オールド・スポート
二番街の労働者アパートで再び目を覚ます。
あれから七日が経った。既製品みたいな日々だった。きちんと箱に入ったそれらを一つ一つ順番に取り出しているかのような一週間だった。
三日夜勤をして、一日休んで、三日朝勤をして、また一日休んで、その繰り返し。それは僕にとって七日間というよりも、三日と一日が二回といった方が適当だった。
一週間というのは、五日働いて二日休む者たちのためにある言葉だ。そして彼らのために便宜上、曜日は七種類に振り分けられている。
ブルーな月曜日。
褐色の火曜日。
真っ新な水曜日。
鈍色の木曜日。
華やかな金曜日。
極彩色の土日。
無色透明な毎日。
仕事中、僕の頭の片隅にあったのは「あの光景」だった。白いドレス、緑の草原、真っ赤な口紅、瑠璃色の空。幾度も繰り返し再生されようとも鮮明さを失うことなく映像は原色のまま記録されている。果たしてそれは僕の脳に記憶されたものなのか、網膜に直接焼き付いたものなのか、あるいは心の奥深くに刻み付けられたものなのか分からなかった。
製造ラインに立ち、ベルトコンベアを流れてくる製品に適切な作業を加えながらも僕の目に映っていたのは、振り向いた彼女の姿だった。だがそれは一瞬の出来事で、彼女が泣いていたのか、笑っていたのか、それともただ単純に無表情であったのか、それすらも判然としなかった。暗かったせいもある。やや距離があったせいもある。あるいは飲み過ぎた酒のせいともいえる。だが全てをアルコールのせいにするのは、あまりにも都合がよく卑怯である気もした。
そして一週間を経て、僕の足は再び六番街へと延びていた。
六番街は昼間のように明るかった。
赤やピンク、紫や黄色のネオンサイン。それらのけばけばしいレタリング全てが、道行く人々を誘い込む巧妙な罠であるかのように思える。そこはかとなく漂ってくるアルコールとオーデコロンの香り。路上に反響する、酔客たちの発狂じみた高笑い。そこは「歓楽街」と呼ばれる場所だった。
ただでさえ人が多いのに週末でさらに混雑した通行人を避けながら歩いていると、幾人もの客引きから次々と声を掛けられる。
僕は最初「いえ」とか「いや」など断片的な言葉とジェスチャーで断っていたが、次第にそれすらも面倒になって無視するようになった。それでも彼らは決して諦めることなく、まるで数十年来の友人であるかのように親しげに近寄ってくるのだった。
ほとんど一本道の飲み屋街を抜けると、やや閑散とした場所に出る。街の灯かりは途切れ、そこだけくっきりと夜の様相を呈している。
享楽に束の間の休息を求める夜の住人たち。車止めに寄り掛かって談笑する若者、咥え煙草で電話をする男、すでに酔い潰れて座り込む人。その中にひと際目を引く、派手な衣装を身に纏った女たちがいた。
街角に立つ娼婦。短いスカートで長い脚を露わにして腰を振る者。厚手のコートの前だけはだけて胸の谷間を強調する者。彼女たちは皆それぞれのセックスアピールを熟知しているらしく、多様な誘惑の方法を会得しているらしかった。
そんな彼女たちを男共は「商品」を物色するかのような目で一瞥し、脳内で理性と本能を葛藤させ、薄い財布に詰まった宵越しの金と相談する。
それはベッドを選ぶのに似ている。購入する前にまず想像する。今夜そのベッドで眠る自分の姿を。シーツの手触り、スプリングの柔軟さ、枕の膨らみ加減、それらがもたらす心地よい睡眠。そして顧客の想像を巧く満たすことの出来たモノから順番に「売却済」の札が貼られていく。
だがベッドと娼婦の相違点はいくつかある。契約成立前は指一本触れられないこと(それに対する報復は「寝違えた」では済まされないだろう)そして後者に関しては一夜限りの快楽を提供するだけということだ。
