物言わぬ多数派

 二番街の労働者アパートで目を覚ます。


 淡黄色の五階建てが整列する住宅団地。建設当時は恐らく白であっただろう外壁は経年劣化で色褪せ、所々ひび割れ、雨水の浸食による無数の染みがあまりモダンとは言い難い模様で浮き出ている。それでも建物自体は強固な造りになっているらしく、今のところ倒壊とは無縁で、時代の波に洗われながらもそのままの形を保っている。

 ただ古惚けて見えるだけで、そのせいか入居者の数は年々減少傾向にあるものの、今でも約四割の部屋は埋まっているらしい。そして物好きな住人の一人が僕であり、第三十二棟三〇五号室が僕の住処だった。


 最初に意識を取り戻したのは正午頃だったと思う。だがまだ起きる気にはなれず、再び瞼を閉じた。次に目を覚ましたのはそれから二時間後。薄く開けた目でデジタル数字を読み取り、時間の経過を確認した。それでもあくまで完全な覚醒とはいかず、残った眠気を全て使い切ろうと意識を途切れさせた。その後も覚醒と惰性を繰り返し徐々にその間隔は短くなり、段々と眠りは浅くなり、様々な夢を見た。

 夢はどれも突拍子もなく、脈絡のないものばかりだった。そして幾度目かに時計を睨みつけたところで、ようやく起床することにした。だがそれも睡眠欲をきっちりと清算し終えたからではなく(むしろ眠るほどに気怠さは増していくかのようだった)これ以上寝ていたら夜勤に遅れてしまうという現実的な理由からだった。


 ベッドから身を起こして、改めて時計を見る。時刻は四時十五分。薄いカーテンを容易く透過する西陽に照らされて、部屋の中は淡い色に染まっている。

 テーブルに手を伸ばして煙草とライターを取る。火を点けて最初の煙を吐き出す。いつもならすぐに消えてしまうそれは、いつまでも中空に留まったまま揺れている。

 紫煙の行先を目で追いながら雑然とした室内を見回す。壁は長年の喫煙と日焼けで茶色く染まっている。ベッド脇には服の抜け殻があり、壁際のスタンドにはフォークギターが立て掛けてある。入居当初に購入したガラステーブルには埃と灰が堆積し、その上には飲みかけの缶と吸殻が山盛りになったプラスチック灰皿が置かれている。

 二度目の息を吐く。口から出る煙と先端から立ち上る煙の色が違うことに気づく。吐き出すそれは白っぽく、もう一方は紫色をしている。それらが複雑に混ざり合い、天井へと浮上していく。パーマ髪の如く無限の曲線を描く気体を暫く眺めていると、水中に落としたインクが漂う様子によく似ている。


 途端に室内が液体で満たされたような気がして息苦しさを覚える。体を動かすのも億劫に感じながらカーテンを引いて窓を開けると、遮るものを無くした陽光が一気に差し込んでくる。一日の中で最も強いその陽射しは、一瞬にして室内を浄化する。

 だが実際は外気とほとんど入れ替わることなく、古い空気は相変わらず部屋の中を対流していた。どこからか風に乗って運ばれてきた工業薬品の匂いが窓から侵入し、逃げ場を失って室内に滞留した。剣山のようになった灰皿に吸い止しを突っ込んで、僕は重い腰を上げた。


 窓は開けたままにしておいて浴室に向かう。顔を洗って、髭を剃って、歯を磨く。脚がふらつくのは昨日の酒のせいだろう。ズキズキと疼く頭で曖昧な記憶を辿って、昨晩カラにしたグラスの杯数を勘定してみたが、それは何の慰めにもならなかった。

 鏡に映る自分は酷い顔をしていた。今日世界が終わることを知らされたみたいに。頬は蒼ざめていて目は虚ろだった。本当に自分の顔なのかと一瞬疑いたくなったが、それは紛れもない僕の顔であり、選びようもない自分自身だった。



 支度を済ませてアパートを出ると、人の群れがあった。この閑散とした団地の一体どこにそれだけ多くの人々が収容されていたのか不思議だった。彼らは皆似たような服を着て、似たような表情で、同じ方向を目指して歩いている。工場労働者たちだ。

 それらは川の流れを連想させる。あるいはベルトコンベアに乗せられた何万個もの工業製品を。背広姿の人間は一人もいない。それもそのはずで、スーツを着て仕事に行くような連中は、こんな日没近い時間に出勤することはないだろう。

 第一、彼らのような人種はこんな安さだけが売りのような郊外に住んだりしない。一般にエリートとかキャリア組とか呼ばれる者たちはこぞって街の中心部に暮らし、息の詰まるような狭苦しい部屋に高額な賃料を支払うことで、我々みたいな凡夫にはおよそ理解できない「ステータス」とやらを維持しているのだろう。


