マダム・リンダ

 八番街には何度か足を運んだことがあった。


 前に訪れたのは確か二年以上前のことだ。それでも街の様子はその頃からちっとも変わっていない。ひびの入った窓ガラスにガムテープが貼ってあって、背の低い建物の間を渡したロープに洗濯物がぶら下がっている。路上には割れたビンが散らばり、シーツのような新聞紙が風に舞い、どこからともなく腐敗臭と汚物臭が漂ってくる。家と職を失った者たち、行き場を無くした者たちがそこら中で膝を抱えて座り込み、道行く人々に虚ろな視線を投げ掛けている。

 この地域が多くの者たちにどのような名称で呼称されているのかは知っている。『スラム』それが八番街の別称であり、それに相応しい蔑称なのだった。


 機械的に合理性のみを追求するこの街において、なぜこんな無駄とも思えるような「ブランクスペース」が存在するのか。今よりも少し青い頃は甚だ疑問だったけれど良い意味でも悪い意味でも色に染められてしまった今となっては理解できる。

——それは必要だから存在するのだ。

 何にでも余裕というか猶予のようなものは肝要だ。それは潤滑油みたいなものだ。間に挟まることで余計な摩擦を無くし、抵抗を軽減するために用いられる。


『マダム・リンダ』元々は資産家や企業の重役専用の高級娼婦をやっていた彼女は、妖艶な美貌と数多のテクニックを駆使して男共を虜にし、たった数年で莫大な財産を築き上げた。そして娼婦から足を洗った後も、著名人のあまり表沙汰にはしたくない膨大なスキャンダルを知り尽くし、露呈による失脚を恐れる彼らにより特別な恩赦を与えられているのだという。

 ギャングとの交友など数々の黒い噂が絶えない彼女は、その有り余る財力と権力によっていくらでも贅沢な隠居生活を送れるはずなのに。なぜか貧民街に住居を構え、そこから遠隔的に裏社会を牛耳っているらしい。


 私はこれからその人物に会いに行かなくてはならない。


 ケリーから貰った、あまり分かりやすいとはいえない手書きの地図を広げる。

「いいかい? マダムの雰囲気に飲まれちゃいけないよ」彼女の忠告を思い出す。

 地図を何度か裏返したり方向を変えたりして、私はようやく目的地へと辿り着く。


 木造二階建ての一階は「カフェバー」になっていて、二階がマダムの住居らしい。こんな辺境に本当に彼女が住んでいるのかと一瞬疑いたくもなったが、宝の在り処を示すかのように記された大きな×印を見る限り、どうやらここで間違いないようだ。


 改めて眼前の建造物をくまなく観察する。すると一際目立つ赤い屋根は真新しく、窓ガラスは一点の曇りもなく磨かれていて、電飾看板には欠けた文字の一つもなく、真鍮製のドアノブは光沢を放っていて、周囲の建物とは明らかに趣を異にしている。

 その様相はまるで、幼い頃にショーウインドウ越しに憧れた兎人形の家のように。建物自体に気後れしそうになりながらも、ケリーから教えられた通り、正面から見て左奥の階段を上がる。


 ドアの前で立ち止まる。深呼吸を一つ。今一度ケリーの忠告を深く胸に刻み込む。何事も最初が肝心。仕事を斡旋して貰う手前、無礼な態度を取るわけにはいかない。万一、マダムの機嫌を損ねてしまうようなことがあれば、それでお仕舞い。わざわざこんな場所にまで足を運んだ意味も目的も失ってしまう。


 かといって、必要以上にへりくだってもいけない。下手に出れば彼女は私のことを「扱いやすい女」と見るだろう。行く当てもなく路上にしゃがみ込む者たちと同等と見做すだろう。そんな風に同情されるのは気に入らないし(彼女がそのような人間的感情を持ち合わせているかは不明であるが)、そもそも私の性分ではない。

 大丈夫だと自分に言い聞かせる。娼婦としてこれまで多くの男性を満足させてきたように、面倒な客を相手にすると思えばいい。私が今日ここを訪れることは前もって人づてに報せてある。


