の部分は文字が擦れて読めなかった)はパークを頻繁に抜け出し(世間が今よりも寛容であった頃の話だ)近くの幼稚園に遊びに出掛けていました」
ふと僕の目に、少年をその広い背に乗せて世界の空を飛び回る彼の姿が浮かんだ。
「たちまち園児たちの人気者となった彼は、やがてこのパーク内のみならず街全体の『アイドル』として永遠に語り継がれるようになったのです」
その説明書きを読み終えた後では、彼に対する不気味さはもはや微塵もなかった。寿命が尽きても尚、人々の記憶の中で生き続ける存在。永久なる不老不死の生命体。
それでもひとたび偶像として具象化されたなら、やはり経年劣化による老化現象を免れない。哄笑を浮かべたまま朽ち果てていく人形の姿に僕は少なからず同情した。
顔を上げてゆっくりと周囲を見回す。営業時間外の園内。今日の肉体労働を終えた遊具たちは、貴重な余白の全てを休息に充てるかのように眠り込んでいる。
入園前から分かりきっていたことだ。「貸し切り」という言葉に心惹かれたもののそれは単に借手が居ないというだけの話であり、非稼働故の貸借不成立に過ぎない。
彼女はがっかりするだろうか。期待外れの失意は僕たちの関係性に一体どのような影響を及ぼすのだろう。僕にとってはそればかりが気掛かりだった。
僕は再びリリーの後ろ姿を見つめた。幻想から抜け出した彼女はソバージュの髪を踊り子のようにふわふわと躍動させ、ワンピースの裾をひらひらと動揺させている。
つい最近になって自立歩行を始めたばかりの我が子を見守る過保護な親のように、今にも転倒してしまいそうな危なっかしい彼女の挙動から僕は目が離せなくなった。
リリーは何かを探しているらしかった。冬眠用の食料を隠して回るリスみたいに、忙しなく落葉を踏み荒らしている。
「こっち」
出口のない探索にいい加減退屈になってきた僕がベンチに腰掛けようとしたとき、
彼女はあたかも「脱出ゲーム」のヒントでも見つけ出したかのように僕を呼んだ。
無装飾の無機質な見た目をした長方形の匣。どう見ても遊具の類ではないだろう。
リリーはどこからともなく取り出したヘアピンを、針金のように真っ直ぐ伸ばして鍵穴に突き刺す。正規の攻略法を持たぬ迷宮をそれでも根気強く弄り回していると、やがて軋む音を立てて扉が開いた。
宇宙論の如く難解な分電盤。そこに配列された無数のスイッチとレバーを、彼女は技術者さながら顎に手を当てて慎重に検分したのち、一番上のブレーカーを上げる。
すると紫紺の山向こうから朝陽が昇るように、たちまち園内に欺瞞の朝が訪れる。
「ほらね、言った通りでしょ?」
リリーは得意げにそう言った。楽しそうにはしゃぐ彼女とは対照的に、僕としてはただでさえ疲れ果てているのに真夜中に叩き起こされる彼らが不憫でならなかった。
リリーは最初に「観覧車に乗りたい」と言った。僕は高いところがあまり得意ではなかったけれど、彼女の提案に乗ることにした。
順番を待つこともなく、一番低い所に回ってきたゴンドラにスムーズに乗り込む。観覧車はゆっくりと、だが着実に高度を上げていく。
「見て、街の灯かりがもうあんなに小さく見えるわ」
近くにあるものは醜く、遠くのものは美しく思える。僕たちの人生と同じように。
「あなたって、もしかして
あくまでも客観的な僕を憐れむように彼女は訊き返す。
「でも本当に面白いのは、あっちの暗いほう」
六番街について僕にあまり土地勘は無いのだが、荘厳な黄金色を目印にした限り、あちらの方角は風俗街で間違いないだろう。
「あの暗闇の下で、お互い今夜初めて会った者同士の男女が身体を重ね合ってるの。一人ぼっちじゃどうにもならない、孤独と性欲を分け合うように」
そこで僕は胸に秘めたる想いをリリーに打ち明ける。地上から遠く離れたことで、どこか浮足立ったみたいに。
「私、誰とでも寝るような女よ?」
特に悪びれる様子もなく、僕の純情を嘲笑うかのように彼女は言う。
「電話一本で、男の欲望を満たしに駆けつける『コールガール』」
自己憐憫に浸るように皮肉っぽく、自己嫌悪に陥る僕を落ち着かせるように嘯く。
「ねぇ、今ここで舐めてあげよっか?」
硬いシートの感触を確かめつつ、頑なな僕の心に彼女はそっと指を滑り込ませる。
「哀れな独身者たちを見下ろしながら、まるで『独裁者』にでもなったような気分」
だが僕は意固地になって固辞した。慇懃な一部の言いなりになるのを厭うように。