 僕自身も流れに加わり、集団の一員となる。個を失い一つの巨大な集合体と化す。その事は僕に多少なりとも不満を与えたが、それ以上に底知れない心強さを感じた。

 群衆に取り込まれることで、ある種の安心感が得られる。だがその安楽は麻薬だ。強烈な依存性を持ち中毒症状を起こさせる。そしてやがては自ら思考することすらも放棄してしまうのである。


 左側には沈みゆく夕陽があって、球体は境界を曖昧にして大気に溶け出している。乾燥した空気と混じり合うかのように、遠方から五時を報せる音楽が聴こえてくる。


 終業の一時間前を報せる予鈴は、朝と夕方と深夜の一日三回、各工場に設置された大型スピーカーから一斉に鳴り出す仕組みになっている。朝のそれは『チャイム』と呼ばれ、四つの音階を並び替えただけの単純なものであり、深夜のそれは『時報』と呼ばれ、甲高いサイレンが鳴る。そして今現在流れている『帰報』と呼ばれるものは三つの予鈴の中で最も長く、唯一きちんとした曲になっている。

『帰報』と呼ばれる理由は、子供たちの帰宅を促す目的を兼ねているからであって、このどこか物悲しげなメロディが夕闇を満たすと同時に児童向け施設は営みを止め、子供たちを自宅に帰すよう条例で定められている。

 さらに音楽が鳴り止むと腕章を付けた児童補導員が巡回パトロールを始め、路上にいる少年少女に口頭で注意を呼び掛ける。十八時までに全児童が無事帰宅することが目標とされ、定時を過ぎて徘徊している者は専用車両で強制的に自宅に送還される。

 親やそれに準じる保護者が同伴している場合を除き、夜が帳を下ろし街が灯かりに満たされる頃には、子供たちは路上から姿を消す。


 駅が近づくにつれて、それまで同色であった群衆に少しずつ異色が混じり始める。女性、子供、老人、これから繁華街へと繰り出す者、用事を済ませて帰路に就く者。各々が各々の目的のために、どこかから来てどこかへ向かう。そのため構内はひどく混み合っていたが、それはある種の秩序と統一性を持った混雑だった。


 すれ違う人を巧く避けながら歩いていると、電車の発着を報せる自動アナウンスに紛れて、機械的な女性の声が聞こえてくる。

「UBE(Universal Basic Expert)経済特別地区は世界最大規模の工業都市であり、国内総生産の実に三割を担っています」

 音の発信源を探すと、それは構内に設置された大型液晶ディスプレイからだった。

「周囲を草原と海に囲まれた円型の都市は、九つの区域によって構成されています。時計回りに一番街から八番街、本社ビルのある零番街。ちょうどピザを八等分して、中心を丸く繰り抜いた形といえば解りやすいでしょう」

 画面にはご丁寧に街の全体図がグラフィックで表示されていたが、一体誰がピザをそんな風に切り分けるというのだろう。


 定期券を兼ねた社員証をタッチして改札を潜り、十八番ホームに降り立つ。すぐに電車が来て、それに乗り込む。群衆は再び同一の目的を持った無色の集合体となる。

 無表情の乗客、無言の人々。まるで戦地へと輸送される兵士のようだ、と思った。昔、映画でそんなシーンを観たような気がするが、題名も内容も思い出せなかった。あるいは、そんな映画はそもそも存在しないのかもしれない。


 運良く吊革を掴めた僕はぼんやり車窓を眺めた。だがそこに風景はなく、真っ暗な背景に自分の顔が映り込むだけだった。他にすることもないので、僕は『車内の男』という退屈な絵画を見つめ続けた。その頃には頭の疼きは幾分かマシになっていた。

 車内アナウンスが聞こえて、車両は間もなく停車する。運んできた者たちを残らず吐き出して、代わりに数人の乗客を乗せて、列車は再び闇の中へと消えていった。


 ホームから地上への階段を上ろうとしている時、ふいに後方から声を掛けられる。振り返ると人混みの中に見知った顔を見つけた。『ジョニィ』彼は同じ工場に勤める同僚だった。

 その場で彼が追いつくのを待つ。立ち止まった僕を後続者たちが迷惑そうな表情で追抜いていく。軽い挨拶を交わしてジョニィと並んで歩く。僕たちの間に会話らしい会話はなかった。何かしら話題を探してみたものの、どれも口端に乗せるまでもない些末な問題であるように感じられた。


 改札を抜けた先で『ユニオン』が演説をしていた。「賃金上昇」「職場環境改善」「長時間労働是正」など耳心地良いスローガンを掲げる彼らは同志たちを呼び止め、頻りにチラシを配っている。

