タイムズ・スクエア
七番街の大通りを抜けて裏通りに入る。
二つ目の路地を右に折れて、煙草屋の角を右に、丁字路をまたしても右に曲がる。ちょうど区画を一周した形となり、それならばもっと近道があるようにも思えるが所々袋小路になっていたりして、どうしたってこの手順を踏まなければならない。
人気のない夜道を進むと、右側にネオンサインが現れる。『Live house BBB』と書かれたその文字は、忘れ去られたかのような路地裏に燻ぶった光を落としている。
店先に設置された立て看板には、今宵のライブスケジュールが載っている。そこに自分の名前があるのを確認して、階段を下りる。側面の壁にはバンドのライブ告知やメンバー募集のチラシが貼られている。すでに公演を終えた過去の告知も剥がされることなく残っていて、壁面は混沌としている。わずかな隙間を奪い合うように互いに主張し合い競い合っている。そんな亡霊たちとすれ違いながら地下一階に辿り着き、僕は防音扉を開いた。
薄暗い店内、消えたステージライト。数時間後には爆音と喧騒に満たされる、だが今はまだ静寂に支配された空間。そこに柔らかな旋律が溶けている。微かに鳴る音の方向、カウンター席の奥から二番目に店主の姿を見つける。
強面に立派な顎髭を蓄えた壮年の男性はカウンターを背にして座り、お気に入りの葉巻を咥えて古いギターを弾いている。その姿はライブハウスのマスターというより寵愛していた子分を抗争で亡くしたマフィアのボスを思わせた。
しばらくして来客に気づいたらしい彼は顔を上げる。ピックを指に挟んだまま軽く片手を挙げて、ニヤリと笑う。
「相変わらず一番乗りだね。感心、感心」
濁声でそう言われて、ようやく言葉らしい言葉に思い当たる。それを聞いて店主はまたしても特徴的に笑う。
「じゃあ、先にリハやっとくか」
僕が頷くと彼はアコギをカウンターに置いて立ち上がる。「よろしく頼んだよ」とずっしりと重い手の平で肩を叩かれる。いつも通りのやり取りに僕は安堵を覚えた。
ギターをケースから取り出しチューニングを済ませ、それからステージに向かう。
ライブが終わり、ノルマの清算を済ませて再び地上に上がる頃には、夜はすっかり更けていた。少しばかり足がふらつく。飲めないアルコールを勧められるがまま口にしてしまったせいだ。特に強制されたわけでもないがあえて断ることもしなかった。というより今日は何だか飲んでもいい、飲みたい気分だった。
ハードケースを左手に抱えて、不安定な足取りで来た道を反対に辿る。歩きながら今日のライブの曲目と飲んだアルコールの杯数と種類を勘定する。滅多に口にしない度数が強いものも含まれていたことに気づくと、途端に脳にまで酔いが回ってくる。
朦朧とする意識はそれでも帰り道を正確に記憶している。あるいは数十回にも及ぶ繰り返しの中で足が自然と覚えてしまったのかもしれない。結果、曲がり角を一度も間違えることなく、裏通りを抜け出すことができた。
肌を突き刺すような夜風が心地いい。火照った体を冷ましながら、とぼとぼ歩く。道程はむしろここからの方が長い。深夜にも拘らず大通りには多くの人が行き交う。
横一杯に広がって歩く酔っ払いを素面の人間は迷惑そうに避けて通り、すれ違った酔っ払いは明日からの己の現実を垣間見たかのように、わずかばかり酔いを醒ます。その様子はまるで夜と朝が交差するように。だが実際のところ、空の変化というのはあくまでグラデーションであり、明確な『ナイトライン』というものは存在しない。
ふいに今の時刻が気に掛かり、ギターケースを右手に持ち替えて、左ポケットから携帯端末を取り出す。
――四時二十三分。
この時間ならちょうど夜勤者の退勤時間とも重ならず、電車は空いているだろう。やや足が軽くなったのを感じつつ、駅に向かう人の列に加わる。
繁華街に出る。その頃には月もすっかり沈んでいたが、週末ということもあって、行き交う人の群れはその数を増している。駅に近づくにつれて労働者を多く見かけるようになり、対照的に泥酔者の数は少なくなる。そしてロータリーへと辿り着くと、所々に浮浪者の姿が見受けられる。
