『街』
佐伯佑
環状線の記憶
延々と続く環状線を走っている。
運転席にはかつて父と呼んだ人、助手席にはいつか母と慕った人、後部座席の僕は束の間の眠りから覚めたところだった。
夜はその帳を完全に下ろしていて車内は暗い。それでもわずかな光を求めるように月や星の明りを探そうとしたが、座っている僕の位置からだとそれは見えなかった。自動車の静かな走行音と一定間隔で刻まれる律動が心地良くて、再び僕は微睡んだ。
それは遠い昔の記憶だった。
微かな話し声が聞こえる。彼らが何を話しているのかは分からなかった。穏やかで親密な時間を保持するためか、あるいは眠っている僕を起こさないようにするため、その声は抑えられている。風がそっと水面を撫でるみたいに唇を小刻みに震わせて、彼らはその振動だけで会話をしている。
薄く開いた瞳に映るのは両親の幸福そうな横顔で、だから僕はこのまま寝たふりをしている方が賢明だと、子供ながらにそう思った。
目を閉じて瞼の裏の暗闇に身を委ねる。取り残されたような孤独を感じながらも、甘く優しい眠りが訪れるのを待った。もう少しでその手が差し伸べられそうになったところで、ふいに何かが顔を撫でた。
温かみのあるオレンジ色のライト。「トンネルに入ったんだ」と目を瞑っていても分かった。まるで温度を持っているかのようなその光は僕の体を柔らかく包み込み、下半身から上半身にかけて何度も何度も繰り返しなぞり、やがて唐突に消え去った。短いトンネルだったのだ。
僕はまた言いようのない不安に囚われる。暗闇に耐えられなくなって、こっそりと目を開ける。彼らはもう会話を止めていた。二人とも真っ直ぐ前方を見つめている。僕も彼らを真似して路上をしばらく見つめていたが、代り映えのしない景色にすぐに退屈になって、座席に背中を預けたまま首だけ動かしてみた。
右側の車窓には何も無かった。辺り一面真っ暗でただ一つの明かりも見当たらず、全てが闇に沈んでいた。まるで夜の海のように得体の知れぬ巨大生物が海底で蠢き、じっと息を潜めているみたいだった。僕は怖くなって目を背けた。
次に左側を眺めた。そこには幾つもの灯かりがあった。昼夜を問わず稼働し続けるコンビナート。それら人口の光と煙を上げる長い煙突は『眠らない街』であることを実証し、こんな夜中でも働いている人が存在するという事実は僕の孤独を少なからず和らげてくれた。
やがて自動車のスピードが緩められる。カチカチとウィンカーが鳴らされ左折して高速を降りていく。坂道の心地よい慣性により、再び僕は深い眠りへと落ちていく。
金輪際覚めることはないと思われる睡眠に、だが恐怖心はもはや微塵もなかった。誰と比較する必要もない現状の幸福と将来の展望を約束された、少年の日の記憶。
回想はいつもそこで打ち切られるのだった。
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