 そういえば、もうすぐ労使交渉の時節であったことを思い出す。年一回、経営陣と労働組合の代表者とが一堂に会し、労働者の待遇について話し合う場が設けられる。会社の今後を左右する会議は我々としても大いに注視すべき事柄であるにも拘らず、当事者たちは皆どこか他人事のように無関心なのだった。

 聞くところよると、団体交渉に提出される議題は企業側が予め用意した草案を元に決められるのだという。だとすればそれは対等な交渉ではなく一方的な通達であり、ボトムアップを模倣したトップダウンに過ぎないのである。

 それにしても、手製の横断幕は彼らの家族が夜なべして拵えたものなのだろうか。それを思えば、殺伐とした文字列にもわずかばかりの健気さが感じられるのだった。


 駅を出ると眼前に巨大な建物が現れる。


 剥き出しの配管が縦横無尽に走り、突き刺さった煙突から蒸気と排煙が絶え間なく上がっている。それは建造物というより太古から生き続ける巨大生物のようだった。

 古代生物は巨体の割に小さな長方形の口を開き、労働者を次々と飲み込んでいく。だが喰われる者たちは誰もそれが捕食者の体内だと気づかない様子で無抵抗だった。


 工場内へと足を踏み入れると、途端に周囲が暗くなる。天井から吊るされた無数のライトに照らされているとはいえ、屋外にある唯一つの光源には遠く及ばなかった。

 瞳孔の調節に若干の時間を要する。視覚情報を制限された代わりに聴覚が冴渡る。呼吸のようなダクト音と混じって、時折歯を擦り合わせるような金属音が聞こえる。それらは建物の外からでも十分に聞こえていたが、怪物が暗闇を糧としてより活発に蠢いているかのようだった。


 六時になって夜勤者にとっては始業の、日勤の彼らにとっては終業のベルが鳴り、僕は生産ラインへと組み込まれる。何を造っているのかは当然分かっているものの、決められた手順をこなすだけの工程では、その全容を窺い知ることは到底できない。

 これから夕食休憩を挟んで八時間、単純作業を延々と繰り返すことになるのだが、それを苦痛だとは思わない。ただ少しばかり退屈だと感じただけだ。



「結局、全てはシステムの一部に過ぎないんだよ」

 ジョニィがそんな風に切り出したのは、休憩時間の社員食堂においてだった。


 白色灯を反射するリノリウムの床。整然と並んだテーブルと、ついさっきそこから下ろされたばかりのイス。それら全てが入口の手洗い場に貼られたポスターの標語を読むまでもなく「衛生」という二文字を体現していた。


 僕たちは列に並び、それほど順番を待つことなく、料理を受け取って席に着いた。僕は日替わり定食Bを選んだ。僕たちは無言で食事を始めてしばらく経ったところでふいに思い出したように、あるいは予め用意されていた原稿をそのまま読むみたいに彼は語り始めるのだった。


「自ら進んで牢獄へと囚われ、労働力を搾取され続ける『永久機構』」

 それを聞いて、僕は「やれやれ、またか」と思った。食事の続きを口に運びながら彼の話に黙って耳を傾けた。


「俺たち労働者ってのは、つまり駒なんだ。体よくこき使われ、程よく使い古され、やがて捨てられる」

 彼は吐き捨てるように「駒」という部分を強調した。僕はさっと周りを見回して、誰かに聞かれていないかを確認した。頭のおかしな奴らだと思われるのは望むところではなかった。だが彼は周囲の視線など気にすることなく続ける。

「飼料を与えられ、家畜の如き生を捧げる」

 彼の演説には共感すべき点がいくつか見受けられたものの。福利厚生の一環として労働者たちに開放された社員食堂において、その声はただ空虚に響くだけだった。


「今日は弁当じゃないんだな」

 僕は試しにそう言ってみた。ジョニィには結婚して二年になる奥さんがいた。一度二人仲睦まじく並んだ旅行写真を見せてもらったことがあるが、どこからどう見てもお似合いな美男美女のカップルだった。

「なんか、今日は具合が悪いらしくてな」

「へぇー、それは心配だな」

 僕は本当に心配になってそう言った。だがそれに対して彼は「ああ」と素っ気ない返事をしただけで、再び「特に俺たちみたいな工場労働者ってのは——」と続けた。


 案の定、元のレールに戻されてしまう。僕は話題を変えるのを諦め、どこに相槌を打つべきかを熟知している彼の講義を聞きながら食事に集中した。彼は休むことなく口を動かし、淀みなく言葉を発しながらも皿の上にあるものを器用に片していった。空腹よりも重要な何かを、彼は腹に据えかねているらしかった。


 休憩時間の終了を報せるベルが鳴り、僕たちは再び仕事へと戻る。後半の作業中、僕はジョニィのその奇怪な食事の仕組みについて思考を巡らせていた。

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