彼らはそれぞれに大量の空き缶が入ったゴミ袋や紐で括った段ボールや雑誌やらを両手に抱えて、あるいは過剰積載気味のリアカーに載せて、せっせと移動している。彼らの姿が駅前に多いのは回収と運搬を兼ねているが故だ。
一見すると労働とはおよそ無関係でありそうな無頼の自由人であるはずの彼らも、こうしてそれぞれの仕事を持ち、それに見合うだけの対価を得て生活を営んでいる。
この街では仕事をしない者は生きていけない。だが誰もが等しく行う労働も、その価値が同等であるとは言い難い。生産性が低い者は軽んじられる。そしてジョニィがいうところの「システム」から弾き出された者、あるいは望んではみ出した者が一人また一人と姿を消していく。だがそれを気に留める者も、それどころか居なくなった人間に気づく者も存在しない。
それがこの街で日々営まれる日常であり、自然の摂理であると人々はいつの間にか受け入れてしまっている。誰一人として、現状を改革しようと行動する者はいない。為政者はいつだって満たされた側であるのだから。
そして人が冷酷だと断言するにはこの街はあまりにも生温い。だがそこにあるのは優しさではなく、ただ中途半端な易しさだけだ。それでもぬるま湯に浸かっていると徐々にその温度に慣れ、体温と同化され、やがては心地よさだと思い込んでしまう。そうして気づいた頃には違和感の一つも覚えることなく、理想的な熱平衡状態にある流体の一分子として機能している。
僕を、彼らを含めた人こそが街なのだ。己が歯車の一部に過ぎないことを忘却し、あるいは気づかないふりをして、甘ったるい痺れは人と街との境界を曖昧にさせる。
ふと、白いモノが視界の端に映った。
僕は最初それを何か得体の知れないもの、実体を持たない幻影か何かだと思った。アルコールの回った脳が作り出す、お決まりの幻覚だろうと。だが頭を振ってみても目を擦ってみても、それが消えることはなかった。
それは一人の少女だった。
白いワンピースのようなものを着ている。短いスカート裾は膝を隠すこともなく、太ももさえ大胆に見せている。よくよく視るとそれは服装と呼ぶにはやや頼りない、どちらかというと下着に分類されるような代物だった。
そしてそんな格好をして路上に立つ女性たちを男共は軽蔑と皮肉な崇拝を込めて、あるいは便宜上こう呼ぶ。「プロスティテュート」と。
六番街の街角に彼女は佇んでいた。
煌びやかなスクエア。巨大な広告塔を彼女は見つめていた。鮮明なスクリーンにはどこまでも広がる大草原。大自然の風にダークブロンドの髪を靡かせた異国の美女は赤い口紅を差して、意味深長な微笑を浮かべている。それは某有名化粧品メーカーの「新作リップ」のコマーシャルだった。
通り過ぎる幾人かの男性が品定めでもするみたいに無遠慮な視線を彼女に向ける。だが声を掛ける者は一人もいなかった。少なからぬ興味と欲望を掻き立てられつつも美人局の気配のような危険な香りを嗅ぎ取って、あえて避けて通っているのだろう。
あるいはもしこれが数時間前だったなら、状況は大いに違っていたかもしれない。酔いが醒めた直後というのは人間の脳が最も冷静に機能する。ちょうど今頭上にある澄んだ瑠璃色の空のように。
映像内の十五インチと目が合う。だが女優はカメラレンズを見つめているだけで、大画面越しに視線が交錯していると錯覚するだけだ。それを知っているからだろう。辺りを見回しても、やはり立ち止まっている者はいない。
唯一、彼女だけが縫いつけられたようにその場所に留まり続け、大画面を見つめて決して交わることのない視線を交わしていた。
さらに注意深く観察してみると、彼女は裸足だった。彼女の周囲半径三メートル、そこだけ不可侵の領域が展開し、不可思議な世界から迷い込んできたみたいだった。
コマーシャルが流れていたのは、せいぜい一分か二分くらいのものだっただろう。だが僕にはその時間が何倍にも増幅されて感じられた。あるいは、ほんの一瞬とも。
やがて彼女が振り返る。僕と彼女の視線が確かに交わった。あるいは、それすらも錯覚だったのかもしれない。
夜明けの街で広告だけが鮮やかに世界を彩っていた。
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