「私も、あなたが好きよ」
観覧車が最上部に来た頃、リリーがふいに身を寄せてきて、僕の額にキスをした。好意的な口唇による紅潮は幸か不幸か、効果的に僕の思考を膠着状態から解放する。ゴンドラが降下していく中、僕の体はまるで硬化したように身動き出来ないでいた。
観覧車から降りた僕たちは、特にこれといった目的もないまま遊園地を逍遥した。額に残る感触と微熱が確かな高揚を僕に与えている。わずかばかり空腹を感じたが、キャスト不在のパーク内においてはさすがに屋台の軽食にはありつけそうにもない。
テントのような山張りの大きな建物があって、その中では往年のゲーム筐体たちがじっと息を潜めていた。マニア共に売り出せば計り知れない価値を持つ化石たちは、プレイ料金とおよそ同額で手に入るだろう景品をさも貴重品であるかのように並べ、来るはずもない客を誘っている。
「ねぇ、小銭もってる?」
僕は財布を漁ってみたが、そこには数枚の硬貨しかなかった。
「ちょっと待ってて」
両替機に紙幣を突っ込むと、ジャラジャラと盛大な音を立てて硬貨が落ちてきた。僕は何かしらの「アタリ」を引いた気分になった。掌に広げたコインを差し出すと、リリーはそこから一枚を取ってすかさず投入口に放った。
オーソドックスなクレーンゲームだ。そこには何の捻りも工夫もない。正々堂々、真向勝負のフェアなゲームである。景品はどこかで見たようなキャラクターに似せた(よく見るとあまり似ていない)ぬいぐるみ。リリーはさして欲しくもないであろうそれに、僕の掌にあるコインの全てを捧げた。コインが無くなると、僕はまたすぐに両替機で預金を下ろしてくる。そのほとんどを彼女に与え、残った数枚の硬貨で僕は別のゲームをすることにした。
昔からあるシンプルなゲームだ。鉄の棒を操作して円型のフィールドに配置されたカップを狙い、落とせばその景品が貰える。ただ肝心の景品がチューインガム一つであることは戴けなかった。それでも僕は真剣に棒を動かしカップを落としに掛かる。後もう少しで上手くいきそうだという時、ふいにテント内にリリーの歓声が響いた。
「見て見て」
リリーは幸福そうにぬいぐるみを掲げている。数週間も経たない内に可燃ゴミへと成り果てるそれを彼女は後生大事そうに抱えていた。まるで幼い頃からの憧れを一つ手に入れたというように。
僕たちは展望台で三番街の灯かりを眺め、それから波の立たない水面を見つめた。
遊園地は湖畔を半周するように建てられている。湖岸に接岸されたスワンボートは黒鳥の後方で出番を待つバレリーナのように、ぴたりと静止している。
リリーさっき手に入れたばかりのぬいぐるみを両手で動かし、落下防止用の欄干を歩かせている。危険と隣り合わせの不安定な足取りに、自身の未来を重ねるように。
「きっと、あの向こうは誰も知らない国に続いているんだわ」
広大な湖に大海を連想したらしく彼女は言う。だがそれは淡水の灌漑池であって、この先どこにも行き着くことはない。出口のない袋小路の如く湖水は停滞している。
やがてリリーはぬいぐるみを我が子のように胸に抱いて、未熟な腹話術師みたいに魅惑的な赤い唇を尖らせる。チープな布人形に己の陳腐な願望を代弁させるように。
「もし私が魚ならどこまでも泳いでいくわ。世界選手権なんてぶっちぎりの優勝よ。そして北の海で安らかに死んでいくの」
僕にはリリーの言う意味がちっとも理解できなかった。彼女は破滅願望者なのか、あるいは自殺志願者なのか。だが「遠くに行きたい」のだと、それだけは分かった。
だから僕は柄にもなく言った「一緒に行こう」と。するとリリーは目を輝かせて、潤んだ瞳で僕を見つめた。だがそれはほんの一瞬だけだった。不安定な空模様の如く彼女の表情はすぐに達観と諦観に曇り、澄み切った青空から大粒の雨が降り始める。その急転直下の天候変化に対して、傘を持っていない僕は全くもって無力であった。
ようやく泣き止んだらしいリリーは顔を上げて、冥闇に華咲いた円盤を指さす。
「あれに乗りたい」
メルヘンな曲に沿って回る、メリーゴーランド。老いても尚、端正で力強い木馬はその背に客を乗せて運んでくれる。だがそれはただ同じ場所を周回するだけの遊具。
延々と続く環状線を走るように、僕たちは永遠にどこにも辿り着けはしない。
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