 ノックをする。返事はない。続けてもう一度、拳を振りかざしたところで――。

「聞こえてるよ」ドア越しに野太い声がする。

「入んな」人に命令することに慣れた口調。

「失礼します」と断って扉を開けた、途端に私は後悔する。言わなければ良かった、と。その一言で、私とマダムの絶対的な立場が確実に決定されてしまったのだった。


 軋む音を立てて開いたドアの先にはベッドを思わせる巨大なソファが置かれていて一人の中年の女が深く腰掛けていた。


 彼女は醜かった。それ以外に形容の言葉が見つからないほど、ただただ醜かった。


 腕も脚を胸も腹も(あるいはその精神にさえも)余すところなく脂肪が付いていて重力に抗う術も持たず垂れ下がっている。現役時代を思わせるパープル色のドレスは見たくもない彼女の皺がれた肌を無意味に露出させている。

 そして何よりも醜いのは、その顔だ。ギョロと見開かれた眼、中心にふてぶてしく居座る鷲鼻、その下の切り裂かれたように歪んだ唇。そのどれもが不必要に主張し、それらをさらに強調させるように派手な化粧が施されている。

 太く引かれたアイライン、道化のようなチーク、塗りたくられただけのルージュ。それらは化粧というよりもむしろ、子供の落書きといった方がお似合いにも思える。そしてメイクとは本来、女性を美しく魅力的に飾り立てるものであるはずなのだが。彼女の場合はそれを施すことで、より「化け物」じみた印象を与えているのだった。


 傍らの小さな丸テーブル(あくまで彼女が座るソファと比較すればの話だが)には中身の半分以上減ったワインボトルが置かれていて、鎮座する彼女を挟み込むように二人の美男子が直立している。

 双方共に無表情で、来訪者である私をあたかもそれが微風か何かであるかのようにさして興味も無さそうに一瞥するのだった。


 彼らは服を着ていなかった。それが動物としての本来の姿である、というように。鍛え上げられた肉体を隠すことなく局部さえ露わにしている。あるいは多くの女性であれば、一度はその腕に抱かれてみたいと思わせるような筋骨隆々の外見。だが私は彼らに対して少しも男性的魅力を見出すことができなかった。「それ」は私にとって単なる芸術品であり、無機質な彫刻であるかのように感じられた。


「そんなトコにぼうっと突っ立ってないで、早いとこドアを閉めてくれないかい?」

 眼前の喜劇を眺めていた私にマダムが声を掛けてくる。苛立っている様子はない。むしろどこか愉しんでいるような素振りさえ窺われた。

 値踏みするような、それを隠そうともしない粘着質な視線。一通りの鑑定を終えた彼女は分厚い唇を奇妙に歪めて、それから「なかなかの上玉じゃないか」と嗤った。

 同調を求めるように左右の美男子に目配せする。だが二対の彫像は表情一つ変えずいかなる反応も示すことはなかった。


「アンタの噂は聞いてるよ、とても愉快な話をね。客の頬を引っ叩いて、窓から裸で逃げ出したんだって?」

 その情報は少しばかり間違っている。より正確には「裸で」でなく「裸足で」だ。だけどあえて訂正する気にはなれなかった。どうやら彼女は他人の噂話を脚色して、面白おかしく歪曲するのがお好みらしい。

「何でそんな事したんだい。あそこにヘンなもんでも入れられそうになったかい?」

 マダムは下世話な冗談を言い、また一頻り下品に笑う。彼女は私を揶揄っている。挑発に乗ってはいけない。


「それは……」私が答えようとする前に。

「こんな綺麗な顔してるのに。とんだ『疵物』になっちまったわけか」

 その声は私の頬をねっとりと執拗に撫で回し、おぞましく背筋をなぞるかのような不快な響きを含んでいた。嫌悪感に耐え兼ねて私は言い返す。

「違うわよ!」

 何に対する否定なのかも不明なまま、私は思わずそう口走っていた。

「口の利き方に気を付けな!」

 すかさずマダムの叱責が飛んでくる。室内の空気を、あるいはそこらにある家具や後方のドアをも振動させる轟音。だがそれに対しても彫像は微動だにしなかった。


 暫しの重い静寂。マダムはボトルに残ったワインをグラスになみなみ注いで一息に飲み干し、乱暴な音を立ててテーブルに置く。分厚い唇を水分と軽い酔いとで潤滑にしたのち、再びしゃがれた声を放つ。