僕は余程、娼婦たちに訊ねてみようかと思った。だけどすぐに思い直して止めた。街に溢れ返る彼女たちと同種の一人を探し当てることは、無数の星々の中から人類が棲める惑星を見つけ出すかの如く途方もないことだった。
せめてもの特徴である「髪の長い女性」なんてのは、それこそ掃いて捨てる程いるだろうし。そんな些細な手掛かりを頼りに声を掛けてみたところで、得体の知れない架空の神具よりも目の前の即物的な寝具を勧められることは明白だった。
唯一、まだ少しは期待できる可能性として「一週間前に下着同然の格好でいた女」というものがあったけれど、僕はそれについて自ら語りたくはなかった。
あの光景は僕にとって憧憬じみた、幼い頃に読んだ童話の一場面のようなもので。昨晩見た夢の内容を誰かに話している内に、その美しさが失われてしまうみたいに。言葉を重ねるごとに、そこに儚く存在する何かが立ち消えてしまうような気がした。
誘惑する娼婦の前を素通りして、次の歓楽街へと向かう。その先は風俗街だった。こちらは今までと打って変わり、酔客の叫声が響くこともなくひっそりとしている。それでも街の灯かりは同じくらい煌びやかで、中でも一際大きく光輝く建物がある。
『ミュージアム』という仰々しい名の冠せられた黄金色の建造物は本来の意味としてではなく、いささか立派過ぎるけれど、これでもれっきとした娼館の名称である。
経営者の名は『オールド・スポート』。明らかに偽名と分かるその人物は通称こそ広く大衆に轟いているが公の場に姿を現すことは一切なく彼の本名は誰も知らない。
唯一分かっていることといえば、彼はこの六番街に数多くの系列店を構え、決してささやかとはいえない富を蓄えているということくらいだ。
他にも実はその正体は企業の重役であるとか。あの『マダム・リンダ』のかつての恋人であり、彼女を見出したのは他ならぬ彼自身であるとか。だけどそれらはどれも根拠のない、あくまで噂の範疇を出ないものであった。
荘厳な両開き扉の前には、タキシード姿の男が二人立っている。彼らもまた娼館の従業員なのだろうが、その堂々たる風格は高級ホテルの「ドアボーイ」を思わせた。
客引きのような品の無い行為はせず、ただじっとその場で来るべき客を待ち受けてそっとドアを開くだけだ。そして客が通過し終えると、またそっとドアを閉める。
ドアの開閉、それが彼らの仕事の全てだった。ひたすら声を掛け続ける客引きと、じっと立ち続ける彼ら、果たしてそのどちらが幸福であるのか僕には判らなかった。
ミュージアムの前を通りすぎると、その先はさらに閑散としていた。小さな窓からぽつりぽつりと灯かりが漏れてはいるものの、いかがわしいネオンに彩られた看板や派手な電飾は一つも見受けられない。あるいは寝静まった民家と見間違えるほどに、一切の物音もせずひっそりとしている。酒と女によって与えられる一時の幻想から、一瞬にして現実に引き戻すかのような風景だった。
直前に圧倒的勝者ともいえる、瀟洒で豪奢な建造物を見てきたせいかもしれない。日光のある屋外から暗室に入ったように、瞳孔の伸縮が追いついていないのだろう。だがそれを差し引いたとしても、この辺りは繁華街の一部にしては白け過ぎていた。
看板に傷の入った店の前を通り過ぎ、異臭がする路地を息を止めたまま素通りしてようやく行き止まりに行き当たる。
眼前に一つの巨大な建物があった。ミュージアムと同じくらいの大きさだろうか。だがそこにはやはり一つの灯かりもなかった。忘れ去られた「ワンダーウォール」の如く、そこに辿り着いた者はただ踵を返すのみ。それでも僕は終着駅の扉を開いた。
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