「分かってるかい? 私に逆らえばこの街で生きていくことなんて到底出来やしないってことを」

 マダムの言う通りだった。この世界に身を置いている者、身を堕とした者であれば誰でも知っていることである。だが理解していたとしてもそれを認めたくないという葛藤の中、私は沈黙というささやかな抵抗で答えた。


「なんだい? 急に借りてきた猫みたいに大人しくなっちまって。ビビって小便でもチビっちまったのかい?」

 彼女はまたしても挑発的な口調で嗤う。そこにもう激昂の色調は無かった。眼前の小娘をどう甚振ってやろうか、という愉悦があるのみだった。


「それで? お前は一体何をしにノコノコやってきたんだい?」

 ようやくマダムは私の話に耳を傾ける気になったらしい。ひと通りの罵声と嘲り、それらは全て本題に行き着くための儀式に過ぎない。

 肝心なのはここから。きちんと返答しなければ、それこそ私がこんな魔窟まで足を運んだ意味が無くなってしまう。


「仕事を……」

 だが私は口籠ってしまう。わずかに残ったプライドとさえ呼べない燻ぶった感情が彼女に媚びることを躊躇させる。

「『仕事を』、なんだい?」

 彼女は続きを促す。とっくに目的を知っているはずなのに。あくまでも私の口からそれを言わせたいらしい。

「紹介してもらい、に……来ました」私の語尾は消え入るように小さかった。

「『紹介してもらいに』!」

 我が意を得たりとばかりにマダムは私が絞り出した台詞をオウム返しに反芻する。あたかも旅芸人のお馴染みの謳い文句を諳んじるように。


「どうして、このアタシに紹介して貰いたいんだい?」

 一つ一つ言質を取るみたいに私の口から発せられる言葉を待つ。たっぷりと時間はあるのだと言わんばかりに、不遜な余裕を緩慢な様子に表しながら。

 ここでグズグズしていても仕方がない。無言を継続したところで、マダムの酒宴に興を添えるだけだ。

「私にはもう、行き場所がないからです」腹を括って私は言い放つ。

 ワインボトルに伸ばし掛けた手を止めて、マダムは満足そうに頷いた。


「その通りさ、お前みたいなのを雇いたいっていうような奇特な店はないだろうさ。『大事なお客様』に反抗するような性悪猫をね」

 マダムはあくまで私を猫だと比喩する。取るに足らない、己の意思一つで生かすも殺すも自由にできる小動物であると。

「それこそ、『このアタシ』の口利きでもなけりゃね」

 彼女は一人称を強調する。その呼称に含まれる絶対的権力を誇示するかのように。私がその前にひれ伏し、頭を垂れるのを待ち焦がれるみたいに。

「アタシの名前はなんだい?」

 今さら分かりきったことを訊いてくる。夜の世界に生きる者なら誰もが知っているだろうその名を。やはり彼女は私の口から言わせたいらしい。


「マダム・リンダ」

 私がその名を口にすると、彼女は古い酒の芳醇な香りを堪能するように深く頷く。そこに漂う発酵した響きとその敬称で呼ばれるに至った歴史に思いを馳せるように。

「そう『マダム』。手前の立場すら分かっちゃいない愚かな野良猫にさえ屋根のある場所と食い扶持を与えてやる慈悲深い聖母様さ。どうせなら『マザー』とでも呼んでもらいたいくらいだね」

 彼女の過大なる自己評価には確かに一定の説得力があった。だがそれはあくまでも結果論として、という意味においてのみだ。


「そうだねぇ、例えば」

 やがて彼女は札束でも勘定するように、太い指先をぺろりと舐めてから。

「金もある、地位もある、身元もハッキリした、そんなお客様を相手にする高級娼婦ってのはどうだい?」

 私は戸惑いながら訝しむ。そんな美味い話があるものか。ましてや一度はタブーを犯してしまった、この私に。


「『そんな美味い話があるもんか』って顔をしてるね」

 マダムならぬマザーはいとも容易く、私の心中を見透かす。

「なぁに危険なんてもんは無いさ。『人を騙して貶めて』なんてのは、アタシの趣味じゃないからね。揶揄うのは大好物だけど」

 そうして再び邪悪そうな誹笑を浮かべるのだった。


「なんてったって、相手はごリッパな紳士様ばかりだからね。金払いだっていいし、手前の立場を危うくするような真似は絶対しない。それに呼び出しには何があろうと応じなきゃならない分、回数はずっと少なくて済む。お前は見事『自由』ってヤツを手にするってわけさ」

 マダムの甘言に一瞬揺らぎそうになる。「自由」仮初めに与えられるだけの猶予を果たしてそう呼べるのだろうか。


「しいて言うなら、ちょっとばかし内容に癖があるくらいのもんさ。登り詰めた人間ってのは色んなもんを犠牲にしたり、我慢してきた奴らばかりだからね。それなりに鬱屈した性的倒錯を持ってるもんさ。まあ、とはいってもせいぜい合法的な範囲じゃ舐めたり舐めさせたり、咥えたり咥えさせられたり、ぶち込んだりぶち込まれたり、それくらいのもんさ」


 揺らぎかけた私の意思はここで再び中立へと傾く。肉体的な自由と精神的な自由、そのどちらを優先すべきなのだろう。あるいはそれらは同じものなのかもしれない。

「最近一人辞めたらしくてね、ちょうど空席が出来たところさ。まあそいつは仕事を辞めると同時に、人生も辞めちまったんだけどね」

 マダムは口角を吊り上げる。さも気の利いたジョークでも言ったというように。


「なんでも、客の排泄物を喰わされたんだと。翌朝にモーテルの屋上から飛び降りてハラワタをぶちまけて、それっきりさ」


 あまりに衝撃的な結末だった。だが自ら命を絶ったその娼婦に私が同情することはなかった。嫌なら仕事を辞めれば良かっただけなのだ。人生まで終える必要がどこにあるというのだろう。「命は尊い」なんてそんな胸焼けするような綺麗事をこの場で述べるつもりはさらさらない。それでもやはり命は大事だ。他人のなんて知ったことじゃないが己の命は尊い。それはたった一つしかないのだから。そんな貴重なモノを最低限の自由を、どんな理由があろうとも自ら手放してしまうなんて馬鹿げている。仮に彼女にとって、それ以外の選択肢が何一つ思い浮かばなかったのだとしても。


「まったく、なんで若い娘はこうも死に急ぎたがるかねぇ。人がせっかく生き場所を用意してやったってのに。死んじまったら、何も残らないじゃないか」

 吐き捨てるかのように言う。あるいはそれこそがマダムの本音であるらしかった。彼女と意見が一致したのは初めてのことだった。


「アタシの話はここまでさ」

 私を嬲り嘲るのにも大概飽きたらしい。やや声のトーンを落としてマダムは言う。

「後はアンタが自分で決めることさ。どれだけ迷ったって悩んだって構いやしない。覚悟が決まったら、またここに――」


「やらせてください」

 私は即答する。自己の葛藤と格闘することもなく了承の意向を明確にする。

「ほう」とマダムは感心したように、あるいは呆れたように息を吐いた。

「それじゃあ決まりだね。後日担当者から連絡させるから、ギャラやらシステムやら細かい話はその時に聞きな。それでやっぱり気に入らないってんなら断るのも良し」「ただし、アタシが仕事を斡旋してやるのはこれで最後だ。星の数ほどいるアンタらみたいな小娘一人一人の相談に何度も乗ってやるほど、アタシも暇じゃないんでね」

「わかりました」私は短く答えて、軽く会釈をして、マダムに背を向ける。


「若さってのは、その価値を弁えない小娘が浪費するには何とも惜しいものだねぇ」

 それもマダム得意の皮肉だろうか、あるいは微かに垣間見えた本心なのだろうか。

「もしもアンタがその若さを今すぐこの場でアタシに売り払ってくれるってんなら、いくらだって大金を積んでやるよ。何億だって何百億だって構わない、どうだい?」


 背中越しに聞こえる皺がれた声は、数多の娘共の美貌と精力と若少を吸い尽くして尚も飢えて止まぬ、やはり「化け物」のようだった。

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